第2話 羽衣

 後ろから胸をつかまれた。

 乱暴な指は痛みしかない。

 特に胸の回されたその手を逸らそうと、腕を前に折りたたんで身を固くすると、そのまま後ろから抱き竦められ、耳元を荒くて臭う呼吸が覆ってくる。

 何かを言っているが日本語ではない。

 耳に触れる頭皮は剃り上げた毛根の根が出ていて、がさがさと不愉快だった。

 多英の悲鳴もする。状況は大して変わりはない。わたしは前に逃れようと、背後の男の靴を目がけて、右足の踵で踏みつけた。

 くぐもった声がして腕が緩んだので、その腕を引き剥がして、前方に逃れた。出口にも影の男がいたので壁を背にして、両者が見える場所に立った。

 多英も背後から年嵩としかさの暴漢に絡みつかれ、首元から手が入り懐を探っているようだ。動転の余り声がうわずって、悲鳴をあげられないのも同じだ。もうひとり、結局は女に触れなかった若手の暴漢がわたしの胸を睨んでいる。

 そこに。

 塊肉を、肉叩きで打ったような音がした。

 出口が一瞬明るくなった。この通りを塞いでいた影は向こう側の歩道に放り出されていた。そこにもっと厚みのある肉体が、もっとくらい影を引いて現れた。

「すまないね。そこまでにしてくれないか」

 低い声だけど、丁寧な口調で、さらに凄みがある。

 身長は高くない。けれど上半身の肉の厚みが凄い。ダウンを着ているが、それで大柄に見えているのではない。うねる様な腰の動きは猛獣のそれだ。

 その男が割り込んできて、路地の空気すら薄くなったような圧迫感で息苦しい。わたしの前を通過するとき、その横顔が逆光に切り取られて見えた。

「ウチの学生さんらしいのでね」

 飄々ひょうひょうと接近する男に、鋭い叫びとともに、若手の暴漢の右掌底が疾走る。

 しかし男はそれにも頓着せずに進む。が、その掌底しょうていとともに砲弾のような勢いで右膝が飛んでくる。最初の掌底は身を仰け反らせるためで、その膝で股間を狙っている。

 だが男は微塵も歩みを止めない。

 急所狙いの膝は、男の左掌に包まれていた。いやその太い指でわし掴みに捕獲されていた。そこに万力で締め上げるような握力がかかっている。

「筋がいいね。梓川の富田道場を知っているか。そこで3年頑張れば、僕とスパーをして5分は立っていられる」

 男は左掌をぐいと捻り上げる。

 角度がつき、相手は悲鳴を上げた。男の左掌に必死で手刀を打ち込むが、体重の乗っていないそれに、いかほどの打撃力があるのか。彼には羽虫が集っているほどにも感じてはいないだろう。

「10年も頑張れば、試合で会うこともあるだろう」

 ぐいと左肘が上がる。

 のけぞった相手の声は、猛禽の断末魔のようだ。しかし男の声は至って、講義でもしているような平静な声音だった。

「20年も頑張れば、試合で5回のうち1回は取れるだろう」

 そしてまるで紐で絡みあげた西瓜でも持ち上げるように、ひょいと水平に、いやもっと上に持ち上げた。

 なんという、なんという膂力りょりょくなの。

 相手の上半身は向こう側に折れて、宙を掻いて暴れ続ける。その左足は体重を支えるどころか、持ち上げられて地面を擦過しているのにすぎない。骨がひしゃげる嫌な音がして、奇妙な踊りが不意に途切れてぐったりとした。

「30年も粘られたら、そのときには。もう僕の腰は立たないだろうな」

 捲舌音の強い声で、剃髪した男が叱咤した。

 それから、それぞれが懐からナイフを出した。

 ぎらりとした硬質な光が泳いでいる、が手出しを迷っている。

「へえ」とうそぶいて、興味を失った粗暴な幼児のように、無造作にその肉体を投げつけた。それは壊れたマリオネットのように宙を飛んだ。

 暴漢たちは仲間を避けて、いや武器を取り落とすのを避けて下がった。下りぎわに慌てて多英を手放している。

 男は多英を受け止めて、振り返りもせずにわたしに渡した。

 その瞬間にも男は腰を落とし、金属質の棒を取り出して構えている。

 手首のスナッチで金属音が2回する。それでその棒は全長が伸びた気配がある。

 脇構え。

 古武道のひとつで、現在の剣道ではほぼ使わない型だ。

 半身を斜めに引いて、右肩を晒して下段に、刀身は脇から隠すように後ろに構える。それは相手には不気味に映る。剣の切っ先が全く見えずに、間合いが測れないのだ。下段の構えは怖い。下方からの鋭い剣線は見えにくいし、古武道ではまず敵の膝を砕きにいく。

 そしてこの路地では長尺の武器は使い難い。

 富田道場といったわね。というと開祖は富田勢源。

 戦国時代の剣豪だ。

 彼は小太刀を使う。

「善戰者、先為不可勝、以待敵之可勝」と男が北京語を使い、諭す様に言った。

 剃髪の中国人が、思わず頭の文面に指をやった。

「曹操が知ったら、悔やむだろうよ。無駄だったってね」

 遠くからサイレンの響きが伝わって、表通りから駆けてくる足音がする。剃髪の中国人は唾を吐き、年嵩が失神した若手を担ぎ上げ、蜘蛛の子を散らすように姿を消した。

 大学構内で、ゼミ生を募集している掲示板をわたしは思い出した。

「あの・・・甘利先生ですよね」と震える声で尋ねた。

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