第一部 痕印

始話 覚醒

 カチッ、カチッ、カチッ――。


 規則正しい針の音だけが響く、夕暮れ時の図書室。物静かなその一隅で一人黙々と読書に励む男子生徒が居た。頭髪こそ墨汁で浸したかのように真っ黒だが、真新しい学生服は適度に着崩されており、真面目とも不良とも付かない印象を受ける。


 生まれつきの極度のツリ目から生じる鋭い眼光を手元の本に向けながら、彼は分厚い書物に記載された内容を時折メモを取りつつ、慎重に読み進めている。


 図書室内に他の利用者の姿はない。書架管理を取り仕切るはずの図書委員も貸出カウンターの隅に鍵を残して、そそくさと帰ってしまった。ちょっとした職務怠慢だが、男子生徒は不満も垂れず、むしろ好都合だと受け入れた。読書に集中出来る環境を提供して貰えるのなら、戸締まりくらい安いものだ。


 ふと、壁際に備え付けられた時計の時刻を見て、男子生徒は自然とページを捲る速度を早めた。下校時刻を知らせる鐘はとうに鳴り終えており、もうじき宿直担当の教師が巡回にやって来る頃だ。ブラインド越しから射し込む夕陽の漏日が、室内を茜色に染め上げている。


 やがて巻末にある総括のページに辿り着くと、男子生徒はメモを取っていた手を止めた。白角にまだら模様の天井を見上げ、疲労の溜まってきた目頭を指で摘むように押さえながら、負の思いが籠もった重々しい溜め息を唇の中央から吐き出す。


(駄目だ、ここにも載っていない)


 右手に持ったシャーペンを指の間でクルクルと廻しつつ、沈んだ気分を紛らわせようと試みるが、上手くいかない。度重なる調査も四度目の空振りを迎えると、いよいよ空虚な感情が多勢を占めてくる。あの日見た光景は、全て幻覚だったのではないか。そう思わざるを得ないほど、彼の求めている情報は何処にも無かった。


(まるで都市伝説の類だな)


 皮肉と自嘲の入り混じった感想を胸中で呟きつつも、表情にはどこか諦めきれない念がある。


 あの日、入学式の日の帰りに友人と立ち寄った駅前のファーストフード店内で遭遇した、無差別傷害事件。その渦中で、フード付きの青いパーカーを着た犯人の男は、彼の前で確かにこう自称した。

 

――痕印者スティグマータと。


(馬鹿馬鹿しい。単なる頭のおかしい野郎の妄言だ)


 中途半端に書き記したメモから目を離し、そっと瞳を閉じてみる。瞼の裏側に色濃く焼き付いているのは他でもない、彼自身が見た光景だ。何もない空間から突如発せられた不可視の刃。それによって幾重にも切り刻まれるソファーの残骸。派手に打ち破られたガラス張りの自動ドア。鮮血混じりの学生服の切れ端。


 不意に息苦しさを感じて瞳を開くと、首筋にじんわりと嫌な汗が浮かんでいた。不快な気分を誤魔化すように、パタンと荒々しく本を閉じると、背表紙の裏に溜まっていた埃が舞い上がる。


「えほっ、けふっ」


 丁重に扱え、という本からのクレームだろうか。


(……さっさと帰るか)


 くしゃりと握りつぶしたメモを鞄に押し込んでから、男子生徒――赤坂秀彰あかさかひであきは貸出カウンターに置かれた戸締り用の鍵を拾い上げ、その足で職員室へと向かった。

 

 鍵を返却した帰り際、下駄箱から校庭を覗くと、傾き始めた夕陽がグラウンド一面を紅く染め上げている光景に遭遇した。まるで絵画のように風情溢れる紅の海に霧笛のごとく響くのは、サッカー部の勇壮な掛け声だ。皆が一丸となって白黒の珠を追いかけ、競り合い、肩や膝を激しくぶつけ合っている。


 必死なのはフィールドにいるプレイヤーだけではない。甲高い声を張り上げつつ、精一杯に応援を飛ばしている女子マネージャー。その傍らで腕を組み、選手一人一人のプレイを見守りながらも、時に荒々しく指示を出す顧問の教師。その遠巻きには観客らしい、制服姿の生徒達もチラホラと見受けられる。


(……青春だな)


 同世代だというのに、秀彰はやけに遠い目をして見つめている。何かに熱中出来るというのは、それ自体が一種の才能だ。勉強や運動、趣味に恋愛。どれを取っても中途半端な気持ちしか抱けない自分には、彼らの存在が夕陽以上に眩しく映ってならない。


