スティグマータ・ライセンス

蓬零介

プロローグ

前話 小さな痕印者

 鬱蒼と茂る深い森の中を小柄な影が一つ、歩いていた。


 完全遮光の大きな鍔付き帽子を目深に被っているせいで、顔つきや性別は窺い知れない。昔の探検隊のようなカーキ色のジャケットを着用したシルエットは小さく、少年とも少女ともどちらにも見える。


 数日前に降った雨も未だ乾かぬほどに泥濘塗れの悪路の中を、その人影はまるで苦にもせず早足で奥へ奥へと進んでいく。やがて道外れの窪みを避けようと軽快にジャンプで飛び越えた刹那、足元でパキリと枝の折れる小気味良い音が鳴った。


 音の反響は直ちに深い森の中を淀みなく伝わり、


「ゲェッ、ゲゲゲッッ」


 招かれざる森の暴君を呼び覚ましてしまう。


 よほど腹が減っているのか、或いは常時血肉に飢えているのか。暴君は森の侵入者を見て大いに嗤った。『餌がキタノダ』と言わんばかりに、その獰猛な顔付きをさらに歪ませる。


 森を歩いていた者は「しまった」というニュアンスで唇を横に開き、舌を引っ込める。その音を立てない独特で奇妙な舌打ちは、彼ないし彼女の癖になっていた。


 小柄な侵入者は目の前に現れた怪物を見ても怖気つかず、不気味な体をしげしげと観察し始めた。全長2メートル半以上はゆうにあろう巨体の怪物の厳つい顔は猿に似ているがその胴体は牛のようにずんぐりと太く、背に生えた翼は広げれば大鷲の如き強大さで、しかし尻尾は蠍のように茨状に棘を含み……。


 何もかもチグハグなパーツで構成された怪物の唯一の共通点と言えば、それら全てが破壊や殺戮という面に特化した性能を持つということだろう。


 人間が観察している間、怪物の方もまた人間の体を観察していた。どろりと濁った眼が人間の全身を舐め回す。常人ならその不気味な瞳に魅入られただけで卒倒モノだが、この場にいる人間にはそうした様子は欠片もない。


 両者とも沈黙した時間が過ぎる。と思いきや、そんな時間は1分と持たなかったようだ。


「ゲシャァァ、シャァァァ!!!!!!」


 怪物は大鷹の如き翼で自身の巨躯を持ち上げると、電光石火の速さで突進した。筋骨が異様に発達した体躯からは考えも付かないほど、怪物の風を帯びた突撃は疾い。だが怪物の狙いは縄張りを荒さんとする小さな侵入者ではなく、間に入る木々や鳥たちを撥ね飛ばしては森の中を狭苦しそうに暴れまわっている。


 何故こちらの方へ一直線に飛びかかってこないのか。怪物の奇妙な行動が理解できず、人間は眉を潜めた。だが、深緑の大地を踏み荒らす怪物の動きは苛烈で、無闇に近付くことはできそうにない。


「……っ、ぅ……!!?」


 やがて怪物が発する衝撃の風圧によって、人間の被っていた帽子が吹き飛んだ。鍔長の帽子は上昇気流に巻き込まれ、あっという間に上空へと舞い上がっていく。


「……あっ、帽、子……っっ!!??」


 よほど気に入っていた帽子なのか、怪物との戦闘中だというのに持ち主は急に慌てだした。すぐに頭上を見上げたが、帽子の行方は既に追えない地点まで流されている。


「ぁ…っっ、あ~~~……」


 酷く残念そうな声を出しつつも、人間は帽子の追索を諦めた。吹き飛んだ帽子を眺める目は細く、少し茶色に染まった黒髪が靡いている。帽子の下から現れた顔は少女だった。


 顔だけ見ると中学生くらいの年齢に見えるが、その相貌に宿る光は精悍でただならぬ決意が窺える。何故、少女はこんな森の奥深くまで入り込んでいるのだろうか。遊んでいるうちに迷い込んだ、なんて事は考えられない。


 何故ならこの森は現在、全面的に立ち入り禁止の看板とテープによって閉鎖された『特一級危険地帯』の森なのだから。


「ま、仕方ないわね」


 一転して至極冷静な声色で呟いた少女は怪物に向き直る。いつしか彼女の瞳からは帽子の行方を眺めていた時の無邪気さは消え、代わりに特異な職務を遂行する専門家としての慧眼さが浮かんでいた。


