第17話 羽衣

 煉獄れんごくの炎に包まれている。

 瑞鳳ホテルの出火地点の窓からは、飛龍の舌のような炎が建物全体を舐め回している。そして人間の暗黒面さえも覆い隠しそうな黒煙が、気流に乗って中天の月を染めている。綺麗なものが汚されていくようだ。

 土埃を立てて、先生は膝を突いた。

 下段から下擦りに跳ね上げた刃もかわされ、その数瞬のうちに面妖鬼の枝で貫かれたらしい。彼の頭頂部もとんと枝で弾かれる。

「坊よ、これで首も落ちておるわ」

 苦渋を噛み締めているはずだ。彼はそれに耐えられるか。彼の膂力りょりょくと体術において、この圧倒的な戦力差は初めての筈だ。

 女は屈辱をも糧にできる。

 男の欲望を受け止め、その暴力をも寛容し、放たれた体液さえ嚥下して、日常の狭間に棄てて昇華できる。

 つまり女は柔らかな鋼でできている。

 わたしは彼の背中を抱きすくめた。

 聖母の想いで抱き締めた。

 そして睨みつけた。

 石女尼を。

 面妖鬼を。

 そしてその視線の先に、雪女の姿を認めた。

 燃え盛る焔の中に、黒々と鋭角に切り取られた屋上のテラスにその人影があった。蒼みを帯びた霧のような、氷柱のような色の薄衣をまとい、その角に屹立していた。

 それは彼女にとっては、ひと睨みに過ぎないだろう。

 炎が瞬時に鎮火して、零下の烈風が吹き寄せてきた。

 背中にそれを受けて、二匹の魍魎は彼女を仰ぎみた。そこに怯懦の色の濃い絶望があった。

 先生を抱き締めたわたしの両肩に、優しく掌が置かれた。

 それは小さく冷たい掌だった。

「お生憎様。わたしはこっちにつくわ。次に使い潰されるのは嫌よ」

「・・下衆げすの分際で」と石女尼が毒づいた瞬間、わたしたちは羽衣の中に包まれていた。

 灰褐色の羽毛が、左右から渦を巻くように視界を奪う。天地も塞ぎ、半球状に閉ざされた内側に皆で体を寄せ合った。

 その羽毛の壁が、暴風下のテントの布地のように暴れている。外界にかかる圧力の凄まじさがその振動に出ている。

 皮膚を削り取られてるような、苦悶の声が聞こえる。

 羽毛の壁がよじれたり、ほつれたりすると、ざっと何処かの羽がその隙間を塞いでくれる。背中にかかる彼女の体重がどんどん消え失せていく。思わず「大丈夫なの」と声を掛けたが、果たして耳に届いていたのか。

 ミカはわたしの中に同期しつつあるようだ。

 未知の記憶が濁流のように流れ込んでいく。

 その爆風が途切れ、視界が一気に開いた。羽毛の壁が細微な結晶となって砕けていた。

 凍てついた大地がそこにあった。

 地面からは凍結した霜柱が、無秩序な筍のように伸びていた。羽衣はその超寒気に耐えきれずに消失したのだろうか。

 わたしは頭痛を堪え、よろめきながら立ち上がり、ホテルの脇を抜けて正面玄関へ向かっていた。その時には甘利先生が先導に入り、その背中だけを見つめて、ただぼんやりと歩を進めていた。

 足を急かさないのは、ブンの最期をもう知っているからだ。


 全裸の人形が四肢を開かされたままで、そこにいた。

 眼を薄く開いて、涙の雫がいっぱいの湖に見えた。

 何度も殴打された自分の顔は酷く歪んでいて、寒気がして近寄りがたい思いと、その哀しみを掬い上げてあげたい想いが交差して、後者が勝った。

 唇が腫れていて、歯にも血が滲んでいた。

 彼女の乳房や太腿にも、幾つも火傷のような傷があって、それが煙草を押し付けられたというのを、同期した記憶で見知っている。

 肋骨のいくつかは輪姦を受けている間に折られていた。

 生かしても殺してもいい玩具の扱いだと言う事も知ってる。

 牡の汚濁した体液が、全身にかけられている。股間は乱暴に扱われて血塗れであり、失禁した跡が黒々と染みになっている。

 ごめんね。

 わたしが甘かった。

 わたしが遅かった。

 その瞳を閉じてあげようと震えた指先で触れると、彼女は崩れ去って塵になった。

 彼女が受けた辱めも、悔恨も、苦痛も、激情も、憎悪も、羞恥も、激痛も、辛酸も、懊悩も、嫌悪も、全てが混沌として流れ込んでくる。

 加えてこの場でただ黙視を強制された、ミカの辛苦も重なってくる。

 最初は黄皓の筈であったが、彼はブンを抱かなかった。

 彼は意外にも慎重な男だった。

 わたしが意識を支配していた時の記憶がブンにはある。いずれ助けが来ることを知っている彼女は、それで取引をしようとした。だが相手は自らの進展のみしか考えない、卑怯な臆病者だった。

 黄皓には雪女の情報も伝わった。

 先生がここに来るという事も知り、魍魎どもにも信を置いてない彼は決断した。この玩具を手下に投げ与え、逃走したのだ。

 その時のブンの絶望は、今やわたしの記憶だ。

 それからつい先刻まで、屍姦までも含む狂瀾の肉の宴を愉しんだ獣どもは、雪女が全てを喰べてしまっていた。 


 そしてあの朝だけが。

 そこだけが唯一の陽だまりのように、輝いている。

 ふたりで抱き合って目覚めた朝。

 交代でシャワーを使い、そしてブラを争ってジャンケンをして、真向かいになってトーストとオムレツを食べた朝。

 彼女の人生でその瞬間だけが温かな時間だった。

 許さない。

 わたしは魍魎の存在を許さない。

 もう八つ裂きにしても構わない。

 柔らかな鋼にはもうひとつ特徴がある。

 決して折れたりはしない。

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