第5話

「俺はテァランギ」

「ココンだよ」

「ラージャオです」

 テァランギと名乗った少年は、ピッと道の先を指差した。

「一緒に行動したほうがいい。このまま進むぞ」

「でも、進むより戻ったほうが、地図の町に近いんじゃないですか?俺たちがいるのは多分まだ、この辺りでしょう?」

 ラージャオが言った。自分の地図を広げて確認している。彼の言う通りココンたちがいる場所は、目的地である町よりも地図の町に近いところに位置している。森に熊がいるのなら、今から戻って早く森を抜けた方がいいだろう。

 それはそれとして、ラージャオの地図はどうやら美食家用の地図らしい。この辺り一帯にある人気のレストランや、名産品が書き込まれている。ラージャオらしい地図だ、とココンはひそかに思った。

「この熊はおそらく、向こうをうろついている。この道を戻っていくのは、奴の縄張りに飛び込むようなものだ」

 ラージャオとココンの考えに対し、テァランギは冷静に否定した。ココンは咄嗟にたずねる。

「なんでそんなことが分かるの?」

「分かる」

 テァランギは真っ直ぐにココンを見据えた。

「俺には分かる。同じような足跡を何度も見て育ってきたんだ」

 緑色の髪は、主に森や山のそばで暮らす人々に特有だったはずだ。彼もまた、そういった場所で生まれたのだろう。彼の考えに、意見する気は全く起こらなかった。こういう時は、やはり詳しい人の言葉に従うべきだ。ラージャオも同じ考えのようだった。

「急いで、町の人に知らせましょう」

 テァランギと知り合えたことに喜びたいところだったが、状況がそれを許さなかった。どこに熊がいるかも分からない状態では、おしゃべりで気を紛らわすわけにもいかない。

 ドキドキしながら歩いていると、ラージャオがおもむろに口を開いた。

「っていうか俺たち、熊とか何も知らずに大声出しながら来ましたよね。すごく危ないことしてたんですね」

「怖いこと言わないでよ…」

 ラージャオに関しては、熊の縄張りのど真ん中で行き倒れていたのだ。ココンが通りかかって、本当によかった。コックになる前に自分が食べられてしまったのでは、元も子もない。

「俺、良いものばかり食べてますし、首にはスパイスぶら下げてますし、きっとおいしかったですよ」

「ラージャオ、怖いから」

「二人とも」

 テァランギが立ち止まった。ココンは小声で言う。

「ごめん、静かにするね」

 テァランギは首を振った。どうやら、声を出してしまったことを戒めようとしたわけではないらしい。彼はまた、地面を直視している。しかしさっきと違い、たいして何も見られない。小石の一つ、葉っぱの一枚も落ちていないのだ。けれどテァランギには、たしかに何かが見えているようだった。

「誰かが先にここを通った。一人、子供だ」

 テァランギは地面を指で撫でた。うっすらと残る足跡を発見したらしい。

「危ないですね。でも、ここまで歩いてこれてるってことは、多分無事ですよね」

 ココンは声を出せずにいた。ここを、南の森を少し前に通った子供。ひるがえる黒いマントが、木々の向こうに見えた気がした。

「その子、知ってるかも」

「ココンさん、知り合いですか?」

「ううん、話したこともない」

 ココンのあいまいな返事に二人は不思議そうに首を捻った。

「とりあえず、ラージャオも言った通り無事な可能性が高い。まずは自分たちの心配をしよう」

 テァランギの言葉にココンは頷いたが、不安は消えなかった。もしあの時話しかけられていれば、何か違かったのだろうか。何か悪いことが起こったわけではないのに、ココンはつい後悔してしまう。今は彼の無事を願い、足を動かすしかない。

