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 築十数年のアパートの一室で、薄くほこりを被っていた電話が着信を知らせる。鳴り続けて十コール目まで、祐はそれを無視した。重みのあるカメラを手に寝転がり、自分のために撮った一枚一枚を大事に眺める時間に、割り込んできた電話が悪い。

 時間は午後十一時を過ぎ、住宅街はしんとしている。電話をするなら明日に回す時間だろう。

 容赦なく電話をかけてくる人物は、一人だけ思い当たる。祐がカメラを置いて電話を取ると、思っていた通り「よかった、起きてた!」とはしゃぐ幼なじみの声がした。

「こっちはもう寝るつもりだ。明日も早いし。それとも代わりに倉庫整理に行ってくれるのか」

 面倒くさい、と祐は話を切ろうとした。「待ってよ。明日の仕事は無くなるだろうし」と未央は引き止め、「どうせ写真を見てたんでしょう」と推理する。

「昔からカメラばっかりで、隣にいても気がつかないんだから」

 大当たりの推理で文句が押し込められる。待たせた十コールぶんの話は聞くか、と祐は目元にかかる前髪を掻いた。

「こんな時間になんの用事だ」

「なんの用事だ、じゃないよ。スマホも切ってて、ニュースも見てないんだろうし。情報不足にもほどがあるって」

 教えなきゃ祐は知らないままだったよ、と彼女は畳み掛ける。よく動く口と肩元で揺れる髪を、祐は簡単に想像できた。

 未央は昔からこうだ。子供のころから、必死に周りのことを教えてくる。クラスのこと、先生のこと、流行りのもの。

 情報の押し売りをする彼女に、祐は十年以上もお節介を焼かれている。情報を受け取りながら、他人や周りはどうでもいいのにな、と興味が湧かないのも同じ年数になる。祐も昔からこうだった。

「結局、なんの用事なんだ」

「今はこんな状況だし、世界で最後のひとりでも目指してやろうと思って。それで、祐なら明日の仕事を諦めて私に付き合ってくれるかなー、なんて」

 世界で最後のひとりとは?

 幼稚な願いを真面目に言われたせいだ。一瞬戸惑ってから、祐は聞き返す。

「こんな状況、って……また妙な情報でも入れたか」

「祐以外には一般常識だよ。テレビを見れば一発でわかるから」

 早く見て、と急かす未央に背中を叩かれたような感じがした。祐はリモコンを手に取り、全ての局を適当に一巡する。

 どのチャンネルも同じ景色だ。映るのは激しい雨と、人の気配のない水浸しの世界。生命のない静けさがある風景の映像は、まるで写真のようだった。

 なにもない、と祐はほのかな胸の痛みを感じる。その痛みに伴って湧いたのは、自分の目でこれを見たいという、どこか浮き立った気持ちだった。

「生命消滅型スコール」

 画面下を流れるテロップを、祐は読み上げた。この放送局で映される風景は、レンズについた雨水で滲んでしまい、ぼやけている。

「私が教えたかったのはそれ」と未央は答えた。

 この不可解な現象を、祐も軽く耳に入れている。

 事の始まりは数ヵ月前だ。局所的な雨の後に、動物が消える事件が多発しているというニュースが取り上げられた。この奇怪な事件は、二度三度と続いた。雨水の調査や雨で死んだ動物の解剖、降雨地域の予測などに、政府や研究機関が奮闘する様子も報道されていた。

 全ての報道が「近く研究結果が得られる予定です」で締めくくられる。安心させる文言は嘘臭く、近頃は「結果など永遠に出ないのでは」と皆が疑い出していた。雨の下で得た死骸は数日後に消えてしまうという噂だけが広まり、「人間もいつかは消されてしまうのだ」という説もささやかれていた。

