第6話 羽衣

 午前中にも関わらず、小雪が舞い始めた。

 気温は氷点下スレスレの低空飛行中で、わたしの郷里ならばこの冬の最低気温とテレビがいうだろうけれど、信州ではこれは通過点でしかない。

 元彼である伸一の、粉のふいた紺のダッフルコートを追っている。修行先のビストロで、小麦粉を捏ねて打ってピザを作っているので、いつも粉塵が付着して粉っぽくなってた。

 彼は、いつものコンビニでタバコとお茶を買っている。

 その姿を見ながら、レターパックを郵便箱に投函する。カサッという乾いた音を立てて呑み込まれていった。まだ年賀状の時期には早いけれど、郵便物の総量が多そうな音でほっとした。

 それからコンビニを出た後を、視線を気取られないように距離を空けて追っていく。尾行は自分が景色になり切るように、無になるのが大事だ。

 見慣れた背中を見ていると、あの姿に気持ちがほっこりしていた時期を思い出すが、それがどうしてそう思えたのかという疑問と表裏一体なのだ。

「へえ。ストーカーもするんだ」とわたしの声。

 しかも耳元でした。

 そのうえ角度が違う。

 声は僅かに上から降ってきた。

 息を詰まらせながら恐る恐る振り返ると、宙に浮いたわたしの顔が見えた。それも半年前に見ていた顔だ。いや厳密にいうとそうじゃない。自分の顔は鏡面では反対に映る。鏡面で見ている顔は記憶にあるけど、現実に向き合うとそれは、他人のような違和感でしかない。

 それは、薄灰色の両翼を持っていて、そんなにも低空なのにゆったりと翼を動かしている。二階建ての木造家屋が軒を突きあっているような路地を舞いながら、ミカは艶然と微笑してみせた。

 思わず振りほどいて、反射的に触れたのだろうか。

 ちっ、と火花が見えそうなくらいの静電気の痛みが残る。

「いい趣味をしているね」とわたしの顔で友達感覚の口調でいう。

 けれどもブンに感じているような、親愛の情は浮かばない。

「あっ、あんたっ」と声までうわずった。

「まあ他人行儀な。けれど・・・」と更に浮遊感のある飛翔で迫った。それからわたしの左耳を小鳥が啄むように唇を寄せてきた。

「あなたは刈り取ってあげるわね」

 一瞬でその気配が消えると、そこは小屋根が織りなすただの古い路地だった。

 まるで幻のように。


 鍵を開けて潜り込んだ。

 自宅にまで逃げてきた。

 朝食の時にブンと飲んだ珈琲の残り香が、冷えた空気にも残っている。玄関ドアの内側に背を当てて、ずるずるとへたり込んだ。

 ダメだと思った。わたしでは手に追えない。

 あんなのを見てしまって。

 あんなの祓えるとしたら。

 心当たりは、鳴神六花さんしか居ない。

 逡巡があるのは、制止されていたにも関わらず、ブンを呼び出してしまったこととか、これでまた散財して留学が遠のくこととか、だけど。

 とにかく連絡するしかない。

 iPhone を取り出して直接電話をする。彼女はアナログ電話しか持ってないと聞いていた。

 すみません、助けてくださいと電話口でまず叫んでしまい、宥められた。

「そうなの。そんな時期だとは思っていたわ」

「その分身は鬼から、魍魎になりつつあるわね。そんなに敵意を持ってくるなんて」

「刈り取るってどういうことでしょうか」

「貴方に成り代わりたいのよ。今の分身は、そうね。意識のある静電気みたいなもので。肉体という容器が欲しいのよ」

「それで・・・どうして彼女は、あの、その。彼と付き合えるのですか」

「肉体関係のこと?」

「・・・・はい」と恥ずかしくて消え入りそうだ。

「それはね。そうね。彼氏も肉体という容器に霊体が乗っているの。その意識は、つまり神経って電位の流れで感覚を知覚しているのね。肉体関係も直接の皮膚が触れなくてもお互いの霊体だけでの擬似感覚を、つまり皮膚の感じる快感を相手に与えることもできるの」

 鳴神さんは車を持っていないので、タクシーを使って欲しいとお願いした。長電話を切ると、iMessage が届いているのに気がついた。開くとそれはブンの送ったものだ。

『どうして途中で尾行止めちゃったの?大丈夫、わたしがback upしているから』

 そう。秋口のときも分身たちはそれぞれ、鍵もスマホも持っていた。

 わたしが実家の神奈川にいたのに、信州でもわたしのインスタは更新され続けていたし。アパートに入ると手にあったはずの鍵はすうっと消えてしまい、室内のテーブルの上には同じ鍵が置いてあった。

 わたしと別行動したブンの鞄に、恐らく何の前触れもなくスマホが出現したのだと思う。

 ロック解除は本人だし、別アドを作ればiMessage を送るのもできる。そして伸一の日課も熟知してるし、尾行するわたしを更に追い尾行する。そこで陣を2段に構築する、我ながら考えそうなことだ。

『現在地を教えて。その場所に行く。だけどなぜそんな無茶な事したの?』

 ブンの目には、空間を泳ぎわたるミカの姿は見えなかったようだ。

『だってあの手鏡が部屋から無くなっているんだよ』と返答がすぐに届いた。

 急がないといけない。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る