第17話

 ココンもヤエンも、野菜の一欠片も残すことなく料理を完食した。すっかりお腹が満足すると、今度は眠気が襲ってきた。さすがのヤエンも、少し目がうつろになっている。

「そういえば、なんで僕と組んだの?」

 純粋な疑問が湧いて、ココンは尋ねた。ヤエンからしたらあまり好ましくない質問だったろうが、彼は彼で眠気を覚ましたかったのだろう。

「赤髪はあの通りだし、緑髪は単体で行動させた方が効果的だ」

「マーレは?買い物は普通にできてたでしょ」

 ヤエンは頭を振った。何か思い出したくないものを消し去ろうとするような動きだった。

「あいつ、ちょっと目を離すとすぐに勝手にどこか行くんだ」

 そういえば、とココンは思い出した。マーレは確か、方向音痴だったはず。

「ずっとうるせぇし。お前らの中じゃ一番まともだと思ったらこれだよ、最悪」

「なるほど、それで消去法で僕、と」

 ヤエンは黙ったままだった。変なところで会話が途切れてしまったので、ココンはなんとなく気まずくなってしまった。

「にゃーおにゃーおにょんにゃらにゃ」

「なんだその歌」

 ヤエンは虫でも見るかのような目をココンに向けたが、突然バッと頭を上げた。ものすごい形相で詰め寄ってくるので、ココンはとっさに脇に避けた。しかしヤエンはココンには目もくれず、木にピッタリと張り付いた。

「どしたの?ヤエン」

「静かにしろっ」

 ヤエンがささやいたのを聞いて、ココンもやっと気づいた。通りの向こうに、白い影が現れたのだ。ぼんやりとしていたココンの頭がしゃっきりと覚醒した。

 一気に緊張が押し寄せ、網を握る手に汗が滲んでくる。とんがった大きな耳、綺麗な青い瞳。ブロンちゃんだ。とうとう、現れた。

「本当に来たよ、ヤエン!」

「当然だろ。それより喋るな、気づかれる」

 ヤエンは鋭く叱責したが、彼の目も興奮でらんらんと輝いていた。

 ブロンちゃんはジャスミンの花を品定めするようにとことこと歩いていたが、やがてその中心に置かれた皿に気づいた。足を止めて、警戒するように料理を見つめている。

 ココンは網を一層強く握った。一度逃せばもうチャンスは来ない。作戦の直前にヤエンが言った言葉が蘇る。

『ジャスミンは、猫を誘き寄せるのに加えて、慣れた香りで猫の警戒心を緩めるために使う。一度でも捕獲に失敗すれば、ジャスミンの香りは逆に、あの猫にとっての危険のサインになる。そうすれば、いくらジャスミンの香りを撒き散らしたって、猫は二度と近づいてこないだろう。いいか、絶対にしくじるなよ』

 せっかくヤエンが考えてくれた作戦を、台無しにするわけにはいかない。ココンは固唾を飲み、ブロンちゃんの行動を見守った。

 ブロンちゃんはうさんくさそうに皿を見つめていたが、食欲には抗えなかったらしい。慎重に近寄り、匂いを嗅いだ。ブロンちゃんが冷静だったのは、そこまでだった。マタタビの香りに気付いたのだろう。ブロンちゃんはたがが外れたように料理を食べ始めた。

 よほど美味しいのか、お皿に顔を埋めて夢中で食べ続けている。

「さっきも言った通り、食べ終わるまで待つぞ」

 食事をするブロンちゃんは簡単に捕まえられそうに見えたが、ココンはヤエンの指示通りじっと待った。食べ終わったあとの眠気は、ココン自身もつい数秒前に体験している。お腹が膨れた直後は頭も上手く回らないし、満腹ならば動きも遅くなる。そこを狙うのだ。

「ちゃんと完食してほしいしね」

 ご主人様とはぐれてしまい、寂しい思いをしたブロンちゃんのためにも。そして、丹精込めて料理を作ってくれたラージャオのためにも。

「それはどうでもいい」

 ヤエンは言ったが、なんだか本心ではないような気がした。

 ヤエンはどうにも、ココンたちを遠ざけようとしているように思える。わざわざ相手を傷つけるような物言いをして、必要以上に仲良くなることを避けているのだ。もっとも、なぜそんなことをしなければならないのかは全く分からなかった。ヤエンにはヤエンの、考えがあるのだろうが。

