100年目の恋
文戸玲
レストラン
窓の向こうに見える鉛色の空はぼってりと重たく、その厚みのある雲がどこまでも広がっていた。家を出るとこに確認した腕時計には天気予報が表示されていたが、雨を示すアイコンは表示されていなかった。
「有希ちゃん、傘持ってきた?」
沙由美は、ワイングラスを傾けている有希に尋ねる。有希に気付かれないように綺麗に束ねられている髪をちらと見て、細長い息を吐く。白髪の混じった髪とグラスワインを揺らしながら、娘はその香りか色合いだかを味わい深く楽しんでいた。
「持ってきてないよ。天気予報も雨じゃなかったから。あと、その呼び方はもうやめてって何度も言っているでしょ。笑われちゃうわ」
「誰が笑うのよ。有希はなんでも気にしすぎなの」
「気にするわよ。もうすぐ定年のおばちゃんが、30そこらのお姉さまに”ちゃん”付けで呼ばれるなんて、情けないじゃない」
うんざりした表情でワインを口に含む有希に、「娘を”ちゃん”付けで呼んで何が悪いの」と言いかけてやめる。満足そうにワインを飲む娘の邪魔をしたくなかった。それに、そんなことを言うと「それも言わない約束でしょ」と有希に詰められることは目に見えていた。「バレたら政府に動物実験のように扱われてしまうかもしれない」というファンタジー小説のような妄想まで物凄い剣幕で語られるのもこりごりだ。
「ところで、今日が何回目の誕生日になるんだっけ?」
有希がステーキを切り分けるのに夢中になりながら聞く。
「あら、有希ちゃんからそんなことを聞いてくるなんて、珍しいこともあるのね」
「まあ、一応ね。それに、毎回言うことも微妙に違うんだもの。今年はどんなことを言うのか聞いておくのも年に一度の恒例行事だから」
プレートの肉を切り分け終えた有希は、はしっこの一枚を口に運ぶ。満足そうに頷きながら、グラスワインを口に運ぶ。そのグラスが空になったタイミングで、ウェイターが有希のグラスにワインを注ぐ。
きっと、有希はこのレストランの常連なのだろう。席に着いた時に、沙由美には飲み物を確認したのにも関わらず、有希にはオーダーしていないドリンクが用意され、おかわりまでもお伺いなしに提供される。一体どれほど通いつめればこのような待遇になるのだろうか。それなりにお金も落としているからこそこのような待遇を受けることもできるのだろう。独身貴族というのは身分なのだと感心した沙由美は、自分も同じ立場であることを思い出して静かに笑った。
「そういえば、最近どうなの?」
有希が興味深そうに尋ねる。目を細めていながらも額に寄る皺をチラッと見て、やっぱりずいぶん歳をとったものだと思う。
「どうって、何が?」
「だから、毎度のことだけど、いい人いないのかって聞いているの。いつまでも独り身でいると寂しいわよ。そういえば、泣きぼくろのある女性はセクシーだって前会った人が言っていたわ。三十前半の若い人よ。今でもそのチャームポイントは通用するみたいね」
有希が沙由美の左目の下にある泣きボクロを見つめながら、美味しそうにワインを口に運ぶ。そのチャームポイントが生きていくのにはやっかいなのよと、沙由美は口に出さずにほくろを指で撫でる。
「いつまでも一人でいるつもり? そんな寂しい人生でいいの? 相手は探しているの?」
「有希ちゃん、なんだかあなたがお母さんみたいね。それに、有希ちゃんも一人じゃない。そんなに急かさなくても大丈夫だから」
「私は好きで一人でいるの。でも、お母さんは違うでしょ。特にお母さんは、これからも一人だなんて寂しすぎるじゃない。いずれ私もいなくなるんだし」
「それもそうね」
「こら、否定しなさいよ」
有希が口をとがらせて、ワインを口にする。グラスが空になったところで、ウェイターがワインを注ぎにきたが、それを有希が断って代わりにお水を頼んだ。沙由美も一杯付き合ったが、有希はおそらくボトル一本は一人で空けているほど飲んでいる。少し酔っぱらってもいるのだろう。動作がいつにも増してざっくばらんで、口調も砕けている。
ウェイターが持ってきた水を半分ほどうまそうに飲んで、有希は沙由美の目をじっと見つめた。
「まあ、一人は一人で楽しいんだけどね。でも、お母さんには本当にいい人を見つけて欲しいの。ほら、ずいぶん前に話してくれたじゃない。あの学校の先生をしていたって言う人。今は何歳なのか知らないけど、次にそういう人に出会ったら、絶対離さないのよ」
分かった? と頬を赤らめて詰め寄ってくる有希をなだめていると、コース料理のデザートをウェイターが聞きにきた。言っていることが聞き取れずに困惑しているところに、「ムースとプリン、どっちがいい?」と有希が助け舟を出した。プリンと答えるのも恥ずかしい気がして「ムース」と答えると、ウェイターは最愛の娘にしか見せないような笑顔で会釈をして去っていった。私が恥を忍んでムースにしたのにも関わらず、有希はプリンを頼んでいた。
「本当はプリンが食べたかったんでしょ」
有希が面白そうにささやく。
「どうして? 私はムースが好きだわ」
「嘘ばっかり。プリンって選択肢を聞いて、答えは決まっているけど違う方を選んだって言い方だったわ」
有希の話を聞いて思わず吹き出す。確かに強がっていた。でも、それを見事に見抜く酔っ払いの娘に、さすが私の娘と舌を巻いた。
そうこうしていると、デザートが運ばれた。
有希の前に運ばれたデザートを見て、思わず息を呑んだ。
「ほら、お母さん、やっぱりプリンが良かったんでしょ。いいよ、交換してあげる」
自分のデザートを手渡す有希に微笑み、いいから食べなさいと促す。その笑顔が引きつっていることを沙由美は分かっていたが、どうすることもできない。
有希は怪訝そうにデザートを口に運ぶ。「おいしい?」と沙由美は問いかけたが、沙由美の気持ちはそれどころではなかった。パフェの器にプリンが綺麗に乗せられ、そこに季節のフルーツが存在感を醸し出している。それは、さっき有希が話題にした、沙由美の元恋人に連れられたカフェのデザートにそっくりだった。
満足そうにそれを口に運ぶ有希を見ながら、自分を落ち着かせるために目を閉じる。
ずいぶん昔のことなのに、どうしてこんなに心が揺さぶられるのか分からない。落ち着こうとすればするほど、動機は激しくなり、呼吸がしづらくなる。ずいぶん昔に忘れたことじゃないか。そう自分に言い聞かせたのに、沙由美の瞼の裏には当時の風景が鮮明に浮かび上がった。
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