苦悩

時刻は十七時半。空が色づき始める時間。

「おかえり! 柚葵。どうだった? 久しぶりのバイトは」

 笑顔で出迎えてくれたのは付き合って四年になることり。年は同い年。

バイトを辞めてからの初めての正社員のことも工場の部品検査で何があったのかということもすべて知ってくれている。それでも『柚葵は柚葵でしょ?』と言って今でも一緒にいてくれている。とてもやさしくしっかりしている人。

一か月前から同棲を始めた。今日もいい笑顔をしている。

「前居た時から二年も経つけど何にも変わってなかった。知らない人たくさんいたけどね。あと辞めた人とかも」

「だろうね。二年だもの、辞める人もいるだろうね」

「うん、寂しいけど仕方ないね」

 無意識なのか、ことりの手が柚葵の頭をわしゃわしゃと撫でてくれる。柚葵はこの優しさが好きだ。 

 彼女はこんなダメダメな柚葵も大好きだと言ってくれる数少ない心許せる人。

「そういえば子羊さんがことりのこと元気かって聞いていたよ」

「えっ? そうなの。子羊さんまた会いたいなー……」

「またお買い物行った時に会えばいいよ」

「そうだね……」

 そう話すことりの顔が暗くなっていくのがわかる。

「どうしたの?」

「いや、あの、そのね……」

「うん」

「電車……、大丈夫だったかなって思って……」

 先ほどよりさらに俯いて弱弱しく発せられたその声に「心配させてごめんね」とこの言葉が脳裏に現れた。

「久しぶりだったから最初は不安だったけど大丈夫だったよ! 普通に乗れたよ」

「そう……、よかったね。お祝いしないと……!」

「いやっ! そんなことでしなくていいよ」

 安堵の表情で小躍りをすることりに冷静になってと思った。

電車になんて乗れて当たり前。普通の人には出来ることなのに柚葵にはそれが出来ない時間があった。今までは出来ていたことがある日突然できなくなった。足が思うように動かないそんな時間がいっぱいあった。

電車に乗れなくなったのは十六歳、入学してもうすぐで二年生の背中が見えてきた一年生の冬のこと。

昨日まで乗れていた電車が怖くてたまらなくなった。電車の扉が閉まる音。誰かのスマホの画面、他人の匂い、揺れる社内に漠然とよこたわる沈黙。

それらすべてが柚葉にとって恐怖そのものだった。うまく呼吸が出来ないような感じに喉の奥にこぶでも出来たような痞え感が広がっている感覚。

『怖いと感じることなんてない。タダの電車じゃないか』

 そう心で唱えようとも身体は全くいうことを聞かない。まるで自分の身体が顔も見たこともないような赤の他人のもののように思えた。

結局その日はクラスメイトに「帰る」とだけ伝え、電車を飛び降りるように扉が閉まる直前で外に出た。

車掌さんは驚いただろう。駆け込み乗車ではなく、駆け込み下車に出会ったのだから。普段ではなかなか無いように思う。車掌さんすみませんでした。

閉じる扉の中から

「柚葵~」

 そう呼ばれている気がしたけど振り返ることはしなかった。いや、出来なかった。何かに追われている、そんなことはあり得ないのに頭の中は『逃げなきゃ』と叫んでいた。

 家に着くと開放感が柚葵を包み込み、息が出来ない感覚も喉奥の痞え感もきれいさっぱり消え伏せていた。

 学校に行って授業をサボるということは何度もやってきたが学校に行く気で行かずに帰ってくるというのは自分の中では初めての経験だった。

『ちょっと体調が悪かっただけだよ、多分』

 そう言い聞かせるように布団で横になりながら復唱した。自分は大丈夫だと。

「明日はちゃんと行きなよ」

 その夜、帰ってきた母親にチクリと言われてしまった。

「……わかってる」

不愛想にそう答えた。言われなくても分かっている。でも明日のことを考えると憂鬱で憂鬱でたまらない。

そして布団に入り、寝ようとすればするほど朝の電車の気持ち悪さがまとわりついてきた。

まるで『お前はそこから動くな』そう言われているようだった。

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