二軒目

「それから、どうなったの?」



 ワイングラスを傾けながら尋ねる有希に,「そろそろ控えたら」と沙由美は促した。もうデザートも食べ終わったと言うのに,話を聞きながら三杯はワインをお代わりしていた。



「打ち明けてしまったらいいのに。どうしてそんなに頑なに隠すのよ。支えてくれる最高のパートナーになったのかもしれないのに」



 店に来た時には、「ちゃん」付けて呼ぶことすらはばかっていたくせに,ずいぶんと気が大きくなったものだ。

 沙由美はかばんを手に取り、立ち上がって襟を正した。



「さあ,もういい時間よ。おばあちゃんは眠くなる頃ね」

「失礼ね。確かに眠たいけど,それはお酒のせい」



 財布を手にして会計をスタッフに頼もうとする有希に、いいからと声をかけて出口に向かう。



「もしかして、もうお会計済ませたの?」

「おばあちゃんに払わせるわけにはいかないじゃない」

「おばあちゃんって言わないで。孫どころか、娘すらいないのにそんな呼ばれ方されたくないわ」



 ところで、と有希は目を細めて沙由美のかばんを覗き込んだ。本当に中身を取り出しそうな顔をしている。



「もうキャッシュレス決済はできるようになったの?」

「そんな訳のわからないことやってないわ。私は理解ができないものには手を出さないことにしているの」

「もう、私よりよっぽどおばあさんじゃない。もうすぐ2050年になろうとしているのに、まるで石器時代を生きている人ね」



 それは言い過ぎよ、と有希を小突く。確かに、ほとんどの人がキャッシュレスで決済を済ませる中、沙由美は生まれてから現金以外の方法で支払いを済ませたことがない。クレジットカードはもちろん、マイナンバーカードも持っていないため、いろいろな手続きで不便だし、持っていないことにで怪しまれるようなこともあった。

 

 それでも沙由美は、自分にそんなものが持てるはずがないと理解している。この世に生まれて98年。それなのに三十代の見た目から変わらない自分を隠し通すためには、自分を証明する何かを徹底的に避けて生活する必要があったからだ。


 いつまでもこうして、日陰を生きていく日々が続くのだろう。文字通り永遠と、愛する人を見送ることも、愛する娘に看取られることもなくただ生き続ける。そんな悲壮感が沙由美の心に襲いかかる。これから一人で夜明けを待つには、あまりにも闇が濃すぎた。



「じゃあね,お母さん。今度は私がごちそうするから」



 駅の方向へと陽気に歩き始めた娘を引き止めるわけにはいかなかった。歳をとらないことに不安を感じているなんて、打ち明けられない。有希ならば、きっと優しく話を聞いてくれるだろう。心配ないよと言ってくれるに違いない。容姿が衰えないということがいかに奇跡的なことであるかを説いてくれるだろう。でも、何だか分からない焦燥感を負かしてくれるのは、ただそこに人がいてくれることだということを沙由美は分かっていた。でも、それを娘に頼るわけにはいかない。親として情けなくもあるし、何より、私がいつまでもこの姿である間に、有希は衰え、先に死んでしまうのだから。






 扉を押すと、安っぽい鈴が店内に客の来店を知らせた。その音にマスターが反応するわけでもない。一人になりたくないという思いと、誰にも構われずに一人でしっぽり飲みたいという矛盾した気持ちに挟まれていた沙由美からすれば、ちょうどいいバーだと思えた。


 扉から近いカウンターに腰掛けて、壁に掛けられたドリンクメニューに目をやる。店内に目を走らせると、仕事終わりを思わせるスーツ姿の二人組やカップル、大学生ぐらいのグループなど客層は様々だった。それぞれが飲んでいるグラスにちらりと目をやると、出しているお酒は値段も踏まえて大衆受けするものなのだろう。美味しいお酒を味わって飲むお店というわけではなさそうだ。それは、店内に入る前から沙由美自身がうすうす感じていたことだったので、別に不満はない。何より、お酒を味わうために店に入ったわけではないのだ。



「ビールには重いでしょう。二軒目の方にはジントニックをお勧めをしております。お酒が得意でしたら、ショートカクテルもお勧めしますが」



 飲み物を注文しようと視線を前に戻すと、いつの間にかバーテンダーが立っていた。



「どうして二軒目って決めつけるの? ここで飲むことを楽しみにしていたお客かもしれないのに」

「そんな方がいると嬉しいですが、可能性は低いですね。それよりも、いいレストランで食事を済ませた方が、消化不良でたまたま目に入った小汚いお店を選んでくれたと思う方が自然です。こんな時間にカジュアルドレスを着ている人が、一見目にこの店に来ることは今世紀はありそうにないですから」



 それもそうか、と自分の格好を見て沙由美はうなずいた。



「おすすめは? お酒は好きだから、ショートカクテルでも何でもいいわ」

「それでは、少々お待ちください」



 そういうと、バーテンダーは手際よくシェイカーを操り、手際よくカクテルを作った。バーのドリンクは割高だと感じるが、こうしてカウンターに座ってプロの手さばきを目にできることも酒の味わいの一つなのだと沙由美は思っている。その手つきに見とれていると、あっという間に目の前にグラスが差し出された。



「これは何ていうお酒?」



 沙由美の問いかけに、バーテンダーは答えなかった。



「まずは一口どうぞ。きっと、あなたは目当てのお酒があるわけではないのでしょう。名前は後からつくのです。ただ、味わってください」



 沙由美もそれには答えず、ショートカクテルを口に運んだ。口の中で優しく転がし、ゆっくりと喉を通す。アルコール度数が高いぶん、喉から下へカクテルが降りていくのがわかる。そのあとに、すっきりとした柑橘系の香りとキレのある味わいが口の中に広がった。



「ギムレットかしら? とても美味しいわ」

「さすがです。うちのお酒、意外と悪くないでしょう?」



 席に着くや否や、品定めをしていた沙由美の視線に気づいていたのだろう。沙由美の格好から客を推察するあたりから、なかなかやり手の店主のようだ。



「何かお酒に合うものをいただきたいのだけれど、おすすめがあるかしら」



 沙由美の問いかけに、グラスを拭いていたバーテンダーが顔を上げた。



「燻製が趣味でして、そういったおつまみを取り揃えています。苦手でなければ、お出ししますが」



 それはいいわね、と沙由美は答えた。適当に入ったお店だけど、なかなかおもしろい。そう思いながらカクテルを口に運ぶと、店内に例の鈍いベルが重たく響いた。

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