フィルム
あの日と同じ席に,彼の姿があった。
「早く着きすぎたと思ったけど,お待たせしたみたいね」
ストレートグラスに半分ほど残ったカクテルを見ながら,沙由美は尋ねる。足元にあるかごにハンドバッグを置いてから,ジントニックをお願いした。
「ここのお酒があまりにもおいしいから,フライングしてしまいました。もちろん,あなたに会うのも待ち遠しくて」
「くすぐったくなるようなセリフを吐くのね」
乾杯を求めてグラスを軽く上げられたことに気付かないふりをして,ジントニックに口をつける。乾燥した唇に,じっとりと染み渡った。
「先に伝えておくけど,会いたいって言ったことに特別な意図はないから。私が気になったのは,『どこかで会ったことがある』というあなたの言葉よ。しっかりと顔を見ていなかったから,確認しておこうと思って」
でも,と沙由美は続ける。空調は適温に設定されているはずなのに,妙に身体が火照っている気がした。
「確信したわ。あなたにはやっぱり会ったことがない」
嘘ではなかった。だが,真実でもない。最も相手をごまかすのに最適なのは,真実と偽りをほどよくブレンドさせることだ。精巧に作られたカクテルのように仕上げられた言葉は,たいていの相手を納得させることが出来る。ずいぶんと長い人生を送ってきた沙由美にとって,それはさほど難しいことではないはずだった。
ただ,自分今発した言葉に自信が持てていないことを最も自覚しているのも事実だ。そして,それを見抜いたかのように遥翔は鋭い目を沙由美に向けた。
「会ったことがなくても,何か思うことがあるのでしょう?」
そして,と遥翔は言葉を切る。今から重大な宣告をするのだと,その目は語っていた。
バーに入ってから,遥翔と対峙してからなんだか暑いとは思っていたが,それが徐々に寒気に変わる。
遥翔の視線が沙由美の瞳から外れる。その目が,沙由美の手首を捉えた。悪寒がピークに達する。そこは,沙由美が最も見られることを嫌う場所だった。
「じろじろと見ないでくれるかしら・・・・・・。やっぱり,会うんじゃなかったわ。これで失礼させてもらいます。」
ハンドバックを手に取り,財布を取り出した。普段は紙幣を使わないから現金があるか不安だったが,支払いには十分のお札があることに胸をなでおろす。
「最後まで話をさせてよ。それに,渡したいものもあるんだ」
「これ以上あなたから何かを受け取るのはもううんざり。これっきりよ。二度と会うこともない」
遥翔が唐突に言葉を発した。その言葉を,その唇の動きを見て,沙由美は立ち眩みを感じた。
彼が発したその単語は,沙由美が最も恐れていた言葉だった。
「どうして? って思いました? それとも,やっぱりっていう方が正しいのかな」
遥翔に椅子をすすめられ,言われるがままに沙由美は再び腰を落ち着けていた。
何か強いものお酒が飲みたい。沙由美はグラスを勢いよく傾けて飲み干し,ギムレットを頼んだ。遥翔も同じものを頼んだ。
それが提供されるのを待ってから,遥翔は口を開いた。沙由美にとって,その沈黙が必要以上に長く感じられた。
「昔,何度も何度も写真を見させられたんです。『この人を見つけたら教えてほしい』って。不思議なことを言っていたので,子どもながらにとても興味を持ったことを覚えています。だから今でも覚えているのでしょうね」
尋ねるのが怖かった。相手は手札を見せてくれようとしている。でも、遥翔という存在が持っている手札を覗いてしまうと、これまで沙由美が大切にしてきたものが音を立てて壊れていくような気がした。
「で、その逵彦さんっていう人がどうしたの? 私には身に覚えがないけれど」
「『探してほしい。その人は、わしが若いころと全く姿が変わっていないはずだ』って言っていました」
「そんな世界線があるなんてね。楽しい話が聞けて良かったわ。じゃあね」
走って駆けだしてしまいたいのをこらえ、今度こそここを出ようと決意して立ち上がる。
それじゃ、と精いっぱいの笑みを浮かべて手を振ったが、沙由美の表情は一変した。
遥翔は手に何かを持ち、それをひらひらと揺らした。手に持っていたのは写真を現像した一枚だった。
「これを見たら、ゆっくりと話をしようという気になるかな?」
写真を持っていることが、逆に沙由美の安心感につながった。沙由美は自分の素性や痕跡を残すことを極度に恐れていた。だから、過去を振り返ることができるようなものは、たとえ文字情報だとしても残さないようにしている。そんな自分が、誰かと写真を撮ることなどありえないから、その写真は人違いに決まっている。
そんな思いが心を支配し、沙由美は堂々と歩み寄り、写真を手に取った。そして、「人違いだわ」と言って突き返してやるつもりだった。
しかし、写真を見て目を剥いた。
そこに映っていたのは、紛れもなくかつての自分だったからだ。
「良かったら、場所を変えてお話しませんか?」
心臓が激しく血液を全身に送り出す。遥翔の呼びかけがまるで耳に入らないほどに、沙由美の気は動転していた。
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