 ヤエンが不意に頭上を見上げ、片手を振った。見ると、テァランギが顔を出し、こちらにサインを送っていた。テァランギの仕事が終わったらしい。

「テァラが、ここらへんの道を全部塞いでくれたんだよね?」

「あぁ、ターゲットがエサを食い始めた時点で、人間の道も猫の道も全て封鎖済みだ」

 こうして逃げ道を無くし、捕獲をより確実なものにするのだ。作戦はどんどん、成功へと近づいている。しかし。

「おい、見ろ」

 ヤエンの声に、ココンはハッと気付いた。ブロンちゃんの様子がおかしい。まだ食事中だというのに頭を上げ、首を回して周囲の様子をうかがっている。

 ココンたちは慌てて木陰に身を潜めたが、どうやらブロンちゃんはこちらに気付いたわけではないらしい。

「何やってるんだろ」

 あたりは静けさに包まれている。ブロンちゃんは耳をぴくぴくと動かしながら、皿に片足を乗せたままの姿勢で固まっていた。

 やがてココンの耳が、ある音を捉える。ブロンちゃんが何に反応していたか、やっと分かった。

「嘘だろ」

 ヤエンも気づいたらしい。遠くから聞こえるのは、人の声だった。数人の大人たちが、会話をしながらこちらへ近づいてくる。会話の内容が、うっすらとココンの耳にも入ってきた。

「ブロンちゃんを探してる人たちだ」

 ココンのささやきに、ヤエンは若干の焦りを見せた。せっかくブロンちゃんを誘き出すことができたのに。もし大勢がここに来てしまえば、ココンたちの手でブロンちゃんを捕まえられる確率がうんと下がってしまう。

 もしかすると、他の人たちがテァランギの作った障害物をどけてしまい、そこからブロンちゃんが脱出してしまうかもしれない。そんなことになれば、ヤエンが言った通り、二度と同じ方法では捕まえられなくなってしまう。

「一か八か飛びかかってみる?」

 ヤエンは答えなかった。額に汗を浮かべながら、ただブロンちゃんを睨みつけている。きっと彼の紫色の頭は、ものすごい速さで回転しているのだろう。

 しかし、捜索隊の人たちは待ってくれない。ブロンちゃんがすぐそばにいるとは予想もせず、近づいてくる。

 その時ココンは、向かいの建物から何か影がのぞいているのに気づいた。ヤエンにそれを教えながら、ココンはじっと目を凝らす。それは子供の手だった。手首に巻いた布から、それがラージャオの手だと分かる。ラージャオは拳を握りしめて、上に向かって親指を立てていた。ヤエンがいぶかしげにつぶやく。

「なんだあれ。上ってことか?」

「大丈夫、って意味かも」

「何にも大丈夫じゃねぇけどな」

 もしかすると、ラージャオたちの方に何か策があるのかもしれない。確証はなかったが、そう願わずにはいられなかった。

 もうすぐそばまで足音が迫ってきた。ココンは思わず目をつぶる。大人たちが角から現れ、ブロンちゃんの姿を見つけて大声をあげる。そんな未来が脳裏をよぎった、その時だった。