 最悪の説が、とうとう現実になったのだ。

「それで、祐も私と一緒に来ない?」

 変化した世界の中で、未央は変わらず明るく振る舞っている。

「どうせなら、ぎりぎりまで逃げ回って生きようと思うんだ。特殊な雨雲だから、発生地点の予測ができないのは知ってるんだけど」

「だけどどうせ、じっとしていられないんだろう」

 祐が言葉を継ぐと、未央は「そういうわけ」といたずらっぽく笑った。

「わがままかもしれないけど、祐にも得だと思うんだ。だって、撮りたいと思ってるでしょ。本物の『誰もいない風景』を」

「それは」

 祐は口をつぐんだ。ニュースを見ながら考えてしまったのだ。

 どうせ全てが終わるのならば、最後に誰もいない風景を撮るのもいいんじゃないか、と。

 もともと自分が楽しむためだけの、誰に見せることもない風景だ。見せる人がいなくても構わない。人のいない静かな景色を撮り続けてきた祐には、この風景こそが理想だった。


 ニュースに耳を傾け、突飛な状況を体に馴染ませながら、祐は数分だけ未央への返事に迷った。

 その間で両親に連絡を入れてみたものの、返事はなかった。被害地域を調べると、故郷には真っ赤な壊滅の印がつけられている。確認時刻は、人の消える現象が報道されるよりも前だ。誰にも知られぬうちに、全ては消えていた。

 自分が通じないのだから、未央も家族宛の繋がらない連絡を済ませているのだろう、と祐は察する。未央の実家は祐の実家から、子供の足でも五分で行き来ができる近さだった。家族から返事がない不安の中で、自分に連絡をしようと思い至ったのだろう。

 故郷が消えていた事実が、祐の胸に絡み付いて心を冷やした。無謀な誘いをかけられた自分を、引き留める家族はもういない。胸の奥がにわかに冷たくなっても、それでも絶望はできなかった。

 十数年も夢に見た風景を、人の気配がなく静かで落ち着く風景を、最後にこの目で見ておけるかもしれないのだ。

 祐は充電が済んだスマホを手に取り、溜まっていた不在着信から折り返しの電話をかけた。もうすぐ明日になる時間に、ワンコールで通話に出てくれた未央に宣言する。

「お前の話に乗ろうと思う」


 翌日の朝、待ち合わせの時間から五分が過ぎた。あいつの家まで歩いても早かったなと祐が思い始めたところで、未央が姿を見せた。

「待たせちゃったね」と駆け寄ってきて、「急いで準備したつもりだったんだけど」とリュックを背負い直す。中身の詰まったリュックの背では、ぬいぐるみのチャームが二つ揺れていた。

「じゃあ、行こっか」

 遊びにでも行くような未央の笑顔は、危機に瀕した世界で浮いていた。街は閑散としており、防災無線は混乱回避のため動かないようにと定期的に呼びかけている。

「こんなに静かなのは、地元でも滅多にない気がするな」

「確かに。畑道から帰っても、誰かしらすれ違ってたもんね。皆出てこないんじゃないかな。直接雨に当たらなければ、症状の進行が遅くなるらしいから」

 科学的には解明されていませんが、と未央はどこかのニュースキャスターを真似た。結局のところ差は数分で、雨は建物内の命も奪い、雨上がりの香りがする頃には無人の街になるという。

「その数分が貴重だから、皆は家に籠るんじゃないかな」と未央は言った。そして何かに気がつき、「祐、あの子」と曲がり角の先を指差す。

 見ると、家の玄関先で女の子がしゃがんでいた。自分の背丈ほどもあるうさぎのぬいぐるみを抱えてしゃがみ、無人の通りを見つめている。駅へと続くこの道は、普段は人の行き来が激しかった。人のいない今だからこそ、この子の存在が目立つ。

 どうするんだと祐が聞くよりも先に、「どうしたの?」と未央が声をかけていた。知らない人に話しかけられて驚いたのだろう。女の子はぬいぐるみをきつく抱き直し、前に構えて自分を守った。

