第一夜
「あけがた」といって、その人は話しはじめました。「わたしは、太平洋に面した海岸に吹く心地よい朝風を浴びながら、飼い犬を散歩させていました。太陽の光はまだ熱をもたず、工場にある煙突のように並び立った3本の入道雲を、熟れすぎた柿のような濃い色に染めあげていました。
ちょうどそのとき、遠くに見える駐車場から浜辺に向かって、きれいな女性が歩いていくのが見えました。この女性は、幾分足取りが重く、それでいて、はかなく、今にも消えてしまいそうな雰囲気を持っていました。わたしは、この女性の様相を通して、考えていることを読み取ることができました。浜辺に着き、やわらかい砂が、サンダルの上から女性の足を重くしましたが、そんなことにはかまわずに、女性はゆっくりと先へと進んでいきました。わたしは女性の足元にいたであろう、カニたちがいそいで巣穴へ逃げ帰っていく様子を思い浮かべていました。女性は時々立ちどまって休憩していましたが、無理もありません。この女性は何か持っていて、それは女性の半身より長く、それでいて奇形でした。女性はそれが砂に付かないように慎重に持ち歩いていました。
女性は海に近よって、地平線をまっすぐ眺めていました。光が女性の手に持つものを金色に染め、その反射がわたしに向かってきた時はじめて、それがトロンボーンだということに気が付きました。女性の持つ黒く、ガラスのような眼は、長く揃ったまつ毛の奥から、魂の抜けたような眼つきで、外の景色をじっと眺めていました。女性は、別れが来ることを知っていました。もう二度と会うことがないことも、そして決断しなければならないことも知っていたのです。見れば、太陽は徐々に昇り、光からは熱を感じ始めました。女性の眼が輝きを取り戻し、心は熱とともに燃え上がりました。気が付くと巣穴からカニたちも出てきていたようです。けれども女性は気にせず考えていました。未来のことを。そして両手を前に出し、大きく息を吸いました。
『!―――――』と、トロンボーンが希望の音をあげました。すると、海からひとつの大きな波が押し寄せ、女性の前で大きな音を立てた後、ゆっくりと引いていきました。
女性は振りかえり戻っていきました。その足取りは羽が生えたかのようにとても軽やかでした。」
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