(真正面からの接近戦は論外、左右から揺さぶろうにも木々が邪魔をする。とはいえ間合いを取り過ぎれば攻撃が通じない。なら、木々を障害物として使いつつ後ろに回り込んでカウンター、が一番無難で効果的だわね)


 演算するように思考を巡らせていると、周りの木々を破壊しまわっていた怪物がようやく動きを止めた。すぐさま周囲の状況を確認しようとして、少女はぎょっと目を見開く。いつの間にか彼女の周囲には切り倒された木々がさながらバリケードのように折り重なるように積まれ、怪物の存在認識を阻害していたのだ。


 怪物は最初からこの状況を狙っていたのだろうか。だとすればこの異怪種は、通常のモノとは明らかに違う「知性」を持っていることになる。


(過去のあらゆる記録を見ても、異怪種に「知性」の発生例は確認されていない。でも、こいつはどう考えても―――)


 そう思考を纏めていた刹那、少女は直感に従って後ろに跳ぶ。直後、積まれた木々を打ち壊しながら現れた怪物が長尾を振り回し、少女の居た空間を攫うように空を切る。あと一秒遅ければ今頃はミートハンマーに潰された食肉のように無惨に潰されていただろう。耳元に残る重厚な風切音に戦慄が隠せず、少女の頬が思わず引き攣る。


(やってくれるわね……っ!)


 さらに怪物が鋭い爪を突き出しながら突進してくるが、これを少女は稲妻の如き素早いサイドステップで回避していく。狙いは心臓一点のみ。ならば避けることも容易いだろう。


 怪物の一撃は少女の体を、ほんの数センチという所で通り抜けていく。わずかに重心をずらしたことで、彼女の身体は自然と地面へ倒れこんでいった。少女の口端に笑みが浮かぶ。ほら、こうすれば簡単に避けられるだろう、と余裕げに。


 だが、彼女の目論見は外れていた。常識の埒外にある巨体の猛進が生んだ衝撃波は少女を安々と飲み込んで後方へと吹き飛ばした。


(うっそ、でしょっ!?)


 見るからに体重の軽い少女は吹き付ける衝撃に耐え切れず、木の葉のように舞った。少女の後ろ、衝撃波の進行方向には大木が待ち構えている。


 激突すれば継戦不能、或いは死か。幻想の一つも抱く暇などない非情なる現実を前に、しかし少女は冷静だった。少女はそのままくるりと空中で身を翻し、大木との激突を回避する。しかし、それでも衝撃波は完全には打ち消しきれず、木の葉の絨毯上を滑走していく。


 合成繊維を手で思いっきり引っ張るような嫌な摩擦音が鳴り止んで、少女が起き上がった。苦痛を感じて目線を落とすと、対怪物専用装備であるはずのジャケットやズボンがボロ布のように擦り削られている。


「……あー、もう」


 少女は不平を零しながら服を叩き、土汚れや埃を払い落としていく。無理に手を使って滑走の勢いを殺したせいか、彼女の掌の皮膚は血と土で赤黒く変色してしまっていた。


 突進を避けても少女の体格では衝撃で吹き飛んでしまう。こうなれば接近戦は無謀だ。少女は歯痒さと湧き上がった怒りを隠そうともせず、既に森の奥深くに姿を眩ました異怪種を睨みつけた。


「予想以上に手強いヤツだわね…、これなら真道でも借りてくればよかったわ」


 吐くように呟いて、少女は通り過ぎ去った怪物の軌跡を辿る。対峙した時は何とも感じなかったが、一戦を交えて以来評価が変わった。


 知能を持った異怪種の怖さ。これほどまで厄介になるとは想定外だ。


(あれだけ乱暴に動き回っているのに、隠れる際は上手く木々の間に体を滑り込ませてるなんて……どれだけ芸達者なのかしら)


 怪物の入念な下準備の理由がようやく分かった。全方位の木々が折り重なるよう巧妙に弾き飛ばされているせいで、奴がどこに隠れているのか分からない。


 加えて羽ばたきによる突撃に邪魔な障害物が無い分、こちらも隠れるスペースが消失している。上手く考えたものだなぁ、と少女は敵ながら感心した。


(攪乱と防衛を同時に行ってくるとは予想外だわ)


