母親のこと
ゆさゆさ、ゆさゆさ
私の記憶は、いつもこの揺れから始まる。
ゆさゆさ、ゆさゆさ
真っ暗闇の中、ふわふわと身体が浮いているような感覚。時折硬い地面に置かれ、またふわりと浮かび、やがてどさりと下ろされると、そこで初めて視界が開ける。
視界に広がるのはいつも、見知らぬ誰かの部屋。身に覚えのない家具や調度品の数々。
私の隣では、知らない男が眠っている。どこかで会った記憶もない男。何故私はこんな男と一緒に眠っていたのだろう。
「あれ、まだリセット終わってないはずなんだけどな」
声のする方を見ると、黒ずくめの人物が立っていた。彼は私のほうを見ながら、しきりに手元のPC端末と見比べている。
「まあいいや、もうしばらくしたら色々わかると思うから、それまで動かないように」
黒ずくめの男はそれだけいうと、また端末に向かって何かを打ち込み始めた。
私は彼に質問しようとした。ここがどこなのか、何故こんなところにいるのか、隣で眠る男は誰なのか、そして、自分が一体誰なのか……。
しかし、いくら声を出そうとしても、喉から声が出る事はなかった。まるで喉が声の出し方を忘れてしまったみたいだった。声の代わりに吐息が虚しく外に漏れるだけだった。
やがて、急激な眠気が襲っていた。目の前がぐにゃぐにゃと揺れて、起き上がっている事も難しくなり、私は再びその場にばたりと倒れこんでしまった。
遠のいていく意識の中で、私はぼんやりとある光景を思い出していた。私の腕の中で安らかに眠る赤ちゃんと、私の側で優しく微笑む夫の姿。その幸せな記憶は、マッチ売りの少女の幻のように、睡魔と共に燃え上がり、そして静かに記憶のはるか遠くへ消えていく。
その記憶と共に、私の意識もまた、闇の中へ沈んでいった。
娘は今反抗期らしい。私が良かれと思って言った事は、彼女にとってはすべてお説教に聞こえてしまうみたい。
夫は何も言ってくれない。私が怒っている時も、娘がいらだっている時も、どっちの味方をするでもなく黙って嵐が過ぎるのを待っている。
娘にはこっそりフォローを入れているみたいだけど、それだって私を思っての事ではなく自己保身のためだろう。
誰も居ないダイニング、娘が残した夕食を目の前に私は大きくため息をついて座り込んだ。疲れた、本当に疲れてしまった。いくら言ってもわからない娘にも、家庭の事に無頓着で自分の事ばかり考えている夫にも……。
世の中には「親ガチャ」なんて言葉があるという。子は親を選べない、だから良い親に巡り合えるかは運しだい、という事らしい。
しかしそれを言うなら、親だって子を選べない。聞き分けの良い子であればどんなに良かったか、手のかからない子であればどんなに良かったか。もちろん「両親の教育のせい」と言われればそれまでだ。でも、その「両親」のうちの片割れが機能していなければ、それはもう初期不良と同じではないか。
「それでも……」
それでも、嫌な事ばかりではなかった。まだ小さい頃のあの子は本当にかわいかったし、素直で優しかった。色んな思い出が、私の頭の中に…………流れてくる、はずだ。
でも、何故か娘との思い出が出てこない。確かに子供の時の記憶はある、あの子が生まれた時、幼稚園、小学校、中学校、色んな思い出があった。喧嘩も多かったけど、楽しい思い出もいっぱいあった——はずなのに……。
まるでその記憶がスライムのように流動的に動いて、一つのはっきりした記憶になる事はなかった。
娘の事だけではない。夫との事もそうだ。
どこで出会い、どんな付き合いを重ねて結婚し、どんな生活を営んできたのか……おぼろげに思い出す事はできても、いざしっかり思い出そうとすると、まるで幻のように消えてしまう。
「少し、疲れているのかもしれないわね」
そう、きっと疲れているだけだ。だから頭が働かず色んなことが思い出せないだけだ。
今日はもう寝てしまおう。そして明日、娘ともしっかり話をして、私の気持ちを知ってもらおう。夫にももっと家族に関心を持つよう説得しよう。
大丈夫、明日の朝にはまた今日と同じように家族の一日が始まる。
私は娘の食べ残しをラップして、冷蔵庫に入れた。明日の私のお昼ご飯だ。
それから少し熱めのシャワーを浴び、大好きな観葉植物に水をやってから、私は夫の眠る寝室に向かった。
ゆさゆさ、ゆさゆさ
これははじまりとおわりの感覚。
ふわふわと浮かぶ感覚に身を任せ、私は今日も夢を見る。
幸せな家庭の夢。優しい夫と、かわいい我が子。温かな食卓と、笑いの絶えない我が家。
ゆさゆさ、ゆさゆさ
そう言えば、何かを悩んでいた気がするけれど、今はもう忘れてしまった。
誰かに何かを伝えなきゃいけなかった気がするけれど、今はもう忘れてしまった。
ゆさゆさ、ゆさゆさ
ゆりかごのように揺られながら、私はまた、幸せな夢を見るために目を閉じた。
親ガチャ 飛烏龍Fei Oolong @tak-8
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