残り物には福がある

増田朋美

残り物には福がある

その日は、朝方はすごく涼しくて気持ちの良かったのに、午後になるとものすごい暑くて、どうしようもないくらいだった。なんでも台風が来ているというのだが、何故か進路予想が定まらなくて、どうも変な天気が続いていた。急に雨が降ったりとか、その後でギラギラに晴れたりとか。そういう変な天気が続いてしまうのも、おかしなものであるが。

その日、花村さんのもとに、一通のメールが来た。なんでもお稽古を見学したいということだそうだ。まあ、いつでも、そういう依頼はやってくるんだけど、いつものことなので花村さんは特に気にもかけずにいたのだが。一応、午後二時に来てくれということにして、花村さんは、パソコンを閉じた。

そのとおり、午後二時。とにかく暑くなる時刻。そんな中、花村家のインターフォンがなった。

「はいどうぞ。」

と、花村さんがいうと、

「こんにちは、私、加藤菜摘と言います。こちらは、花村先生のお宅でよろしかったですよね?」

なんか随分明るいなという感じの声である。

「あの、先程、メールしたものなんですが?」

「ええ、存じております。」

花村さんは玄関先に行くと、女性が一人立っていた。確かにきちんと洋服を身に着けていたのだが、全身汗だらけで、遠くから歩いてきたように見える。それに、加藤菜摘という名前は、どこかで聞いた覚えがあった。

「加藤菜摘さんですね。とりあえず中にお入りください。外は暑いですし、熱中症でもかかったら、大変なことになりますよ。」

花村さんは、とりあえず彼女を部屋の中に入れた。そして、お琴が設置されている、仕事部屋に連れて行く。

「とりあえずこちらでお座りください。」

花村さんは、彼女を椅子に座らせた。

「今日はどうなさったんですか?」

とりあえずそう言ってみる。

「ええ、実は、先生にレッスンお願いしたくて参りました。」

そういう彼女に、花村さんはびっくりしてしまった。

「あたし、長年ずっと山田流で須田先生の元で学んできましたが、今月で、須田先生が、今のカルチャーセンターを退職することになり、後任の先生がいないのでだったら、花村先生が近くにいらっしゃると思って今日やって来ました。」

「は、はあ、そ、そうですか、、、。」

花村さんはとりあえず言った。

「須田先生といえば、私も存じていますよ。須田凪子。確か、以前は、組歌演奏会にも出演されていたような。しかし、不思議ですね。須田凪子先生といえば、非常に有名な方であることは疑いありません。その須田凪子先生のもとにいながら、なぜ、後任がいなかったのでしょうか?」

「ええあたしもそこがよくわからないんですが。」

加藤菜摘さんは言った。

「なぜか、須田先生が、今月いっぱいで、今のカルチャーセンターを退職すると宣言されたんです。それで、あたしたちはどこにも行くところがなくなってしまったわけで。」

「そうですか。しかし、そうなると私では、力不足ではないかと思います。須田先生といえば、古典箏曲の大家として、私もなを知っている方です。何度か、須田先生と共演させて頂いたこともありましたが、私は、会派が違うので、さんざん須田先生に軽蔑されたようなところもありました。現に須田先生の所属は萩岡会ですが、私は、朝香会です。あなたもご存知だと思いますが、須田先生が、萩岡会以外の人間を、さんざん馬鹿にしたことはご存知でしょうか?」

花村さんはとりあえず、事実を言ってみた。

「ええ、それは私も存じています。だからこそ私は、萩岡系の方にこれ以上つくのは嫌だなと思ったんです。」

そういう加藤菜摘さんに、

「確かに、古典箏曲を独占販売していたのは萩岡の方々でありますからね。私達は、古典をやりたくても、楽譜がなくてやれない状態がずっと続いています。申し訳ありませんが、古典を中心にどうのというのなら、萩岡会の方を当たる方がいいと思いますね。私は、どちらかというと、古典箏曲はやっても意味がないと思うので、新しい作曲家の作品、例えば高野喜長さんとか、そういう作品をやらせて頂いていますのでね。」

と花村さんは言った。

「でも私、お琴を続けたいという気持ちは持っています。もし、芸名が失効するというのでしたら、私はそれでもいいです。基礎からやり直せと言うのであってもいいです。そういう事は、馬鹿な私でもちゃんとわかってますよ。そういうことをわかっているつもりでこちらに来たんですから。それに私だって、須田凪子先生のやり方は間違っていると思っていました。なんでも古典で解決しようとして、現在の作曲家の方をすごく軽蔑していたのは、私も嫌でしたから。」

