目的地



 遥翔の知っている個室の居酒屋で二人は向き合っていた。

 飲み物とすぐに届きそうなアテが運ばれるまで、二人は個室で一言も発さなかった。

 遥翔は沙由美の反応をうかがっているようだが、沙由美はドリンクが運ばれてからも黙ったままだった。グラスの氷がからりと音を立てる。それを合図にしたかのように、遥翔が口を開いた。


「驚かれたかと思います。でも、悪い気はなさならないでください」


 それに、と遥翔は続ける。その表情はなぜか浮かない。


「あまり時間も残されていません。出来れば早い時期に祖父に会ってもらえないでしょうか」


 慇懃に頭を下げる青年に、素直に好感を持った。何か事情があるのだろうが、家族や彼らに迷惑が被られることも避けたい。


「あなたは驚かないの? もしこの写真が事実なら、あなたのおじいさまが若いころから、私の姿は変わっていないことになるけど。それを私が認めるのとは別にして」


 遥翔はすぐには答えず、考え込むように沙由美を見つめた。その目があまりにもあの人にそっくりなので、沙由美の心の中で何かが動くのを感じる。

 離れた個室でドッと沸きあがる笑い声が店内に響いた。この騒がしさが、今の沙由美にはありがたかった。


「僕も正直すべてを受け入れているわけではありません。まるで小説の中に飛び込んだみたいな気分です。でも、あなたが僕には想像もできなことを抱えていることは分かります。僕はあなたのことを詮索しません。それだけは約束します。どうか、祖父に会っていただけないだろうか。それだけが、僕の願いです。もしどうしてもと言うのなら、断っていただいても結構です」


 この誠実な青年にすべてを打ち明けたいという衝動に駆られる。おそらく遥翔は、沙由美の身に降りかかった不可解な出来事を認識しているだろう。それを受け入れているのかどうかは別にして。それを、沙由美は自分の口から説明したかった。一体何を原因として、そしてどのような状況に陥っているのかを。

 葛藤に苛まれながら、沙由美はジョッキを一気にあおり、音を立ててテーブルに置いた。そして、決心して宣言するかのように言った。


「あなたのおじいさまに会うわ。それで、どこにいるの? 私としてはいつでも予定が合わせられそうだけど、あなたの話だとあまり具合もよくないのかしら」

「身体に不自由はないのですが、認知症を患っています。僕が誰なのか分からない日もほとんどで、たまにだけど、意識がはっきりとすることがあるので・・・・・・」


 その話を聞いて絶句した。そうか、本来私もそのような症状が起きて天寿を全うしてもおかしくなかったのだ。かつて出会った人にそのようなことが起きたと知るたびに、胸が締め付けられる。変わりゆく自分という殻にこもりながら死に向かって歩むことと、いつまでも変わらない体でひたすら生き続けることと、いったいどちらがつらいことなのだろう。こんな悩みが贅沢だということは分かっている。だからこそ、沙由美はこの悩みを自分一人で抱えながらただ生き続けている。


「可能なら長い時間、それに何日間か足を運ぶのがいいということになりそうね」

「そんな、そこまでお願いしてもいいのでしょうか」


 遥翔は目に涙を浮かべながら沙由美を見つめる。その目の奥に光が灯ったのが分かる、彼は人がいいから、そこまで厚かましいことはお願いできなかったのだろう。沙由美もそれを理解したからこそ、あえて自分から提案したのだ。


「じゃあ、いつでもいいから決まったら連絡を頂戴。あなたの番号にかけたから、私の連絡先も分かるわよね」


 そう言ってカバンから財布を取り出す。今日は何となくおいしいお酒が飲めた気がする。支払いに使うコードに手を伸ばそうとすると、遥翔は慌てて静止した。


「ここは僕に払わせてください」

「あら、男性が女性の分まで支払いをするなんて価値観、五〇年間ぐらいに無くなったのよ。ここは年上に払わせてちょうだい」

「年上が全部持つなんて価値観も、それぐらいの時期から絶滅危惧種ですよ」


 そんな話をしながら遥翔と沙由美は笑いあい、二人でレジに向かった。




 遥翔の運転する車に一時間ほど揺られていると、目的の施設が見えてきた。そこは病気を療養することを目的というよりは、限られた人生をいかに有意義に過ごすかということに焦点を当てたホスピスのような場所だということを、車の中で説明を受けた。だから、末期がんを患いながらも闘病というよりかは痛み止めで過ごすような人であったり、徐々に前身の筋肉が衰える難病にかかった患者が何不自由なく過ごせるような場所を提供したりと、様々なようだ。


 遥翔の祖父のように、認知症を患った人も少なくないようで、介護施設での生活があまりにも不憫そうだからという理由で、少々値が張っても自由に過ごさせてやりたいという思いからここでの生活を選択する家族も多いらしい。それに、介護施設などのように定期的な訪問や日用品の準備も求められないところが好評であり、実際それについては遥翔はずいぶん助けらえているということだった。


 遥翔の祖母について尋ねたくなったが、込み入ったことを聞くのはやめておいた。沙由美自身、今日で遥翔の祖父に会いに来るのが終わりになるだろうと思っていなかったし、そうだとすればもっと聞きやすい機会がいくらでもあるだろうと思った。それに、どれほど長く生きていてもこれらの病気を治す医学の進歩が進まないことに、心苦しさを覚えたのも一つの理由だった。


 目的の建物は、現代に似つかわしくない自然をモチーフにした建物だった。一回には広々としたウッドデッキが広がっていて、そこで談笑している様々な年代の人たちがいる。

 若く見える青年もいたが、辛くて苦しい、決して治ることのない病を抱えているのだと思うと、その笑顔さえ寂しい。


「じゃあ、いいかな?」


 部屋へと案内する途中で、遥翔はつぶやいた。それは私に尋ねるような言葉でもあり、自分自身に問いかけているようにも聞こえた。沙由美は黙ってうなずき、遥翔の後に続いた。

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100年目の恋 文戸玲 @mndjapanese

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