第3話 羽衣
学食の中に、その背中を見つけた。
先日と同じ紺色のダウンを着て、けっして
わたしたちはランチを乗せたトレイを持って、先生の正面に回って会釈をした。彼は怪訝そうな顔をしていたが、目線が胸に下りてはっと気がついたらしい。いつものことだな、と思った。
「先日はありがとうございました。タクシー代まで頂いて」
「・・・ああ、あのときのお二人さんだね。危なかったね。本当に僕がいてよかった。ああ、タクシー代は気にしなくていいよ。連中の飲み代のお釣りだから」
「・・・お釣り?」
「君たちがお店を出たあとに連中が急いで会計するもんだから、女将さんが気遣ってね。会計をわざと遅らせていたらばっと何万円分かの札か放って、釣りは要らないと。それで怪しいと思って、僕に見てくるように言ったんだよ。後で女将さんにお礼しておいてね」
なるほど女将さんが鋭い方でよかった。あのまま車に乗せられていたら、もっと酷い目にあったことだろうと身震いした。
甘利先生は日替わりランチだけでは足りずに、カツ皿まで並べて食べている。
「もう12月なんで、申し訳ないですけど」とわたしは切り出した。
「来年1月から先生のゼミに来ていいですか?」
「君は何年生?」
「2年です」と小さく答えた。掲示板には3年生からとある。しかし教授の采配次第で参加もできるという話もある。
「まあ、いいよ。今年は単位は上げられないけど、来年からは正式に来てくれると嬉しい」
「先生は古武道をやってらしゃるんですね。富田勢源の中条流でしょうか」
その声に彼の太い唇がぽかんと空いた。
「詳しいねえ。もしかして歴女?」
「はい。実はそうなんです。あの脇構えを見て、そう思いました。あの時・・・何を構えていたんですか?」
彼は腰回りから金属棒を取り出した。
「これは自撮り棒なんですか?」と多英が割り込んできた。
「いや。カーボンケブラー材の一脚だよ。伸縮式でね。狭い場所で記録写真を撮るためのものだ。ちょっと鉄芯を入れて重量を持たしているけど」
なるほど甘利先生が
「あの、私も参加させていただいて、よろしいでしょうか?」と多英も口を揃えた。この先生に興味本位なくせに、と苛立たしくなった。
わたしの骨董趣味も、歴史に対する興味も、なるだけ胸にしまってきた。
われながら度が過ぎてると実感しているから。
乙女心は上の空、と思っている。
わたしの趣味は子供時代から変わっていた。
そのきっかけは小学5年の冬に、祖父が逝去したことから始まる。
祖父の
その部屋に入れるようになったのは、四十九日もとうに過ぎて、梅が花を綻ばせている初春であったろう。
祖父の愛用していた将棋盤の前に正座して、不意に駒を並べてみた。
生前の祖父と時々は差していたが、祖父の駒数を減らしてもらい、それでも手加減をしてくれていたのだと、後々になって思い出すようになった。
ひとりっ娘だったので、しばらくはひとり将棋を指していた。ある時、友人宅にお泊まり会で人生ゲームに興じた翌日から、その将棋は様相が変わってきた。
将棋盤に紙で作った、等高線のある山を置く。河川を作り置く。人生ゲームの山地や高架道路をみて思いついた遊びだった。
その地形のある盤面に駒を置いていく。
反対側に座り、また陣を張ってゆく。
その遊びを始めて、気がついたことがある。
まず王将の本陣は山地に置く。地形が入ると、金と銀は意外と強力な駒ではない。本陣の両翼を固める部隊長として、または撤退戦の時に、とりわけ銀駒は
しかしそう見せかけて、王将を左陣に隠してみたり、陣を前後の2段に組んでみたり、布陣を考えるだけで、数日は愉しめる趣味となっていた。
この遊びで、最も有効な駒は香車となる。これはわたしのルール細則では、長弓兵か弩兵のような扱いになり、局においては射程や斉射頻度を設定する。
飛車と角は騎兵の扱いとして、長駆して敵陣に切り込む駒にした。その護衛には特殊な動きをする桂馬をつける。また一手の移動距離にも設定を加えてみたし、敵陣の援兵への牽制であったり、横槍を突かせないように盾にも使う。
敵陣を制圧する歩は、工兵隊や斥候などの役割をも持たせていて、川に接近すると、と金となって活動の自由度を上げてその価値を持たせるようにした。
こうして歴史の授業が始まると、その布陣を盤面に再現して妄想に耽るようになった。
同窓の女子たちが恋愛の妄想にのみ身を焦がしている最中、わたしは時には心に戦場の棋譜をいくつも並べ、その布陣に耽溺していた。
とても言い出せない乙女の秘密だ。
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