 数分歩いたところで、テァランギがまたまた立ち止まった。何かを探すように、あたりを見回している。

「どうかした?」

「声が聞こえる」

 言われて、ココンも気づいた。どこか遠くの方から、うっすらと人の声のようなものが響いてくる。テァランギは目が良いようだが、耳も良いようだ。

「えっ、俺には全然聞こえないんですけど」

 ラージャオは眉をひそめながら言った。

「多分うるさい厨房のそばで育ったからですかねぇ、じゃなくて!人がいるなら熊のこと知らせに行ったほうがいいですよね!」

「俺もそう思う」

「行こう!」

 ココンは勇敢に叫び、声の方に向かって走り出した。その横を、テァランギが軽々と追い抜いていく。

「森の中は危険だ。俺が先に行く」

「はい」

 ココンは大人しく先頭をテァランギに譲った。これまで歩いていた道は、人が何度も通ったお陰で地面が平され、草もほとんど生えていなかった。しかし、森の中を進むとなれば話は別だ。枝や葉が顔にあたり、足元はガタガタして転びそうになる。しかし、テァランギは危なげなく茂みを飛び越えていく。テァランギは振り返ってココンを気にしている。

「二人とも、大丈夫か」

「ぎりぎり!」

「大丈夫じゃないです」

 最後の声にココンも振り返ると、ラージャオが顔を真っ赤にしながらついてきていた。髪の毛も赤いので、もはやどこからが顔でどこからが髪なのか分からない。

 そういえば、ラージャオの荷物はとても大きかった。食べ物が入っていないとするなら、一体何が入っているのだろう。

「見えた。あそこにいる」

 テァランギが指差した先には、森の中にぽっかり、開いた場所があった。太陽の光が差し込んでいるため、そこだけが明るい。声はすでにはっきりと聞こえていた。

 そしてもう一つ、分かったことがあった。この声は、歌っていた。森の中で歌っているなんて、まるで絵本の世界のようだ。

 森の中の空間にたどり着いた時、ココンは思わず声を上げた。広場の中心には、綺麗な池があったのだ。湧き水なのか雨水が溜まったのかは分からないが、透き通った水面は太陽の光でキラキラと輝いていた。そのほとりに、腰掛けている男の子が一人。

 ふわふわとした空色の髪を揺らしながら、不思議な楽器を弾いていた。丸くて小さなギターのようで、ぽろんぽろんと優しい音を奏でている。男の子は裸足を水に浸し、波を立てながら歌っていた。

 なんとも気持ちよさそうで、ココンはその場から動くこともせずにただこの景色を眺めていた。しかし、テァランギは普通にとことこと池に歩み寄り、男の子の肩に手をかけた。

「おい、ここは熊が出る。離れたほうがいい」

「やぁ、びっくりした!」

 男の子はギョッと身をすくませたが、からからと笑い声を上げた。人形のような、綺麗な顔をしていた。このような状況でなければ、彼のことを妖精がなにかと勘違いしてしまったかもしれない。

「はぁ、やっと追いついた。歌ってた人は大丈夫そうですか?」

 息を切らしながらラージャオが到着した。

「うん、そうみたい」

「熊、熊だって?」

 驚きに満ちた声に、ココンもラージャオも池の方へ目をやる。男の子は池から上がり、楽器を抱きしめていた。

「ボクが聞いたところによると、熊はこの近くには出ないはずだけどねぇ」

 男の子の言葉に、テァランギが淡々と答える。

「山から降りてきて迷ってしまったんだろう。この近くにはいないと思うが、一応避難しておいたほうがいい」

「なるほど分かったよ。しかし、困ったなぁ」

「どうかしたの?」

 尋ねたココンに、水色の男の子は笑いかけた。彼は胸を張って、堂々と答える。

「実はボク、迷子でね!どこに向かえばいいか、検討もつかないのさ」

 はっはっは、と高らかに笑う少年。ココンたちは顔を見合わせた。命の危険が迫っているかもしれないのに、ずいぶんと明るい。

「なんにせよ、一緒に町まで行ったほうがいいですよね」

「俺もそう思う。お前、俺たちと一緒に行こう」

 ラージャオとテァランギの言葉に、少年は嬉しそうに楽器を空高く掲げた。常に大げさな動作をする子だった。

「自己紹介が遅れたね!ボクはマーレ。海と風と空が響き合う場所から来たのさ、よろしく頼むよ!」

 どこから来たのかはちょっとよく分からなかったが、とりあえず明るい人だということは分かった。青い髪は水辺に住む人々の象徴である。きっとマーレは、海につながる南の土地から来たのだろう。だとしたらこれから行く場所はマーレにとっては逆戻りになってしまうかもしれないが、熊が出る以上彼を地図の町へ向かわせるわけには行かない。

