物思い
はると、と読むのだろうか。
思わず名前を呟いてしまった自分に嫌気がさし、そのままの勢いでコースターをくしゃくしゃに丸める。
検索用のIDの下に遥翔と書かれたそれを、ごみ箱にすぐにでも投げ捨てたかった。一度ベッドに身を投げ出した沙由美には、目的を果たすためのごみ箱はあまりにも遠くにある。めんどくささに負けた沙由美は、荒いしぐさでポケットに丸めたコースターをねじ込んだ。
壁掛けテレビの電源を入れるためにスピーカーに向かって話しかけようとしたが、辞めておいた。どうせこの時間にテレビを付けても、有益な情報は得られない。夜中の二時を回ったテレビに流れるのは、消費するためだけに生み出された製品の宣伝を目にするのが関の山だ。よく考えれば別に密度の濃い情報を求めているわけではなく、ただ気を紛らわせたいだけだ。スピーカーに向かって「テレビを付けて」と言ってもいいのだが、そんなこともする気力のないほどに倦怠感に包まれていた。
人生は長い。誰よりもこの言葉に説得力を持たせる自信がある。いつになったら人生の終わりが来るのだろうと、人の死を目の当たりにするたびに思う。だが、そんなことを考えても答えは出ないし、そういった類のことを悩んでいるときはだいたい心が病んでいるときだ。そのことに気付いてからは、人の生死や自分の複雑な人生について考える時間を持つことを辞めた。そんなことを考えるのは、今では酔っぱらっているとき以外はあり得ない。
だから、今日は酔いが相当回ってきているのだろう。ベッドの上で寝がえりに打つたびに、太ももへの違和感を強く感じた。それが、そこにごみくずがあるからなのか、沙由美自身が強くひきつけられているからなのかは、本人にもはっきりとはわからない。ただ、心が穏やかではない原因ではあるのは明らかだった。
何考えてんだか。
あきれたような声を自分に投げかけて、寝ころんだまま無造作にポケットに手を突っ込んだ。そうでも演じないと、本当におかしなことをしている自分を軽蔑してしまいそうだった。
はると、はると、はると・・・・・・
読み方が違っているなんてことを、この時の沙由美は頭の片隅にもなかった。ただ、この後なんて言おうかと、第一声を大して考えもせずに、スマートフォンのディスプレイにコースターに記された番号を打ち込んでいた。
不思議そうな顔でのぞき込まれて、やっと我に返る。きっと何度も名前を呼ばれていたのだろう。それでもいら立ちの一つも見せずに、目の前の男性は柔らかい顔をして沙由美の様子をうかがっている。
「ごめんごめん、何の話してたっけ?」
沙由美の言葉を聞いて、さらに不思議そうな顔をする。
「いや、沙由美さんが『気になるってどういう状態?』って聞いたから」
沙由美は体温が一気に上昇するのを感じた。自分がそんなことを尋ねていたなんて、あり得ない。無意識の恐ろしさを痛感する。恥ずかしさをごまかすように、テーブルに残っていたナムルに箸を伸ばした。
「え? 私が康太さんにそんなことを・・・・・・。どうかしちゃってるね。で、なんて答えてくれたんだっけ?」
「ほんと、疲れてるんじゃない? 僕はそれが、恋の話をしているのか、それ以外の話をしていたのかを尋ねただけだよ。まだ何も答えていない」
話せば話すほど、墓穴を掘っていくような気がした。鼻の頭を掻きながら説明する康太に対して、沙由美は素直に頭を下げる。
「ごめんなさい。実は昨日おかしなことがあったから、そのことを考えていて」
「おかしなことって? その話をぜひ聞かせてほしいな」
ジョッキに残ったビールを一息に飲んで、近くを通りかかった店員に声をかける。チェイサーにレモンサワーを注文し、康太にもおかわりが必要か尋ねた。
康太はまだいらないと辞退しながら、
「相変わらず小休憩にチューハイを飲むなんて、身体がどうかしちゃわないか心配だよ」
「そう? まあ、毎日そんなに飲んでいるわけじゃないんだから大丈夫よ。それに、素面じゃいられない夜だってあるでしょ?」
「ずいぶんと闇の深い話が聞けそうだね。僕ももう一杯お代わりをもらっておこうかな」
康太はそういうと、焼酎をロックで注文した。あなたもたいがいじゃない、と沙由美と康太は笑い合う。二人の飲み物が手元に届いたところで、沙由美は昨日のバーでの出来事について語った。
特に目的もなく入ったバーで、遥翔という字を書く不思議な青年に出会ったこと、どこかであった気がするといわれたが、心当たりは全くないこと、にもかかわらず、自分もどこかで出会ったような気がすること・・・・・・。
最後のことに関しては、沙由美も口にして初めて自分もそのように感じていることを知った。自分がそのように説明していることに、沙由美自身が自分に驚いたほどなのだ。
康太はすぐには答えず、難しい顔をしてなにやら考えこんでいる。沙由美としては特に難しい話をしたつもりはなく、ただ客観的な意見を聞きたかっただけだったからこの空気に妙に緊張した。
「沙由美さんは、・・・・・・」
たっぷりと間を取って続ける。ほんの数秒のその時間が、ひどく長く感じられた。
「沙由美さんは、その人に恋をしているんじゃない?」
ばかじゃないの、と思わずレモンサワーをこぼしそうになる。そんなわけないじゃないと、笑い飛ばそうとしたがそれさえもできなかった。
それぐらい、康太は険しい顔をして沙由美を見つめていた。
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