「ああ、驚かせちゃった」

 未央が顔をしかめた。いつも自信に溢れ、今日も無謀な挑戦を持ちかけてきた彼女にも、狼狽えるようなときがあるのだ。弱みを出すのは珍しいなと祐は思う。

 それと同時に、頭の奥を引っ掛かれる感覚がした。以前にも、同じ思いをした気がする。そのときの自分は、彼女をどう宥めたのだったか。

 祐が考える横で、未央はしゃがんで女の子と目を合わせ、「パパとママは、お家にいる?」と優しい声で聞いている。

「心配になったから、思わず話しかけちゃったんだ。お家の人とケンカしちゃったの?」

 女の子はぬいぐるみを盾にしたままだ。未央は祐に目配せして、待とう、と言うように頷く。辛抱強く返事を待つと、ぬいぐるみの従者は下ろされていった。

「いないの」と、女の子はか細い声で言う。

「ひとりなの?」

「うん、パパは昨日からお仕事。ママはね、パパがそこの駅まで帰ってきてるか見に行くって言ってた」

「パパはどこでお仕事をしてるの?」

 真剣な眼差しで未央が聞くと、女の子はとある駅名を答えた。同じ音を呟いてなぞり、未央の表情が険しくなる。「もし、長い間ひとりなら……」と手を差し出しかけて、「いや、諦めたらひどいよね」と引っこめる。

「大丈夫、ママはすぐに戻ってくるよ。怖い雨に濡れませんようにって、お留守番を頼んだんだと思う。お家で待っていてくれたら、きっと喜ぶと思うな」

 お家にいようねと未央が促すと、女の子は素直に頷く。

 もし「パパは?」と聞き返されていたら、未央は答えに詰まっていただろう。答えた駅の周辺は昨晩に大雨が降っていることを、祐も未央も知っている。

 戻ってくるよと言ったけれど、母親がどこまで迎えに行ったかを、二人は知らない。

 女の子はまだ動かず、未央の背中をじっと見ていた。「これが気になる?」と未央はリュックからぬいぐるみを外す。ライオンとうさぎの、手のひら大のぬいぐるみだ。

「うさぎちゃん、ボロボロだ」と女の子は言う。ライオンの毛並みは新しくふかふかで、うさぎの糸の綻びが目についた。へたっているけれど、大事にされていることは祐にもわかる。

「昔からお友だちなの。うさぎさんは、久しぶりのお出かけなんだ」

 未央は女の子の手にライオンを乗せる。女の子はたてがみを撫でて、目を輝かせた。

「私は未央っていうの。あなたのお名前は?」

 人懐こい笑顔が効いたのだろうか。警戒はすっかり解けて、女の子は「あかり」と元気に名前を答えた。

 未央はライオンを渡したまま立ち上がる。

「あかりちゃん、よかったらお友だちを預かっていてくれる? ライオンさんと一緒なら、お留守番を頑張れるよね」

「がんばる」と家に戻るあかりに未央は手を振る。玄関のドアが閉じてから手を下ろし、よかった、と呟いた。

 未央の握るうさぎはひとりにされて、寂しげに見える。

「優しいんだな」

「知ってただけだよ。小さなぬいぐるみでも、ひとりより寂しくないって」

 未央は残されたうさぎをリュックに繋ぎ、落ちないように横のポケットに足を入れた。それから「どの街も、数日持たないだろうな」とぼやく。

「もう戻れないのに、預かってって言っちゃったな。さて、これからどうしよっか。行きたいところはある? 私は山に行きたいけど」

「もう決まってるんじゃないか」

 山登りの提案は意外だったが、好きなところにしろと祐は頷いた。誘われた旅なのだ、行き先を決める権利は未央にある。

「山の天気は変わりやすいって言うけど。この雨が降る確率はどこも同じだって言うから」

「話に乗ったんだ、付き合うよ」

「ありがと。どこかで祐がきれいに写真を撮れればいいんだけど」

「……また、お節介か」

「うん、最後までお節介してるかも」

 私、山登りはあんまり好きじゃないんだ。数秒後に言った未央に、俺も好きじゃないんだけどな、と祐はぼやき返す。防災無線が遠出を禁じるが、知るものか。

 まだ雨が降っていない山を目的地に決め、途中でバイクを借りて誰もいない道を走る間も、「山登りなんて嫌だ!」と未央は叫んでいた。笑い声混じりのはしゃいだ声だ。後ろで楽しそうだな、とは聞けなかった。

 本当に叫びたかったのは、笑いながらでは言えない気持ちのはずだ。例えば、「死ぬのなんて嫌だ!」とか。


 自分たちと同じように最後の旅に向かう人を、走行の間に数人見かけた。動転して泣きわめく人や、居るかも分からない神様に祈りを捧げる人もいた。都市から離れると、その人数も減って行く。けたたましい防災無線は聞き慣れてきたが、混乱回避のために見回る警備隊をかいくぐるのは苦労した。

