出会い

目の前に広がる田園風景は、昔からの沙由美のお気にりの場所だ。ただここで、じっと景色を眺めているだけで良かった。土手に腰掛けて田んぼを眺めている時は、誰にも邪魔されたくない。だから、散歩中の人が挨拶をしても、沙由美は無愛想に対応していた。そんなしばらく続くと周りも何かしら察したのか、近所の人は沙由美がそうしているとだいたい放っておいたし、もし絡んでくるような人がいても、変わらず沙由美なら素っ気なく対応していた。

 寿代が生まれてからも、沙由美は定期的にこの場所に来た。育児に悩んでいても、ここでぼーっと景色を眺めているだけで、悩んでいたことが些細なことに思えてくる。この日も、時おり声をかけてくる寿代に微笑むだけで、ただ何もせず腰を落ち着けて日が沈むまで過ごすつもりだった。

 しかし、この日はそうではなかった。珍しく沙由美に近く人がいた。その声に沙由美が珍しく返事を返したのは、声の主が娘に愛想よく声をかけたからかもしれないし、よく通る綺麗な声をしていたせいかもしれない。あるいは、ただの気まぐれかもしれない。間違いないのは、この日の出会いは沙由美にとって大きな一日だったということだ。



「何を追いかけているの?」



 楽しそうに赤とんぼを追いかけている寿代に、スーツ姿の小綺麗な格好をした一人の男が近づいた。さすがに親が目の届くところにいるのだ。沙由美の存在に間違いなく気づいているだろうから、この男が不審者でないだろうと思いつつも、沙由美は警戒しながら男と娘をじっと見ていた。



「赤とんぼだよ!」



 寿代が健気に男に返事をする。沙由美は娘の人懐っこさが嬉しくもあり、心配でもあった。物怖じせずに誰にでもコミュニケーションを取るのは立派なことだが、何か悪いことに巻き込まれるのではないかといつも心配していた。



「赤とんぼか。この辺にはたくさんいるね。捕まえた?」

「ううん。すばしっこくて捕まえられないの」



 寂しそうに男を見つめる寿代に、男が「見てて」と呟いた。彼は草に止まった一匹に近づくと、赤とんぼの正面に人差し指をそっと突き出した。そうしてくるくるとゆっくり弧を描くように指を回すと、次の瞬間にはぱつっと弾けるように指を動かし、指の間には赤とんぼの羽が収まっていた。当の本人は何をされたのかまだ気づいていないみたいに、おとなしく指の中に収まっている。



「わあ、魔法みたい」

「使えるように教えてあげるよ。えっと・・・・・・」

「私の名前は寿代です。おじさんは?」



 男はかばんを提げた手で鼻の頭を掻いた。年齢は沙由美と変わらないので、おじさんと呼ばれるのは初めてで複雑な気持ちに違いない。そんなことを想像して、沙由美は思わずクスッと笑った。



「寿代ちゃん、そろそろ帰ろっか」

「えー、私は今からこのおじさんに魔法を教えてもらうの。まだ帰らない」

「おじさんなんて言わないの。それに、お仕事で疲れているんだから。また遊んでもらいなさい」




 駄々をこねている寿代を沙由美がなだめる。愛おしくてたまらないと思う反面、言うことを聞いてくれない時には勘弁して欲しいとうんざりすることもある。世の中の母親はみんなそうなのだろうか。たった一人で誰にも頼らず子育てをしているという自負がある沙由美にとっては、泣き言を言う母親達を甘いと思っていた。旦那が何もしてくれないという母親には、金を稼いでくることに感謝しろとさえ思う。



「達彦って言うんだ。おじさんじゃなくて、達彦さんって呼んでくれる?」

「分かった! 達彦さん、魔法教えて!」



 沙由美と達彦は顔を見合わせて笑い合った。沙由美は、こんな風に人と人を結びつける子どもの無邪気さに感心しながら、楽しそうに赤とんぼを追いかける二人を日が沈みかけるまで眺めていた。



「今日はとっても楽しかった。また遊ぼうね、達彦さん」



 曇りのない透き通った声で寿代が手を振りながら言う。それに応えるように達彦も手を振り返した。その日を境に、沙由美のお気に入りの田園風景を前にして定期的に三人は顔をあわせるようになった。沙由美にとっては誰にも邪魔をされたくない貴重な時間であったのにも関わらず、気づけば達彦に会えない日があると彼のことを心配するようになっていた。


 何が決定的な出来事だったのかは沙由美も覚えていないが、二人は自然と付き合い始めた。三人で食事をしたり、遊びに出かけたりもした。沙由美にとっては、優しくて面倒見のいい人に出会えて何も文句はなかった。それどころか、父親がいなくて不憫だと思っていた娘に面倒見のいい素敵な人が現れた。寿代も達彦にずいぶん懐いている。

 これからのことについて、どうしたらいいのか迷った。沙由美自身、自分の境遇を打ち明けたいという衝動に何度かかられた。一人で抱えるには、精神的にあまりにも負担が大きかった。もういいのではないかという気持ちに支配されることもあった。


 田園風景を眺めなら、一人で考えた。そして、心を固めた。


 その日を境に、沙由美は達彦の前から姿を消した。

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