康太のことば
日中はずいぶんと気温が高かったのに、夜風に当たると肌寒さを感じる。腕を組んで肩を縮こまらせながら、沙由美は目的地に向かって足早に歩いた。
あれでよかったのだ。ほんの数分前のやりとりを思い出し、自分に言い聞かせる。
「気になる相手って、その遥翔さんって人ですよね?」
それは、沙由美が知る康太の表情と声ではなかった。目じりを下げた表情しか見たことのない康太は眉間に浅いしわを作っていた。明朗快活で楽しい気分にさせてくれる声のトーンも、水の中に鉛を落としたような響きをしていた。
「別にそんなことはないと思うけど・・・・・・」
「気になるっていうか、好きなんじゃないですか? 思うけどって、自分で自分のことも分からなくなってる。それって、もう恋ですよ」
沙由美が話すのを遮る勢いで、康太はまくしたてるように口を開く。聞き上手で決して相手の否定をしない、そんな男がこの時だけは余裕のない様子で責めるような態度だった。沙由美には、その姿がひどく滑稽に見えた。
「あのね、康太さん。たいていの人は、自分でも自分のことが分からないの。だから、あなたの言っていることはある意味では正しいのかもしれない」
真剣な顔をして見つめる康太に、沙由美は続けた。
「でもね、自分のことですらはっきりと分からないのよ? 相手のことを知った風に決めつけるのって、ずいぶんと失礼なことじゃないかしら」
時計に目をやる。「もう行かなきゃ」と沙由美がつぶやいて立ち上がると、康太も続いた。
「今から行くのですか? 遥翔さんのところに」
「ええ、約束したから」
「言いくるめられたらだめです」
康太の声に、隣のテーブルの客が怪訝そうに反応する。康太は声を落として、沙由美にささやいた。
「もう一度考えたらどうですか。少なくとも、今日はやめましょう」
「これはね、私が決めたの。誰かに言われたのではなくて、私自身が決めたこと。それは確かなことよ。私は自分の人生において、何かに反応して生きるのじゃなくて自分で選択することを大切にしているから」
「・・・・・・ずいぶんと大人ですね。同年代とは思えない。自分が恥ずかしくなってきました」
「だてに100年も生きていないわ」
「急に子どもじみたことを」
何ですかそれ、と康太は噴き出す。そして、観念したように首を振った。
「情けない姿をお見せしました。でも、話がすんだら家に帰ってくださいね。今まで感情を表に出していないつもりでしたが、今日で僕の気持ちは分かったと思います」
素敵な夜を、とつぶやくと、康太は伝票をもって歩き出した。最後は目を合わさずに別れることになった。光に反射して目元に光るものがあったように見えたのは、沙由美の思い違いかもしれない。
気づけば約束のバーの前にいた。約束の時間より30分以上早い。前のめりな女だと思われるだろうか。いや、そんなことはないだろう。もしそうだとするなら、思い知らせてやれる。沙由美自身も自分の気持ちはつかめていないのは確かだが、ひとめぼれなんていう若気の至りを犯すほど人生経験が未熟ではない。それよりももっと大きな、得体のしれない何かが沙由美を突き動かしているという実感が、うごめているのだ。
康太さんはもう電車に乗っただろうか、と沙由美はふと気がかりになった。
沙由美にとって康太は、久しぶりにできた適度な距離感の保てる友達であった。絶対に知られてはならない秘密を抱えている沙由美にとって、人と深くつながりを持つことは危険なことだった。だから、仕事においてもプライベートにおいても、親身になるような間柄の人間関係を築いてこなかった。有希が独り立ちしてから、その思いは一層強くなったはずだった。
康太と出会ったのは、前の職場だった。水道会社の事務をしていたが、時代の流れとともに水道会社は続々と倒産していった。沙由美の勤めたいた会社も、その例外ではなかった。結婚を考えている彼女と、先行きの怪しい会社とのはざまで悩む康太の相談に乗っているうちに、二人の仲は縮まっていったのだ。
とはいえ、沙由美としては気心の知れた仲良しとしか認識していなかった。それは相手もそうだと思っていた。だから、会社がつぶれてからも定期的に飲みに行くような関係性が続いていたのだ。
「これが一番いい形なのよね」
何人かの顔を思い浮かべ、沙由美はつぶやいた。康太のことが気がかりだったのはもちろんだが、有希を危険にさらすわけにはいかない。自分に特殊な性質が備わっているとしれたら、有希にどのような危害が及ぶかわからない。沙由美としては、それは何としても避けたいことだった。だから、康太が自分に好意を持っていると分かったからには、関係を続けるわけにはいかない。沙由美と付き合う人はいずれ、沙由美の体質に違和感を持つことになるのだから。
好きなんじゃないですか?
康太の言葉がこだまする。
バーの扉を開ける前に、もう一度考える。そして、かぶりを振る。
あり得ない。誰かに恋心を抱くことは、もう二度とないと思っている。だからこそ、このもやもやをはっきりとさせたいのだ。私に見覚えがあるという青年に対して、私はいったい何を感じているのか。
扉を押すと、重たいベルの音が響いた。
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