 目的地の山を登り始めた夕方に、真っ黒な雲が西の空を覆い始めた。未央がスマホでニュースを調べると、雲の真下ではたくさんの命が尽きていた。

 雨の効力は止んだ後も残る。一度降ったが最後、その地域に人が立ち入ることはない。撮影用の機械が飛び交う映像を見た後、「早く行こう」と未央は山の上を指差した。

 この頂上が人類最後の地になるのだと知っているかのように、彼女は祐を先導する。

 登り始めの未央は、調子よく話していた。自分たちが幼いころから、今までの話だ。「祐の顔面に雪を投げつけたら、面白い顔だった」なんてことまで、祐の忘れている時間があれば焼き直すように喋ってきた。

 忘れてしまっても、撮った写真を見れば祐は見ていたものを思い起こせる。色と光を、視界を埋めていたものを、楽しむにはひとりで十分だ。

 けれども、こうして未央と話していると、対話も悪くない気がした。人には興味がないが、人との会話でしか思い起こせないものがある。写真には写らなかった情報を足されていくのだ。

 未央はテンポが速く、追い付くのが大変な話し方をする。自由に話を進めていく未央は、祐なら聞いてくれると思っているのだろう。昔は「あいつうるさいな」と文句を言う友人もいた。確かにうるさい。うるさいけれど、絶えない言葉は押し寄せる波を浴びるようで、祐にとっては心地よかった。

 このまま頂上まで行くと思っていた。休憩中に開いたスマホで、今の自分たちが住んでいた地域に雨が降ったと確認するまでは、だ。

「あかりちゃん」と、未央は息を呑んだ。下ろしたリュックのうさぎを握り、小さな体にすがりながら「しっかりしろ、私」と呟く。

 最後のひとりになる人間が、人の消滅に深く傷ついていたら身がもたないだろう。祐は奥歯を噛んで考えてから、重たい口を開いた。

「お前、無理してるんじゃないか」

 無音の間に、ニュースが響く。被害人数はすでに万を越え、数時間後には全ての地域に雨が降ると推測されます。

 手にしたスマホを力なく傾けた未央に、祐は言葉を続けた。

「本当は、最後のひとりになりたくないんだろう」

「どうしてそう思うの」

「見てればわかる。そのぬいぐるみも、ひとりが寂しいから連れてきたんだろう」

「寂しくない」

 未央は食い気味に言い返した。握りしめたうさぎを指先で撫で、これがなくても私は、と呟く。息の根を止めるようにうさぎの首もとを押して、未央は「祐が」と大声を出した。

「これを見て、私がひとりになりたくないと感じたなら、捨ててくる」

「おい、待て、未央」

 決心した未央は止められない。祐が声をかけるより速く彼女は駆け出し、手にしたぬいぐるみを山の斜面へと投げていた。祐は宙を飛んだうさぎと目があった気がした。「嫌だ」と訴える空耳がする。

 大事な友達を見送って数秒後に、未央は振り向いて笑った。

「これでわかってくれる?」

 自分は、とんでもないことを、させてしまったのでは。

 わかったと答えるよりも先に、鋭い罪悪感が胸を刺した。向けられた笑顔をはぎこちなく、まともに見られない。祐はこれ以上未央の気持ちを指摘できなかった。「お前の願いは違う」と否定を重ねたら、次に何をするというのだろうか。

「取りに戻るか」とも聞けなかった。覚悟させてしまったのは自分だ。祐にできるのは、「俺はお前と頂上まで行くよ」と声をかける程度だった。

「わかってる。置いていったら許してあげない。それに、先導してるのは私だし」

 未央は振り返らずに歩きながら、変わりない声色で返事をした。どんな表情をしているか祐にはわからない。数え切れないほど嫌だと叫んでいたのに未央の足取りは軽かった。戸惑いなく進んでいく背中はやはり寂しげだった。

 祐は黙ってしまった未央の代わりに話の種を探した。段差を上がるために木に手をつく。太い根のそばにはいくつか花が咲いていた。自分達は雨から逃げているけれど、草花は降る雨を待っているのだろう。

