第8話 無になる心

「……亜南さん、聞いてもよろしいでしょうか?」

「はい、陽斗くん。何でもどうぞ」

「俺に選択権は無いと言いましたが、拒否権も無いので?」

「うん、無い。何にも無いよ。陽斗が選べる箸もフォークもスプーンも無いけど、文句なんてあるはずも無いと思うんだよね。そうですよね、優愛さん」


 亜南の言葉に俺の母さんは力強く、それでいて無言で頷いている。

 この場に親父がいないのは良かったが母親こそ厄介な存在は無い。


 それにしても何故だ。亜南の部屋入りを断っただけなのに、何で自分の家の中で追い詰められなければならないんだ。


 今の状況を見てるくせに、母親なのに何も咎めが無いのはおかしいだろ。

 俺の親は俺の敵で亜南の味方かよ。


「……で、亜南」

「んー? 何?」

「お前、いつまで俺を椅子扱いして座り続ける気だ? 俺は一応健全なる男子なんだが……このままだとまずいことになるってのは理解してるんだよな?」


 親が超至近距離にいるからこその発言になるが、控えめに言ってもそろそろ我慢の限界が近いしむずがゆいのは明らかだ。

 

「健全な男子ぃー? 誰が健全だって?」

「お前のすぐ真後ろにいるだろ!」

「何人も自分の家に女子を連れ込もうとしてた奴のどこが健全なんですかね?」

「…………」


 何て痛いところを。


「どうせウチの家に上がり込めなかったのも、怖気づいてしまうからだろ? 最弱野郎だもんね、はるちゃんは」

「うるせーな」

「ほれほれ、どうしたー? 今なら隙だらけだぞー?」

「アホか! 母さんがすぐ近くにいるのに出来ると思ってんのか?」

「揉むくらいは出来るじゃん! ほら、揉めよ!」


 こいつ……完全に俺を見下してるな。しかし俺の両手は現在フリーの状態だ。手を伸ばせばすぐにでも届く。


 さっきまで器用にスプーンを使って亜南に食べさせていたが、今は完全にフリー。

 奴は俺をマッサージチェア扱いしてるし何も問題は無い。


 それに俺の顔が真後ろにあって見えない時点では強気のようだが、呼吸による息がかかっただけで体を震わせてるくらいの弱さはある。


「分かったよ、やるよ」

「へ、へぇー……やれるんだ? じゃあどうぞ」


 こいつにとってされるはずないと思っての余裕発言だと思われるが、揉む場所は何も胸に限らないわけだから全然余裕に揉める。

 

 だが俺の視界は丁度良く亜南の背中によって遮られ、はっきり言って位置調整が難しい。身長差が無いのがここにきて厄介な問題となっているわけだ。


 しかしやると宣言した以上、とにかく動ける範囲にまで腕を伸ばして勢い任せで指を動かしまくることにする。


「――ちょっと!?」

「どうよ、肩を揉んでもらってほぐれるだろ?」

「さ、さぁね」


 いくら凝っているにしても随分と……いや、気のせいだな。とにかくこいつも気を張ってるようだし、とっとと気を抜いて大人しくなってもらう。


「……も、もういいってば!」

「我慢しなくていいんだぞ? どうせ俺は見えて無いんだし、気にすることじゃない」


 さすがに気を張って疲れていたっぽいな。指先で何度も押してかなり体が楽になってるはずだ。


「陽斗!! なみちゃんに何を……してるの……?」

「へ? その声は母さん? 何って亜南の肩を揉んでるけど」

「……とにかく、今すぐその手の動きを止めなさい!!」


 偉い剣幕で怒ってるな。あまり怒らない親なのにどうしたのか。

 言われた通りに手を止めて、亜南からも解放されたのですぐに椅子から離れた。


「――えっ?」


 しかしどういうわけか、亜南は体を小刻みに震わせながら何故か泣いてるようにも見える。親はそんな亜南の肩をさすって、落ち着かせているような感じだ。


「母さん。あの、えっと……亜南に何が起きたか聞いてもいいですか?」

「――聞くの? 本当に?」


 俺の質問に親は顔を引きつらせ、指を鳴らして何か嫌な予感をさせている。


「い、いえ。何も聞きません」


 状況で判断するに、肩を撫で回すように揉んでいたのが実は胸だった件。というのが有力な答え。


 それにしたってあの亜南が泣くほどのことをしたなんて、そんなはずは無いのに。

 納得がいかない状態で亜南の様子を眺めていると、


「陽斗! はい、これ」 


 ――と、母さんが電子マネーカードを渡して来た。

 

「これ……は?」

「夕飯代。それで食べて来なさい! 南ちゃんは今夜うちで泊めるから。陽斗は外で寝なさい! はい、早く出て!」

「ええー!? 外で寝るって……それはあまりにも」

「ネカフェでもどこでもいいじゃない! とにかく早く!! 怒るよ?」


 もうかなり激怒してるけど。要するに亜南を泣かせ、ひどいことをした俺を追い出したいということだな。


 何もやましいことを考えずに無になって揉んでいたのに、何てことだ。


「じゃ、じゃあ……行って来ます」


 俺の言葉に親は見向きもしないのに対し、亜南は舌をぺろっと出して笑いながら俺を見送っていた。


 くそう、してやられたか。

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