人違い
扉に背を向けていた沙由美には、どんな人が入ってきたのかは分からなかった。新しくお客さんが入ってこようとも、やはりバーテンダーは「いらっしゃいませ」の一言もかけない。入ってきたのは男性らしい。L字型のカウンターの、沙由美とは対角線にあたる位置にスーツ姿の男が腰を落ち着けたのを見て、あの人も一人で飲みにきたのだろうかと推察する。まさか、歳をとらない自分に悩みを抱えて飲みにきたわけじゃないだろうか。
くだらない妄想をしながら、沙由美は頭を振った。こんな特異な現象がそこかしこで起きているなんてばかげている。それに他人の事情を詮索するなんて野暮なことをするのも情けない。
ショートカクテルを揺らしながら、また一口含む。何が燻製されて出てくるのだろう。期待に胸を弾ませながら、次第にアルコールが回って気分が良くなってきた。
バーテンダーの視線が沙由美の後ろを通って、そのまま隣に移った。それと同時に、沙由美の腰掛けているテーブルに影が映る。隣に目をやると、さっきのスーツ姿の青年が腰かけていた。
「よろしければご馳走させてください。それとも、どなたかと待ち合わせですか?」
まだ二十代だろうか。短く刈り上げた横髪と、上げて流した前髪から利発さが見て取れる。物怖じせずにおばさんに声をかけてくるのだから、きっと自分に自信があるのだろう。はっきり言って、沙由美はそういうタイプの男性が苦手だった。自分本位で何でも思った通りになると勘違いをし、時には半ば強引に関係を持とうとしてくる輩に何人も出会ってきた経験からそのように思うようになったのだ。
「同じものをください。それから、何かおすすめのつまめるものがありますか?」
青年が沙由美のグラスを一瞥して、バーテンダーに尋ねる。丁寧な物言いと不躾に沙由美のグラスを見る態度に、彼の人柄を掴めないでいた。
バーテンダーが沙由美に目配せをした。それに気づいた沙由美は、静かにうなずいた。大丈夫ですかと尋ねるその優しい目が目の前にあるのだ。この店にいる限り、ひどい流れにはならないだろうと沙由美は確信していた。それに、隣に座ったこの男に、なぜか好奇心が沸いている。その原因が何なのかを掴みたくもあった。
青年の前に、沙由美の飲んでいるカクテルと同じグラスが置かれる。彼はそれを目線と同じ高さに掲げて、じっと眺めた。そして、口元に近づけて一瞬の間をおいて、口に含んだ。
彼はすぐには何も言わなかった。ただ,口に含んだお酒に何か意味を見出そうとしているかのように,じっくりと味わっている様子が伝わるだけだ。
「美味しい。これは何ていうお酒ですか?」
沙由美に尋ねるとも,バーテンダーに問いかけているとも受け取れる投げかけに,どちらも答えなかった。
沈黙を破るように,バーテンダーは青年の前におつまみを乗せたプレートを置く。高級感を感じさせる重みのある音ともに,ハスキーな声で言った。
「ギムレットです。すっきりしているとは思いますが,度数が高いのできつく感じられる方もいられます」
「これがギムレットか」
青年は感慨深げにつぶやく。
「いや,実は好きな小説があるのですが,その作品にギムレットというお酒が出てくるので。一度飲んでみたかったのですが,ようやく願いが叶いました」
よくしゃべる男だ,と沙由美は辟易した。話し相手を求めてバーにやってくる客もいるのだろうが,静かに過ごしたい沙由美としては勘弁してほしかった。
「ところで,どこかでお会いしませんでしたか?」
意外な言葉に,反応してしまう。沙由美としては,生きるためにお金を稼ぐ以外は,極力人と関わらないようにして生きてきた。だから,こんなに若い青年と何か関わりがあるなんて考えられない。それでも,長く生きていると思わぬところで繋がりが出てきてしまう。切れかけた蛍光灯のように不規則に波打つ鼓動を感じながら,沙由美は青年の顔を見た。
「私には覚えがないけれど・・・・・・。人違いじゃないかしら?」
青年は美しい顔をしていた。長いまつげに光が当たり,筋の通った鼻はファッション雑誌のモデルであったとしても映えそうである。
「覚えがない」というのは嘘ではなかった。ただ,違和感があったのも事実である。記憶の隅をつつくような既視感。しかし,それが何を意味しているのか,沙由美にはわからなかった。
「そうでしたか・・・・・・。いや,でも絶対どこかでお会いしたことがある気がするんだけどなあ」
不躾にじろじろと沙由美の顔を見る青年に,沙由美は心底うんざりした。せっかく良いバーを見つけたのに,もうここに来ることは二度となさそうだ。
バーテンダーにお礼を言い,会計をしようとスマートフォンのディスプレイを触る。その画面の上に,横から手が伸びてきた。
「ここは僕がごちそうします。ただ,押しつけがましいのですが・・・・・・」
そう言って青年は胸ポケットからボールペンを取りだし,コースターになにかを書き始めた。この先が読めた気がした沙由美は,出来るだけ突き放すように言った。
「結構です。もう少しゆっくりしたかったのだけれど,そんな気分じゃなくなりましたので。お互いのために,このままがいいでしょう」
「ええ,あなたがどうしようと結構です。だから,これだけ受け取ってください。見たくもなければ,そのまま捨ててもらって結構です」
コースターには,連絡先が走り書きされている。
それならそのまま捨ててくれ,とでも言いたくなったが,これ以上余計な関わりを持ちたくなかった。
沙由美は支払いを済ませ,バーテンダーに会釈もせず店を後にする。扉を開いたときに響いたベルの音が,一層不快に響いた。
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