第14話 羽衣

 そう思うのにも逡巡があった。

 あの自分の本体という女が唾棄だきすべき人格になったのも、棄ててきた醜悪な記憶が凝固したからだろうか。

 あの待機場所だったマンションの、クロスの破れた生臭い部屋を思い出す。それから指名を受けて、薄汚れた小型車に揺られ、情欲に閉ざされたドアをノックするまでの断片的な記憶しか、ない。

「答えたくない事情があるなら、いいわ。彼女は貴女を同期して、鏡を得ようとしている。今は貴女が隠し持っているから。手鏡があれば連中は無限に足軽を増やせる」

 そう。あれは今、安全な場所にある。

「・・・足軽が伏せらせていると考えていいわ」と言って六花は、後部座席にあった革のディパックから、ずるりと何か長尺なものを引き出して先生に渡した。

「これは」と信号待ちで停車して、先生が声音を落とした。

 その重さを確認して声音にこわいものが混じっている。

「私のお祓い刀よ・・・だけど本身なの」

 それは使い込まれた小太刀のようだ。刀身は江戸期の脇差とは異なり、三尺に近い。むしろ日本刀に近い刃渡りがありそうだ。

「刃を入れているのか」

「私の娘時代からの小太刀よ。慶長新刀だと思うわ。白鞘の懐刀の拵えにしてあるけど。大丈夫、もう充分にひとの血は吸っているわ。遠慮なく存分にお使いなさい」

「何を殺めさせようというのか、あの不法移民たちか」

「アレは私の食餌よ。この刀は私が数世紀かけて磨いてきたもの、物憑きに成長している。これはね・・・魍魎を斬れる刀なのよ」

「つまりは石女尼が呼び出した、武田の兵か」

「そう。恐らく彼女、歩き巫女の手練手管で女性たちを集めて、遊び女の性行為を利用したの。女体に群がった男たちに痘痕を拡め、武田兵の魍魎を受肉させたということね」

「・・・僕はどこまでを斃せばいい。殺人者にはなりたくないね」

「生かさず殺さずというのは無理ね。証拠は消してあげる。もう助からないのよ。面妖が一度、植え付けられたらね」

「色葉ちゃんは助かった」

「私が彼女と同期できたからよ」

 ならばブンとも同期できるはずだ。わたしが六花さんをブンの側まで連れていくことができるならば、と思った。

「・・・わたしに、策があります」


 車を藪に隠した。

 わたしは先生の後ろで、漆黒の木立を狭間を辿っていた。

 先生の腰には小太刀が斜めに差してあり、手の山刀で薮木を切り拓いていく。ヘッドランプもあるが消してある。先生の目にはこの闇でもうっすらと見えているようだ。

 遠くに切れ切れの灯りが見える。

 そこが瑞鳳ホテルであるのが、わかる。

 そのか細い灯りのもとに囚われのブンがいる。

 ふたりの話を聞いていて、石女尼と面妖鬼は宿敵らしいと分かった。あの廃墟を城と考えれば、足軽がその周辺を警備しているというのは想像に難くない。

 六花さんが強襲するには、警備の足軽の数を減らし、城内の兵とも潰し合いをさせて隙を作るのが上策だろう。

 それにこのふたりの側にいた方が、身の安全にも繋がるだろう。

 森の深淵の中に光がある。

 水面で魚が跳ねて、鱗が光っているように、すぐに白刃の反射が闇に沈む。

「何れの者か」と誰何する声が忍んでくる。

 山刀の手を留め「お館様である」と先生がいう。

 わたしは彼の右手前に立った。鼻を摘まれても判らない濃度の闇に、白目だけが並び、蝶が羽ばたくようにひらひらとうずいている。

「おお」と感嘆の声があがる。

「間違いなし」

「各々がた、苦労である」と労いの言葉をかけた。

「其処もとは何れのお方でありましょうや。さぞや名のある方とお見受けする」

 ふふと、わたしは故意に含み笑いをした。

わらわが先刻、この身に召還せしめた。甘利豊後守である」と心の芯まで震わせる凛とした声音で言い放った。

 甘利備前守虎泰は、甲斐源氏の支流にあたる。本家は猜疑心の深い源頼朝より謀殺されている。甘利虎泰は板垣駿河守信信方と共に武田氏の宿老でもあった。若き信玄を輔弼し、その実父である信虎の追放にも加担した。

 才気走り燗の強い板垣に対し、甘利は信のおける人物と評された。

 この両者の没日は同日だ。

 北信濃の大名の村上義清に、上田原合戦に誘き出された信玄は槍傷を肩に受ける苦戦を舐めた。

 突出した板垣は奮戦したものの敗死し、崩れゆく武田方を甘利備前守は支えた。本人も戦さ場に散ったが、主を討たれても甘利方は崩れずに武田本隊が撤退するまで殿軍しんがりを務めたという。

 例え同じ容貌でも、影であるわたしの言では見破られかねない。そこに末裔である甘利先生がその面影と偉丈夫を見せれば、この足軽達を煙に撒くことができるだろう。

「おお。甘利殿」とかすれた声がする。

「これは祝着」

「なんと甘利虎泰殿で御座るか」

「儂は戦に討たれての、とうとう御目にかかれなんだ。地獄にも仏のあるものよ。これも祝着」

「よいか。お館様はお忍びで館を離れておる。唐土もろこしからの使者が来ておろう。この合議は相成らず。決別に至った」

 寸分の間もおかず、畳み掛けた。

「よいか。唐土の使者は、武田菱に泥を塗った。妾はそれを許せぬ。鎌倉殿より預かりしこの地を統べてきた武田菱をだ。それをどう扱うかは、其方らの心持ちにある」

 カッとくらい地に火龍が駆けたかのようだ。

「火だ」

「火掛けてやろうず」

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