 名も知らぬ彼らの世界から逃げるように、秀彰は背中を丸めながら校庭の隅を歩く。途中、何人かの生徒とすれ違ったが、半数くらいは彼の顔を見ただけで逃げるように走り去っていく。まるで指名手配犯のような扱いだ。


「ったく、俺も有名になったモンだな」


 わざと吐き捨てるように、秀彰は愚痴を零した。思い当たる理由は一つしかない。


 入学式当日に起こした他校生徒との喧嘩騒動。後にそれは痕印者と名乗る男による無差別傷害事件へと発展するのだが、そちらの方は学校側からも警察側からも深く追求されず、結局有耶無耶になった。

 ともかく、入学早々他校の生徒と殴り合いの喧嘩をした事で、秀彰は二十日の停学処分を食らい、めでたく不良生徒の仲間入りを果たしたという訳だ。


 停学期間が短く済んだのは、他校の不良に絡まれていた友人が「これは正当防衛だ」と校長に直談判してくれたお陰らしい。しかし悲しいかな、停学が解け、晴れて復学する頃には、彼の名前と顔は校内に広く知れ渡っており、面識のない他学年の生徒からも恐れられるほどの有名人になっていた。気安く話しかけてくる人間なんて、教師を含めても右手で数える程度しかいない。


「お、今ちょうど帰りかい?」


 秀彰が仏頂面をしながら校門をくぐり抜けようとしていると、背後からやけに爽やかな男子の声が掛かった。振り向かずとも誰かは分かる。名の知れた問題児に軽々しく口を利ける人物なんて、そう何人も居ない。


「珍しいね、秀彰がこの時間まで学校に残ってるなんてさ。帰宅部のくせに」

「帰宅部だからってすぐに帰宅するとは限らないだろ。今日は図書室で調べ物だ」


 肩に掛けたタオルで額の汗を拭いながら近づいて来たのは、クラスメイトの土方信吾ひじかたしんご。女の子受けする甘いマスクと、どう見ても地毛ではない茶髪がトレードマークの優男だ。

 停学要因となった例の喧嘩騒動に居合わせた友人であり、秀彰の正当防衛を立証してくれた恩人でもある。


「へぇぇ、すると中間考査の予習ってコトか。意外と真面目なんだねえ」

「いや、試験勉強はしてない。気になるオカルト現象について調べていただけだ」

「それ、どういうこったよ……」


 呆れた顔をして信吾が秀彰を見やる。その服装は、先程まで校庭を走り回っていたサッカー部のユニフォームのままだ。あれだけ走り回った後だというのに、息一つ乱れていない。


「そっちの練習は大変そうだな」

「いーや、全然。楽な方だよ。オレの居た中学は全国大会の常連だったからさ、スパルタ教育なのは当たり前。陽が落ちても照明付きの専用グラウンドで延々と練習させられるから、皆裏でゲロゲロ吐いてたよ」


 それに比べたらこっちは天国だね、と信吾が笑いながら呟く。軽快な口振りとは対象的に中々ハードな内容だ。秀彰は普段通りの仏頂面のままで、笑みの欠片もない。


「そうそう、秀彰。どうせ暇してんなら、一緒にサッカーしようぜ。お前ならすぐにレギュラー取れるって」

「無茶言うなよ」


 何の根拠も感じない独断的な推薦案を、秀彰はすぐさま否定した。強豪校出身を自負するだけあって、信吾は早くも上級生達を脅かすルーキーになりつつあるという。それでも疎まれるどころか、逆にチームの中心となって盛り上げているのは、ひとえに彼の憎めない人柄故だろう。


 部活だけではなく、クラス内でも信吾の人気は高い。学年や男女の垣根を越えて慕われている彼を見ていると、秀彰は羨ましさを感じる反面、どこか申し訳ない気持ちにも苛まれる。


 自分みたいな問題児と一緒に居ることで、損をしているんじゃないか。余計な迷惑を被っているんじゃないか、と。本人は決して口にしないが、秀彰が傍に居る時の周りの反応は目に見えて薄遇だ。


「おーい、秀彰くん。さっきから黙っちゃってるけどさ、オレの話ちゃんと聞いてます?」

「……聞いてない」

「そこは嘘でも聞いてるって言えよー!」


 信吾の快活な笑い声に、秀彰の中の辛気臭い気分が少しだけ晴れていく。普段は脳天気なクセに、他人の心の機微には敏感なのが、この土方信吾という男の特徴だ。停学期間を除けば一ヶ月にも満たない短い間柄だというのに、まるで数年来の友人であるかのように錯覚してしまう。


 沈みかけた夕陽に背を向けながら、その後も秀彰と信吾はくだらない会話を続けつつ、僅かな光に照らされた下校道を並んで歩いた。大小合わさった笑い声が夕暮れの空に吸い込まれ、やがては駅前の喧騒へと飲み込まれていく。