「僕はココン。ほとんど麦畑しかない村から来たよ」

「俺はラージャオです。砂しかないけど、ご飯が美味しいところから来ました!」

「俺はテァランギだ。山が、山の、……山から来た。よろしく頼む」

 マーレは大喜びで楽器をかき鳴らそうとしたが、それはみんなで止めた。マーレも荷物が少なかった。楽器をいれるケースの他には、肩にかけたゆったりとした鞄だけだった。

 やはり、と言うべきか、驚くべきことに、と言うべきか。マーレもまた、『巡り』だった。首飾りには、白く輝く貝殻が通されていた。海から遠い場所で育ったココンにとって、貝殻はとても新鮮に映った。

「じゃあ、さっきの道に戻るぞ」

 再び、テァランギを先頭にしてココンたちは歩き出した。ここまで来る時はなりふり構わなかったので、ココンには元いた道がどこにあるのか見当もつかなかった。これではマーレのことをとやかく言えない。しかし、テァランギは迷いなく森の中を進んでいった。

「マーレは、地図の町にはもう行ったの?」

「行ってないよ」

「じゃあ、この町には?」

 ココンは自分の地図を取り出し、マーレに見せた。地図を覗き込んだマーレは首を振り、地図の一箇所を指差した。

「ボクは昨日の昼くらいに、ここを出発したのさ」

 その町の場所を見て、ココンは衝撃を受けた。森の中の一本道など関係ない、ずっと遠くの町から、マーレは来ていたのだ。

「マーレ、ここからここまで、歩いてきたってこと?」

「そうなるね!いや、道がどんどんボコボコになっていくと思ったら、いつのまにか森に迷い込んでいてね。自分でもびっくりさ」

 びっくり仰天!とマーレは高らかに言い、楽器をじゃかじゃん!と鳴らした。

「ココン、楽器を没収してくれ」

「了解」

 テァランギの言葉に従いマーレの楽器をケースにしまわせていると、ラージャオが呆れたように笑った。

「マーレさん、もしかして方向音痴?」

「音痴ではないさ!歌には自信があるとも」

「それは分かったから」

 再び楽器を取り出そうとするマーレを、ココンは必死で食い止める。なんとか話題を変えようと、ココンはマーレに聞く。

「じゃあ昨日は野宿だったんだ」

「地面は硬かったけど、なかなか楽しかったね!」

 妖精のような見た目をしているが、相当面倒くさ…パワフルな性格をしている。ココンはマーレに対する考えを改めた。

「ココン」

 テァランギが呼んだ。

「その黒マントだが、ブーツを履いていたか?」

 言われてココンは、必死で記憶を掘り返した。マントの裾から除いた足は、確か…

「うん、たしかに履いてた」

「なら、ほとんど確実だろうな。この辺りの人間は、ほとんどブーツを履かない」

 テァランギは地面を指差した。足跡は、すでにココンの目にも分かるほどはっきりとしている。黒マントの子が近いという証拠だ。話についていけないマーレが、首を傾げる。

「なぁキミ、ココくんと言ったね。その黒マントっていうのはなんとのことだい?」

「僕がひとつ前の町で見かけた『巡り』の子。話はしてないんだけど、僕らより先にこの道を通ってるみたいだからちょっと心配で」

「なるほど、それは確かに心配だ」

 マーレはうんうん、と頷いた。

「しかし、『巡り』っていうのは思いの外たくさんいるもんだね。キミたちは、一緒に旅をしているのかい?」

「それが、そういうわけじゃないんだ。僕らもさっきこの森で会ったばかりで」

 たしかに、この森で三人も『巡り』に会えたというのは、すごい偶然である。ラージャオ、テァランギは同じ道を歩いていたが、マーレに至っては森で迷子になっていたところを出会えたのだ。