 右方向から嫌な風を感じて、少女は後ろへと跳躍する。間一髪、彼女のいた場所を怪物の巨体が飛び込んできた。


 すぐさま、少女は首を左右に動かして怪物を追う。彼女の目に飛び込んでくるのは、縦横無尽に生い茂った草木のみ。怪物の軌跡を教えてくれるのは戦場の勘と微かな風だけだった。


(これは本当に――マズイかも)


 少女の額に幾つもの汗が浮かんできた。

 再度、怪物の巨体が接近する。今度は左側方からだ。舞い上がる木の葉が警鐘代わりになっていた。


 頬に痛いほどの風圧を感じながら、少女はすぐにその場を離れた。そのまま木の少ない森の中をジグザクに走り出す。出鱈目に動いて相手の狙いを逸らす。そうすれば単調な歩行よりも狙いが定めにくいはず。


「グァガ、ガガッッ!!!!!!」


 だが、怪物は敢えて彼女を全力で追尾はせず、大翼をはためかせて滑空しながら視認距離を保っている。より確実に仕留めるために、少女の体力が尽きるのを泰然と待ち構えているのだろう。


 それでも二物の距離は徐々に縮まっていく。必死に逃げながらも、少女は切り返しの機会を窺っていた。


(このままじゃジリ貧ね。何か打開策を考えないと……)


 ふと彼女はその場で立ち止まり、考え事をするように頭を下げた。そこへ怪物の凶爪が差し迫る。


 ブォォォン。

 風を切る重たい爪牙が森の空気を揺らした。


 太い樹木の幹さえも容易く伐採する必殺の一撃が、無防備な少女の背中ごと刈り取る……かと思えたが、今一歩の所で突如怪物が身を退いた。いや、よく見れば怪物の爪からしゅうしゅうと焦げ臭い煙が立ち上っている。


 怪物が貫きかけた少女のジャケットには対怪物用の特殊な仕掛けが施されていたのだ。内部には極細の針金のようなものが張り巡らされており、その金属糸は少女の手元にまで伸びている。彼女が望むタイミングで能力を行使できるように。


 人を凌駕する化物、『異怪種』。


 かつて人類はこの怪物たちを前に為す術もなく蹂躙され続けた。有効な対策手段を打ち出せなかった政府は混乱を避けるために情報規制を敷き、犠牲者は神隠しにでもあったかの如く闇に消えた。表面上の平和は守られ、しかし世界は確かに侵食されていったのだ。


 そんな未曾有の危機に瀕した人類が生み出した唯一の希望。

 それが少女のような異能を持つ能力者、『痕印者』だ。体のどこかに「痕印―スティグマ―」と云われる謎の痕を持つ人間のことで、超自然的な力を発揮できるという。


 少女は自ら「ミカヅチ」と名付けた痕印を背中に持っていた。

 古事記に出てくる雷の神を冠するそれは少女に電気を操る能力を与えた。先程の攻撃も少女が持つ静電気を増幅させ、金属糸に高圧電流を流しただけにすぎない。ただし人が触れれば即昇天レベルの威力で、だが。


 もう一つ、彼女には秘密があった。


 異怪種を始末する日本で唯一の政府公認機関、公安特務執行部。通称「特行」。

日本中から化け物染みた人間が集まる超法規的機関だが、その存在が表に出る事はない。民間人を守るため、徹底した情報統制が取られているからだ。


 少女はその『特行』に属する痕印者だった。幼い外見とは正反対に任務遂行能力は他の痕印者の追随を許さない。故に彼女は特行の中でも幹部クラスの地位を持っていた。


(チッ、もう少しだったのに…)


 雷撃の直撃寸前で避けられ、少女は悔しげに舌打ちをする。予定では爪どころか腕ごと電流で焼き払ってやろうとしたのに、相手の対応が思った以上に迅かったせいで失敗に終わってしまった。


 だが、今回は敵の動きを称賛する余裕など無かった。


 怪物が振り向き様に繰り出してきた長い尾の一撃に、少女は分厚い鉄の入った防護ジャケットごと弾かれてしまう。吹っ飛んだ体は木の枝をへし折りながら、数メートル後方まで転がっていった。