花村さんはちょっと意外そうに、加藤菜摘さんを見た。

「はあ、職格者の方ですか。それでは余計に難しくなるでしょうね。」

とりあえずそう言っておく。

「ええわかってますよ。須田先生に芸名はもらっても、それは何の役にも立たないってことは。だから失効してもいいって言ったじゃないですか。私は、それでもいいって。本当に須田先生は横暴なやり方でしたから、もうさようならできて私は嬉しいですよ。だから花村先生、ぜひ先生の仲間に渡しを入れてください。」

一生懸命そう訴える加藤菜摘さんに、花村さんは生半可な気持ちでここに来ているわけは無いと言うことがわかったので、彼女を受け入れることにした。

「わかりました。じゃあそうしましょう。加藤さん、早速第一の課題曲として、高野喜長さんの花の歌をやってきてください。多分古典になれているあなたには大変むずかしいと思うけど、でも、やってみていただければ、私達の活動とか傾向がおわかりになるでしょう。」

と、花村さんは言った。

「高野喜長さんの花の歌ですね。わかりました。それはどこで手に入りますか?私達は、楽譜を買うとなると、古本屋さんに行くか、ヤフーのオークションとか、メルカリで手に入れなければいけませんでした。」

と、言う彼女に、花村さんは、

「普通にお琴屋さんで買えますよ。」

とだけ言った。

「わかりました。じゃあ一週間したらまた来ますから、そのときに花の歌を聞いてください。本当にありがとうございます。先生、これからどうぞ、よろしくおねがいします。」

と、加藤菜摘さんは深々と頭を下げた。花村さんは意欲のある彼女に、

「わかりました。お稽古が開始できるのを楽しみに待っています。」

と言ったのだった。彼女はありがとうございました!と言って帰っていったけど、花村さんはその背中を見ながら、困った事になったと思ったのだった。

というのは、花村さんも、須田凪子のことはよく知っている。確かに演奏の上手い奏者だったことは疑いない。だけど、彼女の権力意欲というか、そういうものが、すごいものであると言うことも花村さんは知っていた。実は花村さんも彼女の被害にあったことがあった。確か、静岡で演奏会があったとき、花村さんたちは、高野喜長さんの曲をやることで決定していた。だけど、須田凪子が、花村さんたちを馬鹿にして、全て古典箏曲をやるようにと無理やり変えてしまったのである。その時花村さんがやらされたのは、古典箏曲の中でも特に難しいと言われている八重衣とかだったような気がする。そして須田凪子は、花村さんたちに、古典箏曲の中でも長くて歌ばかりである住吉という曲を演奏させて見せて、花村さんたちに自分たちはこんな曲ができるのだということを示して見せたのだ。そのやり方が、本当に強引で、なんであんなもの今どきやるんだろうなという気持ちになる。今どき、住吉なんて、30分近くかかる太曲を、演奏会で取り上げるなんて、まずはじめにありえない話だし、それに、30分もかかるような曲をやっていたら、邦楽なんて、こんなつまらないものを聞かされるのかなんて批評が飛び交って、人が来なくなるのは当たり前だろう。また、こんなことも聞いたことがある。須田凪子の使っていた琴の絃が切れたとき、一万円いないで張り替えろと言って、お琴屋さんや、絃を売っている業者を困らせたという。こういう当たり前でありえないことを、普通だと思ってしまうのが、有名な人なのかもしれないと、花村さんもよく思ったものであった。それでだって、お琴が絶滅しないようにというためのことであるが、花村さんにしてみれば、お琴の絶滅を早めているような、そんな気がしてならないのである。

その、須田凪子の弟子だった人物が自分の所を尋ねてくるとは。須田凪子先生のことだから、後継者とか、ちゃんと作ってやっているはずだと思ったのに。もしかしたら、その加藤菜摘さんと言う人は、須田凪子に背いたというか、なにか反論した事により、須田凪子の一門を追い出されたのかもしれなかった。でも、意欲的にお事を習おうとしてくれたのだから、引き受けなければならなかった。だから、須田凪子の横暴な態度は忘れて、彼女を朝香会ならではのやり方で教育し直すことに決めた。

それとほぼ同時に、製鉄所では、水穂さんのもとに、一人の女性が尋ねてきていた。名前は服部有菜さんという女性で、連れてきたのは、桂浩二くんである。なんでも、彼女は、富士市内でも有力なピアノの先生である、秦野先生に師事していたようであるが、態度が悪すぎるということで、その先生のもとを、追い出されてしまったという経歴を持っている。彼女は、よろしくおねがいしますと言って、水穂さんの前でランゲの花の歌を弾き始めたのであるが、決して音楽性が悪いわけではなく、音のバランスもいいし、きちんと弾けていることは間違いない。