 物語好きのココンとしては、何かしらの運命を感じずにはいられない。これで黒マントの子とも合流できれば完璧なのになぁ、とココンは思った。そしてその考えは、見事的中することとなる。

「足跡が止まっている」

 テァランギは地面にしゃがみ込み、足跡をなぞった。たしかに足跡は、その場で何回か足踏みを繰り返した後、あらぬ方向へ曲がっていっている。

「追いかけられて逃げた、とかですかね」

 躊躇いがちにラージャオが言う。ココンもその光景を思い浮かべてゾッとしてしまったが、テァランギは首を振った。

「焦っているような形跡がない。足跡は脇にそれて、あの木の下まで続き…」

 テァランギは、ゆっくりと視線を上にあげた。ココンを含めた三人も、それを真似する。

「あっ」

 何かを見つけたラージャオが声を上げた。ココンの目も、同じものを捉える。立派な木の上の方、広がる枝の中に、黒いマントが引っ掛かっていた。いや違う。誰かが、黒いマントにくるまって枝の上に寝そべっているのだ。そばの枝には旅行鞄が掛けてある。間違いない。あの子だ。

「おーい」

「ちょっとー」

「起きてくださーい」

 ココンたちは大きな声になりすぎないように、眠っているらしき男の子に声をかけた。なかなか起きる気配がしないので、痺れを切らしたテァランギが「撃ち落とすか?」と弓矢を構えようとしたとき。

「何だオマエら」

 苛立った声が降ってきた。黒い影がモゾモゾと動き、やがて男の子の顔が現れた。あの冷ややかな目で、ココンたちを眺めている。

「あの、君。ここら辺に熊がいるみたいで。僕らと一緒に町まで逃げよう」

 ココンは懸命に話しかけたが、なんとなく口下手になってしまった。

「ココンさん、緊張してます?」

 ラージャオを小突こうとしたとき、木の上の男の子がまた口を開いた。

「知ってる」

 ココンたちは顔を見合わせた。マーレが不思議そうに声を上げる。

「それじゃあ、キミは何でそんなところで余裕かましているんだい?熊が来たならちょちょいのちょいで食べられてしまうよ」

「熊の形跡があったから避難したんだよ。オレは寝てんだ、さっさと行け」

 思っていたよりも、口が悪い子だった。ココンは少し不満に思う。せっかく忠告してやったっていうのに、そんな言い方は無いじゃないか。ラージャオも同じ気持ちだったようで、なにか言い返そうとしていた。

 しかし、ココンもラージャオも、テァランギの言葉に思いとどまった。

「そこでは足りないぞ」

「は?」

 テァランギは突然弓に矢をつがえ、何も言わずに放った。ココンたちはギョッとのけぞる。木の上の彼もさすがに慌てたようだった。

 しかし矢は男の子の頭上高くまで飛び、幹の真ん中に刺さった。黒マントのフードから、五十センチくらい上の位置である。テァランギはその矢を指差した。

「あの熊なら、そこまで届くだろう」

 男の子も、ココンたちも、唖然としていた。テァランギの行動にも当然驚いた。矢を撃つなら、先に一言いってほしい。撃ちますよ!というふうに。

 しかしそれ以上にココンに衝撃を与えたのは、熊の大きさに関する事実だった。まさか熊がここまで大きいとは思わなかった。少年が座っているのは高さ三メートルのあたりだった。四足歩行の熊なら届きそうもないのに。男の子も、そう思っていたらしい。

「熊の体長は大きくても二メートル程度だろ、立ち上がったって届かねぇよ」

 少年の言葉に、テァランギはすらすらと答えた。

「体長は、鼻先から尻までの長さのことで、足の長さは入っていない。それにさっき見た足跡の大きさから、かなり大きい熊だと予想される。立ち上がれば三メートルは余裕で越える個体だろう。それに」

 テァランギは弓を肩に背負い直した。静かに、それでいてはっきりと、男の子に告げる。

「熊は普通に、木に登るぞ」

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