第3話 エスカ

 嗅覚ではない。

 聴覚でもない。

 ただ、漠然とした『死』の気配は常人にもわかるのだなと、私は他人事然と感心した。



 危機をアティエノに伝えることも、村人を連れ出すこともなく。

 そもそもアティエノがどこにいるかさえ関心が億劫になり。




 ――呆然と、その瞬間を待った。




 ……これは当時知る由もなかった話だが。


 C弾頭。

 弾道ミサイルに化学兵器を搭載し、着弾後に深刻な健康被害をもたらす悪魔。



 そしてヌル村に殺到した反政府軍を仕留めるべく、ケリンブ政府が使用したのも通常のC兵器ではなかった。



 マラーガ合意から5年間ロシアとエジプトが共同開発し、遂に戦場に出てきた最悪のガス。

 持続の短さと反比例した即効性を持ち、敵軍の心を砕くためだけに使われる死神。

 ナチスドイツがサリンを名付けたように、ソレはэрозияに由来するコードネームを与えられた――



 ――エスカ、と。





 着弾からどれだけの時間が経っただろう。

 少なくとも私は爆風と衝撃を受け、そのまま気絶してしまいたかった。

 けれど、網膜を独占するナニカがそれを許さなかったのだ。




「…………あ  れ …… な に、 」



 日本という国ではウサギを食べるとき、下半身の皮を脱がすと聞いたことが有る。

 そんな連想をしても心が溶けないくらい、ソレは現実と乖離していた。




 アティエノから村の状況は聞かされていた。

 いつだかのイスラエル……とまではいかないが、市民にもAC対策のため扉を密封できるテープが支給され、応時にはそれで立て籠もるのだと。



 それで、な に が?


 考えてみればマスタードガスでさえゴムを貫通したではないか。



 まるで手が2つしかないジャンケンのようだ、と私は気づいた。

 逃げ遅れたが皮膚のない直立オブジェになったのを見た時、ようやく私は走り出した。



「うああああああああああああ――――あああああああああああああああああ‼‼」


 視認などもってのほか、臭気も頼りにならない。

 ただ、そこに「ある」ことがわかるだけ。

 だから周囲一体の空気を私は掌に握り込んだ。




 ――ギュンッッ‼ 


 急激な減圧の影響か、鼓膜を傷つけるほどの衝撃が走り抜ける。

 けれど耳は覆えない。

 能力の照準となる腕は着弾点へ向けたままだ。



 ようやく重力が自我を取り戻し、私の視界を埋め尽くした極彩色が剥がれていく。


 再びあらわになったのは、変哲のない数十の民家。最も近いものは数十メートル先、そしてその奥にC弾頭の着弾点があり、ヌル村全体が同心円状に被害を受けていた。


 試しに、息をしてみる。


 ……生命の匂いがしなかった。

 村人はもうみんな――いや、私が――


 

 と。

 そんな心理状態にもかかわらず、免疫は健全だった。

 くしゃみが漏れる。その上頭を振ったので、目から液が溢れてしまった。



「……待って」


 くしゃみ?


 ここは、今――


 風下、なのか?



「…………ッ‼」



 ビリィィィ‼


 黒板を爪で引っくように、亀裂か火傷か判別のつかない現象が起こった。


 そして。


 私の両手首から先の皮膚が、



 ポン! ……とは鳴らなかった。

 再び周囲一体がお花に置換され、埋まりそうなほどに包まれる。

 タンジーを座布団にし、その茎を膝でへし折る形で、私はへたり込んだ。


 足元はもうグシャグシャだ。

 スぅー……、と息を吸っても、肺が腐ったりはしなかった。



 咳が止めどなく溢れた。

 息をする暇が取れず、本当に窒息しかけた。




 一人だ――この広い世界の中で。自分を悪魔と罵る者だけの世界で。


 いや、それも終わったのかも……ルジェさえ居なくなれば、私が……一介の花屋娘がアフリカくんだりで世界の命運に関わる必要なんて……



 ヌルヌルしたアレルギーの発露が顔を覆う。

 歯の隙間からは生理現象以外の何かが噴出しそうになる。



「……くっ」


 それを認めるのがしゃくに触ったのだろう、別のもので誤魔化そうとしたのだ……乾いた笑いが一束だけ出てきた。

 それで精一杯だった。





 和菓子がバウムクーヘンのように丸まった私の背中を――どちらも食べたことはないが――優しくさする誰かがいた。

 この手の感触を思い出すための皮膚はもうないけれど、その名前まで忘れたわけではない。


「アティエノ――」


「…………、」


 ここに至って、私はもう嘘をつけなくなった。


 


 一つには、彼女への感謝と、強さへの感動と、そしてその強さを強いた環境への憤慨。

 この子は私の後ろに居たから平気だったろうけど、着弾点付近にいた家族はまず誰一人助かっていないだろう。

 それなのに、この子は……人の悪意に打ちのめされた上で、悪意それを更に粉砕する方法を知っている。


「フィズさん」


 人間の肉声がひどく遠ざかった故郷の味みたい。

『死』を目にすると、ここまでもろく、人肌が恋しくなってしまうらしい。

 ひどく真っ直ぐで、震えも怯えもなく、傷ついた心への手加減などなく、しかしそれゆえにどこまでも人を突き動かせる声だった。


「もうやめようよ。

 私はフィズさんとお別れしたくない。

 いやだよ。

 なぐられるのも、けられるのも、ナイフを投げられるのも、ダグさんみたいにおばけになるのも。

 こわいものは、みんないや。

 

 だからね……フィズさんはあの飛んできたやつと、友だちにならないといけないの」




 ややあって。

 足りない頭を回しまくってなんとか言葉をまとめた私は、真面目な子供が先生へするように慎重に口を開いた。


「うん……私もどこかで分かってたの。頭がお花畑じゃダメだって。

 いつかは大人にならないといけないんだってこと」


 振り向くと気高い顔があった。

 しかして鉤爪かぎづめではなくひづめを心に秘めていた。


「アティエノ。これからはあなたが理想を語りなさい。

 幻想を夢にするのは私たちの仕事でいい。

  

 ……姉たるもの、弟の気持ちは汲んであげなきゃね!」



 それが感情のせきを粉砕したのか。

 涙腺を真っ赤に染め、ようやくアティエノが年相応の振る舞いを見せた。




 簡素な弔慰と黙祷を捧げ、墓は掘らなかった。

 幸いに夕日が残っていたので、彼らの顔を判別することはできた。

 

 アティエノは親を探さなかった。

 だけど、「また戻ってくるよ」と――彼女らしい芯のあるセリフを口にした。



 少しだけモノを借りていこう。

 カーフスキンの黒い手袋。

 キュっ、とめると握力を失った手が以外に頼もしく、また、持ち主の手のクセが残っていてその拒絶が心地よかった。

 

 

 これ以上は何も失わない。

 これ以上は誰も奪わせない。 

 


 私はアティエノに最初のオーダーを尋ねた。



「行こう――ルジェさんを取り戻しに‼」









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