「ありがとうございました。」

弾き終わると、彼女は、丁寧に座礼した。

「そうですね。演奏はとてもきれいにできているし、強いて言えば、もうちょっと、強弱をつけたらどうでしょう。盛り上がるところはちゃんと盛り上がって、そうでないところは小さく演奏する。これをもう少し、やってみると演奏が変わって来ると思いますよ。」

水穂さんがそうアドバイスすると、

「ありがとうございます。あたしのようなものが右城先生に見てもらえて、ホントなんだか申し訳ない気持ちがしてしまいます。」

と、服部有菜さんは申し訳無さそうに言った。

「そんなことはありません。もうちょっと自信を持ってください。それにね、右城先生、彼女がどうして破門されたのか、僕もわからないくらいなんですよ。先生だってそう思ったでしょう?」

浩二くんが服部有菜さんを励ますように言った。

「そうですね。確かにそう思いますよ。態度が悪かったために破門されたと聞きますけど、理由がよくわかりませんね。音楽性もしっかりしていて、あとは強弱さえつければ、良いのではないかと思いますけど?」

と、水穂さんも言った。

「一体なぜ、破門なんかされたんでしょうね。態度が悪かった?なにかあの先生の気に入らないことでも言ったんですか?」

浩二くんがそうきくと、

「ええ。コンクールに出させていただくことになって、その時に、どうしてもやりたい曲があったんですけど、その曲の名前を言ったら、それで怒り出したんですよ。それで私は、もう来なくていいと言われてしまいまして。」

「はあ、そのときの曲名は?」

と、浩二くんが言うと、

「はい。牧神の午後への前奏曲です。身の程知らずも程があるって叱られました。」

と、服部さんは答えた。

「そうですか。それは確かに、レベルが高すぎたのかもしれません。でも、もう少し、鍛錬すれば牧神の午後も出来るんじゃないかな。音楽性はありますので、それで出来るんじゃないでしょうか?」

水穂さんがそういった。

「じゃあ、右城先生、彼女に牧神の午後への前奏曲、指導してやってくれませんか。秦野先生とは、全然音楽性も違うでしょ。だから、秦野先生とは違うやり方で、教えてやってくださいよ。先生、ぜひ、お願いします。彼女がもう一回ピアノを楽しめるように、彼女を導いてやってください。」

浩二くんはこれを待っていたようだ。牧神の午後への前奏曲を指導できる人を探していたのだろう。

「いえ、そのようなことは体力的にちょっと。あれは、すごい大曲でもありますし。」

水穂さんがそう言うと、

「そんな事言わないでやってくださいよ。彼女だって、秦野先生の元で、えらく傷ついているんですから、お願いしますよ。先生、今回のことは、正しく残り物には福があるということじゃないですか。先生、お願いしますよ。牧神の午後への前奏曲、教えてあげてください。」

浩二くんがそう懇願した。

「そうですね。じゃあ、ゆっくりやって行きましょうか。まずはじめに、楽譜を買うことから始めないと。ドビュッシーの作品ですから、デュラン社の楽譜が一番いいと言われています。だから、ちょっと手間がかかるけど、それを入手してもらいたいです。まあ、日本に在庫がないということになれば、三週間近くかかってしまいますが、それでも、入手したら、すごいものです。」

水穂さんが言った。

「わかりました。必ずそれを手に入れますから、先生、ご指導をお願いします。どうしても牧神の午後への前奏曲、演奏したいんです。あたしは、これからもがんばりますから、よろしくおねがいします。」

嬉しそうにいう彼女は、手帳を開いて、牧神の午後への前奏曲デュラン社と書いた。

「ありがとうございます。私も楽譜屋さんで買ってきます。」

水穂さんと、浩二くんは、ああ良かったという顔をした。

それから数日後のことである。服部有菜さんは、三島市内の楽器屋さんに行った。ここは静岡でも有名な楽器屋で、何故か、ピアノだけではなく和楽器を扱うコーナーも有り、お琴の楽譜なども売っている。服部有菜さんが、たまたま和楽器のフロアを通りかかると、加藤菜摘さんが、一生懸命楽譜をさがしていた。