「ぐ、ぅぇ……っっ!!?」


 ようやく停止した身体に鞭を打ち、少女はよろよろと起き上った。頭が揺れているのか、視界がまだぼんやりとしている。肺の部分も強く殴打されたため、呼吸もままならない。護身用にと支給された特製の防護ジャケットがなければ確実に内臓破裂、運が悪ければ息絶えていただろう。


 それでもなお、少女の瞳から闘志は失われていない。むしろ戦いが始まってからより一層燃え上がっている。


(痕印者の体ってのは、こういう時に便利だわね)


 口端に血が滲み出ていることに気が付き、少女は笑みと一緒に拭い去った。

 常識では考えられないような肉体の回復力。これもまた痕印者の持つ特異能力の一つだ。適切な処置さえあれば、例え腕が折れても内蔵が損傷しても驚異の速度で治癒してしまう。


(けど……それも限度がある。痕印者は決して不死身なんかじゃないんだわ)


 少女は痛みを堪えながら立ち上がると、改めて怪物が消えた方角を睨んだ。奴は既に森の奥深くへとその巨体を隠し、次なる襲撃の機会を窺っている。


 攻めては退き、好機と見ればまた攻める。古典的なヒット&アウェイの戦術だが、天然の障害物にまみれたこの地形では恐ろしく調和している。


 まさに天然の罠。狩人が獲物を追い詰めるための戦術を異怪種の知性が再現したとすれば驚愕の事実だ。これを特行の研究者たちが知ればどんな顔をするだろうか。


(って、そんなことを考えてる場合じゃないわね)


 今すべきは目の前の脅威に対して最善の対処をすることだ。思考はシンプルに、かつ明確に。戦うか、それとも逃げるか。


(逃げる?)


 少女は自分で思い浮かべた選択肢を鼻で笑った。


 なんて臆病なんだろう。

 対異怪種のスペシャリスト集団、『特行』の中でもとりわけ異質とされた自分が、たかだか禁種指定の異怪種一匹で怖気づくなんて。


(狩人が兎を前にして逃げるだなんて、馬鹿馬鹿しいにもほどがあるわよ!!)


 胸元のポケットにしまい込んだペンダントを服の上から握り締め、少女は覚悟を新たにした。


「すぅ…っ」


 深く呼吸して、体内の酸素濃度を上げていく。肺胞が空気で満たされ、血液中の酸素が増加した。全身が熱を帯びてくる感覚を味わいながら、少女はもう一度現在の状況を整理してみた。


(私がこの森に来た理由は『禁種に指定された特一級異怪種の殲滅』)


 日本各地に出現した異怪種を危険度や個体数、特殊能力によって分類し、優先的に駆除すべき順位付けをするのもまた公安特務執行部の仕事である。


 彼らは公安の中でもより上位の権限を持っており、独自に調査員を送り込み、必要であれば痕印者による武力介入も可能とすることが認められているのだ。


 そうして今日、特一級の危険性を持った異怪種の駆除任務を請け負ったのが、ここにいる少女なのである。


(この異怪種は合成獣系等の亜種。名は『嵐』。主な攻撃方法は羽ばたきによる突風。鋭い爪、牙、長尾なども確認されている。特筆すべき点はその高い知性と学習能力……ってところかしら)


 そう心の中で呟けばなんのことはない。異怪種の行動パターンは既に読めている。ただあの翼の前では少女の能力を持ってしても近付くことすらままならない。


 ならばどうする?


(突進さえ防げばいい。奴の動きを封じることが出来れば、私の勝ちよね)


 ジリィと、彼女の手から静電気が迸る。元々静電気の溜まりやすい性質の彼女にとって、この能力は幸いだった。


 本気を出せば象も瞬殺できるほどの電圧を相手の身体で流し込むことも可能だ。相手に触れることさえ出来れば、あの怪物だって一撃で仕留める自信はある。


 対策を練り上げている彼女の耳へ、翼を羽ばたかせる微かな音が届いた。


(――ッッ、時間が無いわね!)