「生き物は消えるのに、植物は消えないのが不思議だよな」

 自分が意地を張らせたのだ、無反応でもしかたないと思っていた。「どうしてなんだろうね」と答えてくれただけでもほっとする。

「動かないから、じゃないかな。他の動物を虐めたりしないし。植物を踏みつけて殺さないし」

「ひとりじゃなくて、群れて悪さをするから動物は悪い、って発想か」

「誰もいない風景が好きな祐は、植物に近いのかもね」

 未央はふと言った。そうあってほしかったと願うような言い方だった。祐を生かしたかったのだというような。

「だとしたら、俺だけ生き残っちまうな」

「もしそうでも、私より先に消えてもらいます」

 それで私が最後のひとりになるの、と未央は二度目の宣言をする。祐は自分が死んでしまうことも、ひとりで生き続けることも、未央に望まれていない気がした。調子よく宣言したはずの彼女の唇が震えていた。


 汗をかくほどの距離を登り、スマホでニュースを確認すると被害地域はさらに増えていた。西から来た雨雲は空を覆いながら寄ってきている。星の見えない空は真っ黒だった。

「登り始めが遅かったもんね」と未央は暗がりで荷物を漁り、小型のランプで辺りを明るくした。「少し休もうか」と持ち運びのテントを引っ張り出す。

「はい、祐。あとはよろしく」

 袋も取らずに未央はテントを渡してきた。一緒に組み立ててはくれないのか。祐が軽く睨み返すと、彼女は片手でランプを吊るして振った。

「私は照明係だから」

「遅くても文句を言うなよ」

 大丈夫、絶対言わない! と未央は返す。

 小さなテントを建て終えて祐が振り向くと、ランプは地面に置き去りだった。係を放置してどこに消えたのだろう。まさか、と祐は昼間のぬいぐるみを思った。ひとりで取りに戻ったのか。

 姿を探して「未央」と名前を呼ぶと、「私ならここ」と暗がりで影が揺れた。「軽く食べておこう」と明るく誘う彼女は、両手に携帯食糧を握っていた。

「ふふ、ひどい顔してる。どうせ、お腹が空いてるんでしょ」

 否定はしない。言う通りにお腹も空いている。

 未央がいない一瞬で、祐が感じたのは別のことだ。二人きりの今、未央の気まぐれたったひとつで、自分は簡単にひとりにされてしまう。

 祐は本当に人に関心がなかった。幼いころに「私も撮って」と未央がカメラの前に立ったことがある。きっぱりと嫌だと断り、「ひとりでも平気そうだなあ」と諦めさせてしまったくらいに関心がなかった。長年眺めていた写真も、人のいない風景ばかりだった。

 だからひとりでも構わないと思っていたのに。起こりうる未来を、ひとりきりの世界になる可能性を感じると、結局自分も植物にはほど遠い。

「ちゃんと食べてその顔を戻そうね」

 携帯食糧を無理矢理握らせてきた未央は、先に自分のぶんを食べ終えた。そして、祐が食べ終わるまで離れなかった。やたらとおとなしいな、と思い隣を見ると、未央は立てた膝を抱えて眠っていた。昨日の夜は支度に精一杯で、あまり眠れなかったのかもしれない。

 祐も同じように膝を抱えた。体を丸めて座っても、目を閉じても、雨は自分たちを逃がしてはくれない。せめて、少しでも長く身を隠せたらいい。

 自覚がないだけで疲れていたのだろう、しばらく眠っていたらしい。次に祐が目覚めたとき、隣に未央はいなかった。「未央」と呼んでも「私ならここ」と返ってこない。

 まさか、と祐はテントを抜け出した。


 濃い雨の匂いが鼻につく。眠っている間に、雨雲は自分たちに追い付いていた。地面は所々ぬかるみ、木の葉から雫が垂れる。草花は待ち望んだ雨を喜んでいた。

 未央を呼びながら、祐は夜の山を降りた。「祐」と呼び返されたのは、やはり昼間にぬいぐるみを捨てた場所だった。未央の額に貼り付いた前髪からは、雨水が垂れて頬を伝う。冷えて白んだ手は、土で汚れたうさぎを握っていた。

 ごめん、と未央は弱りきった顔で笑う。

「本当は寂しい。一人になるのは嫌だ。先に消えてもらうって言ったのに、わがままだけど。祐が私より後だとしたら……最後になってくれたら寂しくないかも、なんて思ったりしてさ」

