第16話
猫の町のど真ん中を貫く大通り。そこからずっと離れた、静かで素朴な細い路地に、小さなお皿がぽつんと置かれていた。
お皿の周りには、白い花が何本も並べられている。何かの儀式のようにも見えたし、実際これは、町中の人たちが探し求めている白猫を呼び出すための儀式のようなものだった。
遠く離れているここからも、ジャスミンの強い香りが届いてくる。これならきっと、ブロンちゃんも気づいてくれるだろう。
ココンは木の影から顔を出し、お皿の様子をうかがった。猫の気配も人の気配も、全くない。
「にしても、こんなに匂いがして、近所の人は迷惑じゃないかな?」
ココンの疑問に、同じ木の裏に隠れていたヤエンが答える。
「この辺りは空き家が多いし、人が住んでる家にはちゃんと事情を話してある」
「さすが」
ココンは網をぎゅっと握り直した。網を持ったココンと、手ぶらのヤエンのペアはこうして木の影に隠れている。そして、エサの入った皿を挟んだ向こう側には、同じく網を持ったラージャオと手ぶらのマーレのペアが潜んでいるはずだった。そして建物の上からは、テァランギが用心深く全体の様子を見張っている。
この通りには沢山の脇道があった。そのどれかからブロンちゃんが現れるはず、というのがヤエンの考えだった。
「今日中に引っかかるとは限らない。辛抱強く待つぞ」
作戦が始まる直前にヤエンが言った言葉に、みんなは真剣な顔で頷いた。しかし、ずっとこうして座っていると、さすがに少しは飽きてくる。ブロンちゃんを捕まえたい気持ちはもちろん強かったが、ココンは自分の集中力がだんだんと落ちてくるのを感じていた。これではいけない。
「ねぇヤエン」
ココンは仕方なく、ヤエンに話しかけた。ラージャオやマーレとペアだったのならこの時間も楽しく過ごせただろうが、ヤエンと話が膨らむ気は全くしない。
しかしヤエンは、そっけなくはあったが「なんだ」と答えてくれた。ヤエンも少し、暇だったのかもしれない。
「ヤエンはなんで、僕らに協力しようと思ってくれたの?」
これは今朝からずっと不思議に思っていたことだった。ヤエンは答えづらそうにしている。
「どうでもいいだろ。むしろオマエの方こそ、なんでオレを取り込もうと思ったんだ」
戸惑うココンを、ヤエンはマントの影から睨みつけた。
「昨日、オレはオマエのせいで猫を逃したけど、オマエだって惜しかっただろ」
ヤエンの眼光の圧が、少し弱いことにココンは気づく。考えもしなかったが、ヤエンも実は、昨日のことを申し訳なく思っているのかもしれない。
「オレを仲間に入れても空気が悪くなるだけだ。オレはこういう人間なんだから」
ココンは少しずつ、ヤエンを見る目が変わっていくのを感じた。あんなに口が悪く、性格も悪いやつなのに、今はなんとも、弱気である。
「報酬の取り分は減るし、良いこと無しだろ」
「報酬にはそこまで興味ないから」
ラージャオが聞いたら倒れてしまいそうな発言だったが、本当のことだった。ココンがブロンちゃんを探しているのは、賞金目当てというわけではないのだ。たしかに、旅費が増えたら行き先の幅がずっと広くなるけれど、ココンはただ、お嬢様の助けになりたいと思っただけなのだ。
それにもう一つ。
「僕きっと、もうちょっと長く皆といられる口実が欲しかったんだな」
お嬢様にブロンちゃんの捜索を申し出たあの瞬間は、ココンの中にあったのは純粋な親切心だった。だが、皆とブロンちゃんを探しているうちに、このままブロンちゃんが見つからなければいいのに、と酷いことまで考えてしまっていた。
「嫌なやつだなぁ、僕」
俯くココンに、ヤエンは慰めるでもなく、ただ意外そうに言った。
「オマエら、一緒に旅してるんじゃねぇのか?」
「違うよ、みんな昨日会ったばかりの子。きっとこの町を出たら、離れ離れだ」
胸がずきりと痛み、ココンは黙り込んだ。突然元気を無くしてしまったココンに、ヤエンは珍しく焦ってしまったらしい。お得意の毒舌は仕舞い込んで、困ったように声をかける。
「じゃあ、普通に誘えば良いじゃねぇか。一緒に行こうって」
それができたら苦労しない。みんなそれぞれ夢があるのだ。それを邪魔するわけにいかない。それに、もし断られたとしたら、ココンはショックのあまり寝込んでしまうだろう。せっかくできた友達に拒否されるのは、恐ろしいことだった。
「分かってないなぁ、ヤエンは」
大きくため息をつくココンに、ヤエンは肩をいからせた。
「なんなんだよ、意味分かんねぇ」
ヤエンはしばらく鼻息を荒くしていたが、突如何かに気づいたように声を上げた。
「もしかしてお前、本当はまだ俺と仲良くなりたいとか思ってねぇか?」
図星だった。作戦係としてヤエンを招いた、というのはただの建前である。本当はもちろん、ヤエンと仲良くなりたかった。めちゃくちゃ仲良くなりたかった。
「そんなことないよ」
ココンはどこか遠いところを見つめながら答える。
「嘘つけ。『仲良くなりたくない』とか口だけだろ。この口だけ野郎!」