 迫り来る風の音が聞こえる。たった一度だけでもあの突進を妨げることが出来ればいい。いうなればそう、煙幕のようなものがあれば――。


(そうだわ!!!)


 思案する少女の目に入ったのは大量の木の葉。秋という季節柄、ありとあらゆる場所に枯れ葉が舞い落ちている。


(一か八か、賭けてみるわよ、自分に…!!)


 起死回生の手段を閃いた少女は迫り来る怪物を無視して、落ち積もっている枯れ葉に向けて電撃を送り込んだ。


 少女の体に刻まれた痕印『ミカヅチ』から青白眩い光が溢れ出すと、辺り一面に広がる大量の紅葉や銀杏の葉を巻き込んで発火が起こる。季節は晩秋、燃える火種は文字通り掃いて捨てるほど転がっていた。


 やがてパチパチと火花散る音とともに少女の足元から不透明な煙の壁が沸き上がる。使役者である彼女の気管にも煙が入り込むが、そんな事はお構いなしにさらに電撃の力を上げ、炎の勢いを強くしていく。


 やがて周囲に立ちこめていた煙は視界ゼロの超密度に達し、ついに少女の姿を完全に隠し通した。彼女の立っていた場所には、ただ灰色の煙が充満しているのみである。


 そこへ三度目の怪物の突進が繰り出される。が、煙に覆われたはずの少女の姿はどこにもない。焦った怪物は周囲を見渡すが、濃い煙のせいで視界も匂いも掴めなかった。正しく煙に巻かれた状況だ。


「グゥゥ、ゥゥ……!!」


 視界不良の最中、怪物は巨体を振り回しながら雄叫びをあげた。それでも煙が晴れることはなく、怪物は怒りのままに長尾を振り回して火種を叩き続ける。燃え続ける木々や葉を粉々にするほどの凄まじい風圧によって、一瞬だけ怪物の周囲の煙が晴れた。だが、それは同時に決着の合図となる。


「はい、みぃつけた」


 ズンと重みを増した怪物の背から聞こえてきたのは、少女の茶目っ気混じりの声だった。


 煙幕を焚いてから彼女はずっと木々の上に退避していた。煙が立ち込めれば少女の方も怪物の位置を視認できない。だからこそ少女は敢えて怪物が暴れて煙を払ってくれるのを待ったのだ。


 一か八かの大博打。結果として少女は賭けに勝ち、怪物の背を捕らえた。剛直な体毛で覆われた体は広く、お陰で足場にするのに苦労はない。


「ギッッッ――!!?!」

「落ちろ、『ミカヅチ』」


 生物的な恐怖を感じた怪物が振り落とそうともがくより疾く、少女が最大限の電撃をその肉体に注ぎ込んだ。


 轟くは雷鳴と絶叫。


「ギャゥゥゥォォォォォ!!!?」


 両手で怪物の背を掴みながら、少女は超がつくほどの高圧電流を流し続ける。全身が焼け爛れるような激しい電撃を受け、怪物は断末魔の声を上げながら暴れたが、しかし少女は手を離すことはない。


 時間にして僅か5秒。触れれば一撃の自信通り、怪物の体はみるみる黒焦げと化した。


 あらゆる部位を黒く染め上げた怪物が力なく倒れ伏していくのを横目に見ながら、少女はゆらりと着地した。怪物の生命活動が停止し、亡骸となったことを確認すると、少女の顔に安堵の表情が広がる。同時に緊張の糸も途切れたようで、疲れ切った溜め息まで漏れた。


「ふぅ、大変だったわ」


 パンパンと防護ジャケットに纏わり付いた葉っぱを払い落とし、少女は煤だらけになった髪を掻き上げる。一先ず依頼された仕事はこれで終わったが、問題は――、


「あらら…、これじゃ帽子も見つけられないじゃない」


 怪物を倒してなお炎上を続ける森の後始末だった。




   ※




「そ、それで、俺が駆けつけた時に消防団の人に怒鳴られてたってワケですか? がはっ、あはっ、あははははっっ!!!!!!!」

「笑い事じゃないわよっっ!! もう、死ぬ気で異怪種を倒した後だっていうのに」


 夕暮れの喫茶店。そこには先程まで異怪種と死闘を繰り広げていた少女と、トレンチコートを着た刑事風の男がいた。男の方は目の前に座る少女の部下、名を真道龍一しんどうりゅういちという。どう見ても真道の方が年上に見えるが、実年齢は少女の方が上らしい。