 どこか遠くで、猫の鳴き声がした。ちょうどココンたちがいる場所とは真逆の方向である。捜索隊の人たちもそれを聞きつけたようで、口々に叫び、そちらへ向かって行った。

 ブロンちゃんはしばらくそのままの体勢だったが、またのんびりと皿に顔を埋めた。どうやら危機は、過ぎ去ったようである。

 ヤエンがほっと息を吐き出す。

「運が良かった」

 ヤエンは汗を拭いながら澄ました様子で言ったが、ココンは気づいていた。

「あれは多分、マーレだ。向こうで鳴き真似をして、大人たちを誘導してくれたんだよ」

 ヤエンは驚いたように目を見開いたが、すぐに不満そうに肩をすくめた。

「勝手に持ち場から離れたな。ったく、どいつもこいつも」

「素直じゃないね」

 これでしばらく時間は稼げるだろう。彼らが戻ってくるまでに、ココンたちの手でブロンちゃんを捕まえるのだ。

 やがて皿の中の料理は、綺麗さっぱり無くなった。見事、完食である。

「そろそろだ。準備いいか」

 ココンは頷いた。とうとうこの時がやってきた。心臓がドクンドクンと高鳴る。ヤエンに今度は、「心臓がうるさい」と叱られやしないか心配してしまうくらいに。

「逃げ道は塞いだが、油断するな。少しでも傷つけたら報酬は出ないと思え」

「報酬なんて関係なく、絶対に怪我なんかさせないつもりだから」

 ヤエンは頷いて、片腕を木の陰から突き出した。そのまま腕を振り上げ、勢いよくおろす。それが突撃の合図だった。ココンは迷わず飛び出した。

 同時に通りの向こうからも、網を持ったラージャオが姿を表す。どうやらマーレは、戻ってくるのに間に合わなかったらしい。だがもちろん、ここで作戦を終わらせるわけにはいかない。

 ココンはブロンちゃんめがけて突進した。ブロンちゃんは突然響いた足音に飛び上がり、すぐに来た道から逃げ出そうとした。しかしそこは、既にテァランギによって分厚い垂れ幕で塞がれている。

 動揺するブロンちゃんに、まずラージャオが飛びかかった。網を振るが、ブロンちゃんはさっと飛んで網を避け、ラージャオの腕を駆け上がるようにしてその背後に逃げた。

「速っ!」

 ヤエンがマントを振るうが、それも軽々と避けられてしまう。ご飯を食べたばかりだというのに、ブロンちゃんの動きは思いの外俊敏だった。むしろ、同じく満腹状態のココンたちのほうが動きが鈍い。空腹状態での追いかけっこも辛いだろうが、満腹状態ではさすがに素早く動けない。ブロンちゃんが現れるタイミングの悪さに、ココンは思わずぐっと歯を食いしばった。

 白い体が地面をするすると走り回り、ココンは目を回しそうになる。

「全員で囲め、少しずつ追い詰めるぞ」

 ヤエンが冷静に言った。ココンたちは扇型を作るように並び、ブロンちゃんを建物の壁に追い込んでいった。

「ほら、おいでブロンちゃん、ブロンちゃーん」

 ラージャオがジリジリと距離を詰めていく。

「にゃあ、にゃあ」

 下手くそな鳴き真似に、ブロンちゃんは少しも警戒をとかない。ココンもマーレの鳴き真似を思い出して、必死で猫の真似をした。

「にゃー、にゃー」

「オマエらどけ、オレがやる。にゃー、にゃー」

「ヤエンの鳴き真似、下手すぎるよ。僕に任せて」

「いやオレが」

「僕が」

 押し合いへし合いするココン達を、ラージャオが冷めた目で眺めている。

「どっちも下手ですって」

 変な声を上げながら近づいてくる人間達が怖かったのか、ブロンちゃんは建物の壁にくっついて動かない。いける。ココンの口角が、無意識のうちに吊りあがる。しかし、そううまくはいかなかった。

「ちょっと待ってください、ヤエンさん」

 ラージャオが何かに気づいた。

「あそこの板、ちょっとおかしくないですか?」

 壁に立てかけられるようにして置かれた板が一枚、ブロンちゃんの目の前にあった。一見なんの変哲もないゴミのように見えたが、ブロンちゃんがその板を蹴り飛ばした瞬間、ココンの背筋に冷たいものが走った。

 板で隠れていた壁には、ぽっかりと穴が空いていたのだ。

 咄嗟にヤエンの方を見ると、彼は顔を真っ青にして固まっていた。その表情を見てココンは確信した。板をどけたところに現れた通り道。これは、地図には記されていない、秘密の抜け穴だ。ヤエンはこの穴の存在を、知らなかったのである。