 平穏な日常。どこか退屈で、熱の篭もらない毎日。

 それが突如として崩壊することを、この時の秀彰は確かに望んでいた――。



   ※


 

 どれくらいの時間が経っただろうか。呼吸も満足に出来ないほどの苦痛に呻きながら、秀彰はぼんやりと考えていた。


「はぁはぁ……、ぐ、ぐぅ………っっ!?」


 リビングの壁に掛かった時計を見る。時刻は午後七時半。普段なら母親が作り置きした夕飯に手を付け始める時間帯だが、今日ばかりはそうもいかない。

 鋭い痛みが走る右肩口を懸命に押さえ付けながら、秀彰は灰色のソファーにうずくまって、独りもがいていた。 噛み締めた歯の間から潰れたような声が漏れ、ヒュウヒュウと耳障りな音を奏でている。


 例えるなら、焼き付けた刃物で肉体を少しずつ刻まれていくような、おぞましい痛み。これが何分間も途切れずに続いている。額にはべっとりと脂汗が浮かび、先の見えない恐怖感が孤立した彼の心を蝕んでいく。

 失神すら許されない責め苦に、何度も気が狂いそうになる。


(念の……ため、救急車を、呼んでおくか……)


 残り少ない理性を総動員させ、119番に連絡しようと学生服のポケットを探ろうと試みた。


(あった―――)


 指先が携帯電話の筐体を探り当てた瞬間、秀彰は体勢を崩してソファーから滑り落ちてしまった。


「ぐ、ぐぐぐっっ、ぅ…~~…!!」


 硬いフローリングに頭をぶつけたが、痛みはまるでない。転がった携帯電話を追いかけようと、秀彰は芋虫のようにズルズルと床を這って廻った。必死の思いで手を伸ばし、携帯電話を掴む。


 すぐさまダイヤルしようと顔を上げた。目の前にはビデオデッキを収めたガラス製の棚がある。滑らかなガラスの表面に光が反射し、そこに映った自分の顔を見つけて、秀彰は数秒の間、呼吸を忘れた。


「な、んだこの……傷っ……?」


 はだけた襟元から薄っすらと見えた肩口。そこには、見覚えのない傷が浮かんでいた。傷と呼ぶには妙な形だ。さながら農場に出来たミステリーサークルのように、その傷らしき奇怪な跡には規則性があった。幾何学模様、と言うのだろうか。曲線と直線を複雑に織り交ぜたその模様は現在進行形で広がっており、刻んだ痕をなぞるように青白く発光していた。


 そして、はたと気付く。この傷には微かに見覚えがある。


「ま、さか……っ」


 それは初めて出会った痕印者の首筋に刻まれていたタトゥー。パーカーの下に隠していたあの模様と酷似したモノが、今自分の肩口に刻まれている。


 つまり、これが――。


「これが痕印スティグマ……っ?」


 まるで端から知っていたかのように、喉元からすっとその言葉が出てきて秀彰は驚いた。痕印スティグマ――すなわち、痕印者スティグマータであることを示す資格ライセンス。それが正しい呼び名なのかは分からないが、今の彼には些細なことだった。


「く、くふふ、ふふ……ははは、ははっ!」


 沸き上がってくる喜びと猛りが、奇妙な笑い声となって溢れ出す。痕印をなぞる薄ぼんやりとした青い光は暫しの間点滅を繰り返した後、やがては完全に消光した。光の奥から現れたのは、針で彫ったような見事な幾何学模様のタトゥー。限られた者のみが知り得る、異能者の証だ。


「あはははっ、あっははっ、あはははははっっ!」


 秀彰は狂ったように笑い続けた。先程まで続いていた激痛は嘘のように収まり、鬱屈していた反動からか、今では爽快な気分だけが残っている。


「ははっ、やった、やったぞっ! これで俺も痕印者だっ、ふは、はははっ、がはっっ!!」


 振り切れた高揚感が脳組織を溶かし、普段なら考えもしない仮説が湧いて出てくる。然るにこの世には本当に神様がいて、自分の痕印への執着心を認めてくれたが故に、こうして力を授けてくださったのかもしれないと。


「がはっ、がははっっ」


 普段は信仰心の欠片もないくせに、都合の良い時だけ神様を引き合いに出す自分がおかしくて、秀彰はさらに笑い転げた。


「……くふ、ふ、はは……はっ……」


 やがて笑う体力すら底を尽きると、秀彰の意識はぷっつりと途絶えた。いつ醒めるかも知れぬ、泥のように深い眠りの園へと堕ちていく――。

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