「そりゃあね、山火事にでもなったら大変だから消防署にも連絡しておいたわよ。なのに、まさか消防団の人がいきなり怒鳴ってくるなんて思わないじゃない?」


 そう言って、彼女は不貞腐れた様子で頬杖をついた。


「で、その消防団員にはなんて言われたんです?」

「『ここは危険だから別のところで遊びなさい』、ですって」

「ぶあっはっはっははははっ!!!!」


 堪えきれず、真道は盛大に吹き出した。腹を抱え、涙目になりながら笑う部下を見て、少女はむすっと頬を膨らませて恨みがましい視線を向ける。


 痕印者の特性として、一度痕印の啓示を受けるとそれ以後の肉体成長は著しく遅くなっていく。痕印を与えられた時点の年齢がそのまま肉体に固定されてしまうのだ。

 故に痕印者ではない普通の人間から見れば、少女は外見通り『中学生』くらいの年齢に見られても不思議ではない。


「真道。いい加減他のお客さんの邪魔になるから、黙りなさいよ」

「ひ、ははっっ、すいませんねぇ、ミコトさん」


 命の言葉でようやく真道の笑いは収まった。周りにいた客たちは二人のやりとりに不審な目を向けていたが、急に真面目になった真道の顔付きに驚いて視線を逸らした。


「それで、今回の異怪種はどういったヤツだったんです?」

「事前に貰っていたデータ通りの合成獣系統の異怪種だったわ。ただ……」


 命は一旦、そこで言葉を切る。その間を埋めるようにアイスコーヒーを口に含んだ。


「ただ?」

「今までの異怪種とは違って、かなり知能的な面があったわね。まるで『知性』が目覚めたかのようにこちらの出方を見て罠を張ったり、撹乱したり…とにかく色んな手を打ってきたわ」


 命の言葉に真道は目を見張る。今まで数々の異怪種と交戦してきた真道にとっても、そんな報告例は聞いたことがないのだろう。


「異怪種が、知性? そんなの聞いたことないですぜ」

「私もよ。本部の秘匿データベースにもそんな記録はないわ。偶然現れた個体なのか、それとも新種の可能性が高いのか……」


 顎に手を置きながら、命は考え込む仕草を取る。ふと、彼女が向かいに座る部下を見てみると、やけに真剣な眼差しでこちらを見ていることに気付いた。


(まったく…どこまで仕事熱心なんだか)


 痕印者という存在は常人以上の力を発揮できる代わりに短命な者が多い。力に溺れてアウトローな道に走る者も居れば、反対に世の安寧の為に体を張る者も居る。後者の場合、特に根が真面目な人間であればあるほど、自己犠牲の精神で任務に挑んで命を落とすことが多くなるのだ。