「あまり悪口を言われている感じがしない」
ヤエンはぷいとそっぽを向いた。マントはこういう時に便利なようだ。少し顔を回しただけで、表情が完全に隠れてしまう。
「この町に住む猫と人間の関係と一緒だ。オレたちは、利害関係だぞ」
広場でガートから聞いた話を思い出す。この町の人々は、ネズミの被害を無くすために、猫の助けを借りた。最初の最初は、人間と猫の間には特別な絆も愛情もなかった。
猫はエサの確保と安全のために、人間は自分達の生活を守るために、互いが必要だったというだけ。それが、この町が猫で溢れるようになった理由。この町が「猫の町」と呼ばれるようになった理由。
しかしそれは、大昔の話であって。
「でも今では、この町の猫は町の人たちに愛されてるみたいだよね」
猫を愛おしそうに撫でる子供たち。猫のために沢山のおもちゃを作っているお店のおじさん。ブロンちゃんを探して町じゅうを巡りながら、そういった光景をココンはたくさん目にした。
ヤエンはしばらく何も答えなかった。
「リガイカンケイってなんですか?」
突如背後から声がして、ココンとヤエンは揃って飛び上がった。ばっと振り返ると、ラージャオが立っていた。両手に小さな包みを一つずつ抱えている。高鳴る心臓を抑えながら、ココンは言った。
「どうしたの、ラージャオ?」
驚かすつもりは全くなかったのか、ラージャオは朗らかに言う。
「お昼ご飯まだだなって思って!宿に戻って、準備してきました!」
また勝手に行動を、とヤエンが詰め寄ろうとするが、ココンはそれを押しのけて差し出された包みを受け取った。ふんわりと食欲をそそる香りが広がる。ヤエンは少し気が進まないようだったが、食欲には抗えなかったらしく、嫌々包みを受け取った。
ラージャオは「テァさんにも渡さなきゃなので」とすぐに立ち去った。ヤエンに説教を受けるのが嫌だったのだろう。
「アイツ、オレに喧嘩売ってるな」
ラージャオから少し苦手意識を持たれていることに、ヤエンはヤエンで気づいているようだ。そう思うなら態度を少しだけ改めたらどうかな、という言葉を無理やり飲み込み、ココンはわざと明るく言った。
「ラージャオの言う通り、お昼のことすっかり忘れてた。何が入ってるのかな」
ココンはその場でさっそく包みを開けた。蓋をした器の上にロールパンが一つとフォークが乗せてある。蓋の方を開くと、中には野菜や肉がゴロゴロと入っていた。上には溶けたチーズがかかっている。
一見ブロンちゃんの罠に使った料理とも似ているが、人間でも食べられるようにアレンジが加えられているらしい。
「たくさん準備してた材料は、僕たちの分だったんだ」
ココンはそばのベンチに座った。
「ヤエンも食べよう。お腹空いたもんね」
「見張りがある」
「じゃあ僕が見張ってるから、その間に先に食べなよ」
ヤエンは少し考えてから、ベンチに座った。ただ、ココンから出来るだけ遠い位置に、である。
「来たらすぐ気づくだろ。さっさと食うぞ」
ヤエンも包みを開き、フォークを取り出した。ココンはそれを見届け、自分の分に向き直った。
「いただきます」
両手を合わせて言うと、隣でヤエンが小さく、「いただきます」というのが聞こえた。少し意外に思ったが、指摘しようものなら機嫌を損ねてしまいそうなので、ココンはそれ以上構わず食事に意識を戻した。
早速鶏肉にフォークを刺し、口に運ぶ。ひとかみした瞬間、よだれが一気に溢れてきた。良い香りと柔らかい食感、なめらかなチーズの味わいに、ココンは思わず声を漏らした。
「おいしい…!」
「俺は臭いが立つように、焼けって言ったんだけどな」
ココンはヤエンを横目で睨んだ。いちいち文句を言わないと生きていけないのか。こいつは。
「焼くと冷めた時に美味しくなくなっちゃうから、茹でることにしたって言ってたよ」
ココンが答えると、ヤエンはやれやれとため息をついた。ラージャオは、何よりもブロンちゃんに美味しい料理を食べさせてあげることを優先していたのだ。ヤエンの指示を無視してしまうくらい、ラージャオにとっては譲れないことだったのだろう。
「それに、最後にオーブンで焼いて、チーズに焼き目をつけてたよ」
「アイツからすれば、それも単なる料理の最後の仕上げだったんだろ」
「たしかに、焼き目が特別美味しいね」
ココンはパクパクと料理を食べすすめた。少し冷めてきているのに、問題なく美味しい。作り立てを食べてみたいものだ、と思う。
一緒に旅ができたなら、この先何度も、この料理を食べるチャンスが巡ってくるのだろう…。
「うまい」
聞こえるか聞こえないかくらいの音量で、ヤエンがつぶやいた。ココンは冷やかさず、にっこりと微笑んだ。自分が作ったわけではないのに、なぜだかとても嬉しかった。
「本人に言ってあげなよ。作戦が上手く行った後に」
ヤエンは何も答えなかったが、フォークを動かす手を止めることはなかった。
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