 そして当然、テァランギもここを塞いではいない。

「ブロンちゃん!」

 ココンの叫びも虚しく、ブロンちゃんはするりと穴に飛び込んだ。艶やかな尻尾を追ってココンは這いつくばったが、穴の向こうは真っ暗で何も見えない。

「どうするんですか、逃げちゃいましたよ⁈」

 ラージャオの焦った声が聞こえるが、それに対する答えは無かった。ココンは跪いたまま振り返り、ヤエンを見る。

 ヤエンは呆然として、ただ立ち尽くしていた。作戦が失敗したショックと、予想外の出来事に対する混乱とで、頭がいっぱいになっているように見えた。

 ココンは立ち上がり、ヤエンに詰め寄る。肩を掴んで揺さぶっても、ヤエンはぼうっとした瞳で虚空を見つめていた。

「しっかりしろ、作戦隊長!」

 ココンの叫び声で、やっとヤエンの目に意識が戻る。

「ヤエン、ショック受けてる場合じゃないでしょ。追わなきゃ、早く!」

「…分かってるよ」

 ヤエンはココンの手を振り払い、走り出した。どうやら通常運転に戻ったようである。ココンはほっと息を吐いた。慣れない行動だったが、うまくいってよかった。ラージャオが、ココンのナイスプレイを讃えるように笑顔を浮かべた。

「穴が空いていた建物は向こう側の通りに面した空き家だ。とりあえずあっちにまわるぞ」

 ヤエンを先頭にして、ココンたちはブロンちゃんが逃げた方向に伸びる路地に入った。しばらく行くと、道を阻むように分厚い布がかけられていた。テァランギが設置した簡易バリゲードである。それを乱暴に引き剥がし、ヤエンは通りを抜けた。

「やっぱりだ。あいつ、ここから逃げたぞ」

 ヤエンに言われてみると、ブロンちゃんが逃げ込んだ建物の表口は、半開きの状態になっていた。自分でドアノブを開けて逃げ出したのだとすれば、とても器用な猫だ。

「でも、どこにも見当たりませんよ?」

 数匹の猫の姿はあったが、どれも白猫ではない。輝くような純白の毛並みは、どこにもいない。完全に見失ってしまったのかと絶望しかけた時、建物の上からテァランギが叫んだ。

「向こうに逃げた。東の方角だ!」

 足の速いテァランギをわざわざ建物の上に配置させたのは、ヤエンの考えによるものだった。見通しの悪い路地でチームプレイをするには、全体を俯瞰する存在が必要だったのである。テァランギは、ヤエンの指示を逐一マーレたちのチームに伝える役割も担っていた。

 だが、このような異常事態が起こった今、テァランギを建物の上に置いたことは想像以上の効果を発揮していた。建物の上を自在に飛び回るテァランギは、地面を走って追いかけるよりも確実にブロンちゃんの後を追跡できる。彼の指示に従って動けば、たとえブロンちゃんに撒かれてしまっても、またすぐに追いつくことができるだろう。

 ヤエンがそこまで考えていたから分からない。だがとりあえず今は、希望が見えてきたことを喜ぼう。

「南に方向転換した!次の角を10時の方向へ曲がれ!」

「南とかジューシーとか言われても分かんないですよ!右か左かで言ってくださいって!」

 ラージャオは悲鳴を上げたが、ヤエンは指示に混乱することなく複雑な路地を駆け抜ける。だがしばらく走っていると、ヤエンに変化が現れた。

「ヤエン、大丈夫?苦しそうだけど」

 ヤエンは顔を真っ赤にし、息を荒くしていた。か細い声が返ってくる。

「オマエら、先に行け…」

「え、なんでですか⁈」

「いいから、早く…」

 ヤエンの走る速度が突然遅くなった。どこか怪我でもしてしまったのかとも思ったが、そういった様子は見られない。

 ラージャオとココンは視線を交わした。テァランギが上から追ってくれているとはいえ、最終的には地上にいるココンとラージャオが捕まえなければならない。ここで止まってはいけないのだ。

「分かった。あとは僕らに任せて」

「迷子にならないでくださいね!」

 ヤエンは答えず、手をしっしと振った。ヤエンが道の真ん中にへたり込んだ時、すでにココンとラージャオは前を向いて走っていた。

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