 言い出した未央は、最後のひとりにはもうなれない。祐と比べて、浴びた水量に差がありすぎた。祐よりも先に未央が消えることは決まってしまっている。

「そのわがままは聞いてもいい。けどな、自分から進んで浴びる必要はなかっただろう。そいつを取りに戻るよりも、捨てさせた俺を罵ってでも、雨を浴びずにいた方が」

 ふふ、とそこで未央は微笑んだ。「植物じゃなくて人間だ」と満足げに目を細めて、「無理矢理祐を連れ出してでも、思い出してほしかったことがあるんだ」と汚れたうさぎを握らせてくる。

「私が消えてひとりになっても、これを持ってれば大丈夫」

 未央は未央らしくない喋り方でそう言った。祐が一番、よく知っている喋り方だった。

「どうして、俺に似せたんだ」

「小さなぬいぐるみでも、寂しくないのを知ってるって言ったでしょ。祐のおかげだよ」

 これは自分が渡したものだったのか。祐はうさぎのへたった耳を持ち上げた。

 昔の未央は、両親の帰りが遅くて寂しい思いをしていたのを覚えている。好んでぬいぐるみを集めていたのは、寂しさを紛らわすためだったのだろう。

 その趣味は、自分が未央に贈ったのかもしれない。

「思い出してもらわなきゃ、ありがとうも言えなかった」

 なのに、結局思い出しやしないし。そいつがあるから甘えてるみたいに言うし。と、未央はぶつぶつ言う。

 未央の教えてくれた記憶は、当時の祐にとって、写真のフレーム外だったのだろう。自分ひとりでは、きっと一生思い出せなかった。「これがあれば大丈夫だ」と未央に言った昔の自分は、今よりも寂しさを知っていたのかもしれない。

 自分は孤独が好きなのだと長年思っていた。それなのに、最後の最後になって、なんてものを思い出させてくれるんだ。

「俺を連れ出したのは、撮影に付き合うためのお節介じゃなかったのか」

「やること全部がお節介じゃないってば。このまま終わるのは嫌だから、思い出してくれないかなって思ってたよ。だから過去の話も今の話もいっぱいした。わがままの旅に付き合ってくれた祐の方が、よっぽどお節介だ」

 やっぱり一枚くらいは、私も撮って欲しかったな。数年ぶりのわがままを言い残し、未央はその場に崩れ落ちた。


 置き去りにされて数分が経ち、今晩二度目の夜雨が頬を叩いた。祐はカメラを取り出して、目の前に向けた。シャッターを切れば、霧深い雨に包まれる夜が記録されるだろう。わずらわしく動くもののない、念願の景色だ。

 誰もいない世界を誰よりも求めていたはずなのに、ボタンに乗せた指が止まった。使い込んで傷ついたカメラを、祐はそのまま胸元に下ろす。

 撮り溜めてきた写真は誰にも見られぬまま、自分と共に朽ちるだろう。いつまでも見ていたいものを記録するカメラは、祐の記憶そのものだった。

 今の自分が記憶に残したいものは、二度と目を開けなくても覚えていたいものは、と祐は視線を落とす。自分の膝に頭を乗せている、深い眠りに落ちた幼なじみにシャッターを切ろうとして、止めた。

 生きている姿を撮ればよかった。一枚なんて言わせずに、嫌がって逃げるくらいに撮ってやればよかった。人のいない静かな風景は、聞き馴染んだ声がうるさいからこそ、特別きれいに見えていたのだろう。

 服を通り抜けて染みる雨の重さも、まぶたの重さも辛くなってきた。未央に追い付いたら、なにを言ってやろうか。まずは「お前が見たがったのは、お前が嫌いな寂しい景色だったぞ」という文句を。「お前が見たくないだろうから、写真を撮るのはやめたんだ」なんて言い訳もしてやろう。

 人の気配を求めてスマホをつけてみたが、ニュースは無音だった。放送する人も、観る人も、全て消失したのだろう。祐の周りでは、誰にも求められない雨が降り続けている。

 寂しい世界に取り残される人はもういない。これからは、目覚める人のない朝が来るだろう。先に眠りについた人々に追い付くために、確かに生きていた最後のひとりとして、祐は目をつむる。そうして人類は永遠の眠りについた。

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