「ま、この話の続きは後日改めてしましょうか」

「んなっ…!?」


 出鼻を挫かれた真道は間抜けな声を出す。命はこれ以上彼に余計な言及をさせぬよう、さっさと立ち上がった。


「さぁいくわよ真道。私はもう疲れちゃったから、帰って寝たいの」


 仕方なく真道も腰を浮かし、彼女に続いた。


「ホントに続き聞かせてくださいよ。命さんってばいっつも話はぐらかすからなぁ」

「それはアンタも同じでしょ。ほら、早くお会計してくれる?」


 そう言って命は自分の分の伝票を真道へと押し付けた。こういう所だけはちゃっかりしている。ちっと舌打ちをしながら真道は渋々飲食代の支払いを済ませようとレジに並ぶ。


「なぁんかいっつも俺が払ってる気がするんですけどねえ…たまには命さんが払ったっていいんじゃないです?」

「……へい?」


 真道は嫌味のように首を後ろに曲げて命の方を見ようとしたが、そこには知らないおっさんの顔があった。どうやらあの小さい上司は先に車の方へと向かったようだ。


 途端、真道の額に冷や汗が浮かぶ。どうにもあの上司が一人で動き回ると、待ち構えていたかのようにトラブルと衝突するのだ。


「ありがとうございました~」


 レジ担当の女性が発するお礼の言葉を背後で聞きながら、真道は急いで店外へと飛び出していく。そして自分の停めてある車の前まで駆け抜けると、呆れたように溜息を吐いた。


「どうしてあの人はこうも俺の期待を裏切らないんだか」


 そこには数人の警官たちと揉めている上司の姿があった。ぎゃあぎゃあと言い争う声がここからでもハッキリ聞こえる。


 真道はごそごそとズボンのポケットを探る。やはり車のキーがない。レジに並んでいる間に抜き取られたのだろう。だとすれば事の発端は――、


(まさかあんな格好で車を運転しようとしたのかぁ? そりゃあ、警官たちも止めるよなぁ…)


 いくら実年齢が30歳を超えてるとはいえ、命の顔立ちや身長はそこらの中学生と大差ないのだ。しかも彼女が持ってきた替えの私服は何故か低年齢層が好みそうな「いかにも」なデザインをしているのだから質が悪い。


(つーか、さっきもその事で苦労してたんじゃないのか?)


 真道は指先でこめかみを押さえながら、諍いの元凶へと近づいていく。


「だ~か~ら~私はもう30歳を過ぎてるのだわよ! 分かるっ!?」

「キミィ、嘘はいけないよ。それならちゃんと免許証を見せなさい、ほら」


 聞えてくる会話の切れ端を集めると、やはり真道が推測していた通りの状況だった。命が運転席に乗り込んでいたところをたまたま近くをパトロール中だった警官に見咎められてしまい、現在の騒ぎに発展してしまったらしい。


 このままでは感情的になった命が自身の正体を明かしかねない。そう危惧した真道は、すっと警官たちとの間に入っていく。突如乱入してきた部下の姿を見た命は、救いの神を見るような眼差しで真道のことを見上げた。


「し、真道ぉぉ~~~~!!!!」

「はいはい、遅くなりました……あぁ、すんませんねぇ、コイツ俺の妹なんですよ」


 警官に早く立ち退いてもらうために、適当な嘘をつく。顔の作りも雰囲気も兄妹と言うには全然似てないが、警官たちも命の面倒くささに辟易していたのか納得して頷いた。


「あぁ、なるほど。妹さんでしたか。それならいいんですよ」

「いえいえどうも。コイツ、かなりのやんちゃっ…でして、ご迷惑お掛けしました」


 やんちゃ、という言葉に反応して命が蹴りを入れてくるが、真道は無視して警官に話をつけた。ようやく警官たちが元のパトカーへと去っていったのを見送って、二人は車の中へと入る。


 残るは、見るからに不機嫌そうな少女の機嫌直しだ。


「………もう!!! いつもならこんなことないのよっ!!?」

「気持ちは分かりますがねぇ、ま、帰りましょうや」


 そう言って真道は車のキーを回す。ドゥルルルル、と古めかしいエンジン音を響かせながら、年代物の車はゆっくりと走り出した。


 窓からは夕暮れに染まる街並みと、そこに住む人々の平凡な生活が流れている。それを車内から眺める命の横顔は、どことなく憂いを帯びたものになっていた。


「ねぇ、真道」

「なんですかい?」

「もしもこの世から異怪種が絶滅すれば、私達の役目って一体どうなるのかしら?」


 何気なく、まるで世間話でもするかのように命は語り出す。


「どうなるって――、別に普通の人として暮らせばいいでしょう?」

「そうよね、その通りよね」


 命の相槌にはどこか皮肉的なニュアンスが混じっていた。それに気付いた真道がチラリとルームミラー越しに命の方を見ると、彼女は無表情のまま窓の外を見ていた。


「私達、痕印者がいなくなれば、世界は今よりもっと平和になるのにね…」


 ポツリと呟いた命の言葉が、車の中でやけに空しく響く。つい数時間前まで人類の敵と死闘を演じてきた人間のものとは思えない、無力な声だった。


「……そう、ですね」


 真道の口から出る同意もまた、これ以上話を続ける気のない声色だった。そんな暗い車内の空気を吹き飛ばすように、真道は強くアクセルを踏み込んで一段とスピードを上げた。


 時は昔。

 数多の痕印者たちとの戦いの中に身を投じた男子高校生――赤坂秀彰が覚醒するよりも、五年も前の話。

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