第16話 羽衣

 その場の空気が変わった。

「飛天女さまだ・・・」の女性の乾いた声がする。

 その場所に伏せていた人々の目を魅了して、風に支えられてゆらりゆらりと揺れている。火災の焔に炙られて、上気したように頬を染めているミカは、艶然えんぜんと微笑を彼らに振り撒いている。

「どう。兵を率いてる気分は?  アンタの妄想とは随分と違うでしょう」

 一斉に振り返る、尖った眼。

 白目が明らかに血走っている。

 その普段着の人々の姿が、じわりと具足を纏った魍魎兵になる。

 訝しむ視線が槍のようにわたしの目に刺さってくる。

 なぜこのお館様は、飛天女を伴っていなかったのか。

 飛天女はお館様の使い魔で、常に侍従しているはず。

 このお館様を、飛天女さまはアンタと呼びよったぞ。

「そうよ。それは唯の鏡。しかもお館さまをかたっているのよ」

 兵たちが一歩を踏み出すよりも早く、先生は動く。白鞘からは決して抜かない。背後を見るまでもなく、大樹の幹のような足が数人を蹴倒している。爆風がその中に生じているように、更なる数人が弾け飛び悶絶している。

「甘利殿!」

「物狂われたか。さもなくば敵の間者であるか」

 彼は答えない。

 拳が応えてる。

 次の瞬間に、彼らの全てが霧が崩れていくように霧散した。あの痘痕を残した肉体片も衣服も全てが霧散して、風に流れていった。

 液体窒素に触れた薔薇が脆くも砕け散るように。

 彼らの叛意を雪女は察したようだ。これで他人の目というかせは無くなったので、建物に向かおうと腰を上げた。

「主さま、こちらにいます。この方面なら逃げれそうよ」とミカの声が降ってくる。少し高度をとったようだ。

 ぐっと苦いものが込み上げてきた。

 そこに紅い革コートの裾を翻して、わたしの本体だという、女鏡鬼が姿を現した。深閑なる森の闇と、業火のような火線が織りなす狭間から、生まれてきた脅威のような姿だと思った。

 彼女には石女尼という、雪女と同格の魍魎が憑依しているというが、自分自身の鏡像としか思えない。

「あら。貴女は先ほどは影のなかに隠れていた娘よね。今度はそんな姿で来てくれるなんて、祝着だわ」

 ほっと素手を呼気で温めて、わたしの眼を覗き込んで、「ふうん」と呟いた。先刻はコレ扱いだったのが、貴女と呼ぶようになったのに違和感がある。

「貴女はただの鏡ではないわね。ちゃんと血肉があるわ」

 遠巻きにして全身を舐め回すように見ている。

「六花・・・雪女が魂をいくつも同期してくれたの。人間に近くしたと彼女は言ったわ」

 その声で沸騰するように哄笑した。

 身体をふたつ折にするほど愉しげに見えた。

「聞いた? こういうのを天然って言うんでしょ。初めて実感したわ」

 男鏡鬼が下卑た笑みを貼り付けたまま、薮を割って出てきた。

「貴女って、おめでたいわね。魍魎の言葉をただ盲目的に信じるとは。その血肉は誰から奪ったものでしょうかね。あの風花めに訊いてみるといいわ。血肉の器とは、明らかに魂の濃さとは別のものよ」

「何ですって・・・」と反射的に口から漏れた。

 この肉体はわたしのものではないとしたら。

 いやそうだ。魂を幾つ合わせても、肉体の重さには程遠いはず。

 わたしの肩に厚い掌が置かれた。温かい掌だ。

 無言で甘利先生が進んできて、ふたりの前に立ちはだかった。

「ほお」と粘い口調で、甲高い声がした。

 男鏡鬼は、わたしの知る伸一とは違う声を使い出した。

 彼の肉体が凝集するように縮み、そこに蓬髪の老齢の域に達した和服の男が立っていた。洞窟のような深い闇の眼をしていた。

 面妖鬼。

 彼もまた魍魎なのか。

 室町期と思われる浅黄色あさぎいろの簡便な小袖に、鶯色うぐいすいろの肩衣を掛けている。腰には一刀しか帯びていない。そしてその袴が長い。それで傾斜を滑るように上がってくる。

 身のこなしが手慣れている。

 彼はすっと左手を伸ばして、頃合いの枝を折取って、それで肩の上を叩いている。道案内でも頼むかのように、含み笑いを絶やさない。

「坊よ。教えを垂れてやろうず」と言い放った。

 いやむしろ。体格差では優位の筈の、先生の背中に硬い緊張が見える。

 じわりと間合いを詰める。

 面妖鬼は動じない。その長い袴に隠されて次の踏み込みが読めない。左手の枝を離さないということは、左利きなのか。

「いいぜ。いつでも抜いて来な。儂はこれでよし」

 鯉口を切る。

 雷が天を割る早さで、白鞘のなかを白刃が疾く滑る。

 先生は風を引いて、懐刀を正中ではなく半身を残して打ち込む。

 その氷のような刃先が伸びる先には、面妖鬼の朧な影がある。掴みようもない影だ。だが先生の剣尖はそこは届かず、空を泳がされた闇がある。

 さらに躱された風もなく、面妖鬼の姿は眼前に迫ってくる。

 既に右腕の上に枝がスッと触れていた。

「これが真剣ならば坊の腕は落ちておる」

 彼は鍛錬は続けているはず。なぜ面妖鬼には通じないのか。

「坊はな、胆力が足らぬ」

 大きな息をつく。

「抜くからには、殺めるまでが帰結よ。その覚悟が足らぬ」

 そう言って枝の先で、馬鹿にするように小さな円を描いている。

「遊びは終わりかえ」と女鏡鬼が言った。

 それもはもう掠れ切った、潤いのない声音で、もちろんわたしのものではない。古風な言い回しで、やはり彼女は石女尼だとその時に思った。

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