「中村双葉、唯是震一、あれれどこにあるのかな、生田流正派の楽譜のところにあるって、花村先生言ってたのに。」

と、加藤菜摘さんは、一つ一つの楽譜を眺めながら、高野喜長の楽譜を探していた。

「何を一生懸命探しているんですか?」

服部有菜さんは、彼女に聞いた。

「ああ、あの、高野喜長さんの花の歌という楽譜を探しているんですけどね。どこを探してもなくて。」

と、加藤菜摘さんが言った。

「あれその楽譜なら、入口近くのセール品コーナーに売っていましたよ。」

服部有菜さんがそう言うと、

「本当ですか?そこにありましたか?」

菜摘さんはそういって、急いで楽器屋の入り口に行った。すると、赤い表紙で「正派公刊箏曲楽譜、高野喜長作曲、花の歌」と書いてある楽譜が見つかった。ああこれだと菜摘さんは、それを手に取った。一緒に追いかけてきた服部有菜さんに、

「ありがとうございました。おかげで助かりましたよ。これで大威張りで、花村先生に楽譜を持っていけます。」

と、加藤菜摘さんはとてもうれしそうに言った。

「花村先生?あ、あの、有名な箏曲家ですね。花村先生、とても素敵な演奏家ですね。私、一度花村先生の演奏を聞いたことあるんですよね。とても素敵でした。あのとき、弾いてくれたのは、高野喜長さんの、華の舞だったかな?」

服部有菜さんは、花村先生のことを聞いて直ぐにいった。

「あら、花村先生のことを知っていらっしゃったんですね。それは奇遇だわ。あなたももしかしたら、お琴を習っているんですか?」

と、加藤菜摘さんがいうと、

「いいえ、お琴ではなくてピアノを習っているんですけどね、今日は楽譜の注文のため、ここにこさせてもらったんです。」

と服部有菜さんは答えた。

「そうなんですね。ピアノ教室は、気楽でいいんだろうな。お琴教室は、先生自身が少ないから、世間が狭すぎて大変なんですよ。もう、ある先生もある先生は知っていると言うことがざらにあるし。その先生のことを全く知らないということは無いんじゃないかな。だけどあたしは、お琴を続けたいですからね。それは、頑張ってやりたいと思いますよ。だからこれからも花村先生のところで勉強するの。」

加藤菜摘さんはちょっと照れくさそうに言った。

「いえ、ピアノ教室も楽じゃありません。あたしは、だって、今までずっと信頼していた秦野先生に、牧神の午後への前奏曲をやりたいと言ったら、それだけで態度が悪いと言われて、もうさようならになっちゃったんですよ。まあ幸い、ピアノ教室は色々あるから、代理で教室は見つかったけど、先生は、くさるほど居るから、きっと捨てても平気なんだろうな。」

と、服部有菜さんが言う。

「まあ、じゃあ私もあなたも、先生に捨てられた過去があるってこと?」

加藤菜摘さんは、びっくりしていった。

「ええ、そういうことになるわねえ。お互い先生に捨てられた、残り物ってことかしら。」

服部有菜さんは苦笑した。

「まあ、いいじゃない。お互い、そういう経験があって、また別の新しい先生に直ぐつくことができたんだからさ。きっとその時点で途絶えることがなかったのは、やっぱり音楽するようにって言われてるからだと思うのよ。これから、新しい先生の世界に入るから何が起こるかわからないけど

あたしたちは、残り物のつもりでやっていきましょうよ。それがきっと、本当に音楽が好きな人なんじゃないかしら。あたしたちは、ホント、先生に捨てられた事がある残り物だけど、残り物には福があるって言葉は名言よ。」

少し考えて、服部有菜さんが明るい顔で言った。加藤菜摘さんも、

「そうね。そう考えれば、あたしたちも、大変なことは無いかもしれないわね。なんか、今日は楽譜探すの手伝ってくれてほんと、嬉しかった。ありがとう。」

と彼女にお礼を言った。

「いいえ、大丈夫よ。あたしたちは、お互い残り物同士、破門された経験のある同士、助け合いましょ。」

服部有菜さんが加藤菜摘さんの前に右手を差し出した。菜摘さんは、ハイと言って、彼女の手を握り返した。

「きっと、残り物には福があるって、お互い知らしめさせて上げましょうね。」

菜摘さんがそう言うと、有菜さんも

「そうそう。そしてそういう女は強いのよ。」

と言って二人はにこやかに笑いあった。

服部有菜さんと加藤菜摘さんが友だちになったのは、そういうわけがあるからなのだ。




  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

残り物には福がある 増田朋美 @masubuchi4996

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る