1-19 レッドドッグは逃げられなかった!
(許して……もう許して……)
いくら運が悪いからといって、これはない。京はコロシアムの出入り口付近で膝をつき、固まったままだった。
「私が絶望に打ちひしがれて叫んでも、誰もかれもお構いなしにパーリィーピーポーどんちゃん騒ぎ……やだ、やだ、見世物にされて死ぬのなんてやだ」
異世界のコロシアムといえば、奴隷たちが恐ろしい魔物と闘わされ、また殺し合いをさせられ、死ぬまでを見世物にされる。そんなイメージだった。実際はそんな物騒なものではなく、殺しはご法度。過度な痛めつけもNGの健全な催しである。
「さっきから魔物の唸り声が歓声に混じって聞こえる……きっと私を殺すためのやばやばな魔物が出てくるんだ……首をパクッとやられてブンブンされて、観客席に血が飛び散ったら、その血を浴びた観衆たちがファンサくらったドルオタみたいに湧くんだッ」
観衆にも失礼な最悪な妄想を勝手にしては、体をぴるぴる震わせる。唸り声が森にいた魔物とそっくりだったので、妄想のなかの魔物は犬のイメージだった。
(そういえば、森でいちばん最初に出くわしたのって、犬の魔物だったな)
犬の魔物。それは、京がはじめて出会い、はじめて命を奪った魔物である。あのときは焦っていたし、異世界に来てはじめて魔物見たこともあり、逃げ回ってばかりだった。しかし、一ヶ月の間に魔物を仕留めた数は、もはや二桁を超えている。今ならば、あのくらいの魔物ならば倒せる気がする。
「あの犬の魔物だったらなぁ」
願望を口にしたとき、場内がいっそう騒がしくなった。京は慌てて立ち上がり、目の前を見据えた。
(あれ?)
檻から放たれた魔物は、なんだかとっても見覚えのある姿をしていた。見覚えがあるというか、京が願っていた、いちばん最初に出くわした犬の魔物だった。
「は、はじめて要望がとおった……!!」
京はあまりの感動で、体の震えを「怯えの震え」から「喜びの震え」へシフトチェンジさせる。あの魔物なら自分でも勝てる。観衆に己の血を撒き散らさずに済む!
魔物は唾液を垂らし、いかにも空腹といった様子。京は「こんなところもあの時といっしょだ!」と謎にテンションを上げながら魔物への一歩を踏み出した。
一方魔物は、視界に京を映した途端に怯えはじめてしまった。
「な、なんか怖がられてる?」
京が一歩近づけば、魔物も一歩遠ざかる。意地でも近寄りたくないという意思が伝わってくるかのよう。そうだ。彼女は、この魔物に正しく怖がられていた。
何を隠そうこの魔物、京がいちばん最初に命を奪った魔物の仲間だったのだ!
この魔物、レッドドッグは群れで狩りを行う賢い種族であり、京の目の前にいる個体も、じつは初日に狩りに参加していた。近くで待機していたのである。そして、見てしまったのだ。仲間の首が爆発四散してしまったところを。
以降、彼は京に見つからないよう、息を潜めて生きていた。京が近くを歩いていると草むらに隠れ、遠くで姿を見掛ければ即座に逃げる。徹底的に京を避けていた。もう、姿を見るだけで精神が削られるほどのトラウマを、京は彼に植え付けていた。もはや神話生物扱いである。
ある日、京がドラゴンの巣穴にいなかったので、脅威は去ったのだ! とルンルン気分ではしゃいだのがいけなかったのだろうか。レッドドッグは知らないうちに人間の領域に足を踏み入れ、まんまと捉えられ、なんの因果か、京の目の前に駆り出されてしまったのだ。
「クゥゥ〜ン」
「うわ、なんかすっごい弱々しい声出しはじめた……」
レッドドッグは必死になって生きる術を考えた。考えて考えて、結果。必死で同情をかうことにした。レッドドッグは賢いから、目の前の人間に噛み付いたところで勝てないことを理解していた。逃げてもたぶん追いかけられて、最後にはあの日の仲間と同じ
逃げてもだめ。戦ってもだめ。なら、媚びをうるしかない! この人間は琥珀竜のヒナを可愛がっていた故、魔物が嫌いではない様子。情が湧けば多分生かしてくれる。きっとそう。
レッドドッグはただの犬になりきった。魔物としてのプライドなど、命の前には邪魔なだけである。目をうるうるさせ、弱者の気持ちで京を見つめた。
「クククゥ〜ン」
「……」
魔物が懸命に生命を繋ぎ止めようとしている間、京はというと「こんな大勢の前で血まみれになって大丈夫かしらん」と、自分の保身と体裁について考えていた。
この世界に、魔物に対して動物愛護の精神がどれほどあるかは知らないけれど、ここでこの魔物をパァンとやってしまったら、国中から引かれるのではないか。
(イッヌのモツ塗れの人間とかどう考えてもやばい。私なら引くし、なんなら近づかないまである。もしかしたら「そこまでしなくても……人でなし」とか言われるかもしれないし、下手したら異世界でもぼっち確定だ)
京はデッキブラシを握りしめた。こいつで殴れば社会的死。リタイアすれば生活的死。弱者には選択肢なんてないのだと唇を噛みしめた。人生なんてクソ食らえである。運無しにも人権をよこせ。
「はぁ……ごめんよイッヌ。私にも生活があるんだ。大丈夫。たぶん、大丈夫だよ。優しくするから、爆発四散はしない──はず」
京は「はず」のところで目線を逸らした。両者、じりじりと移動していき、やがて壁際まで到達する。レッドドッグと京の間には、異様な空気が漂っていた。京は、レッドドッグから極限まで体を反らせ、デッキブラシを目いっぱいに伸ばす。
「爆発四散だけは……爆発四散だけはよして」
愛護団体に八つ裂きにされたくない。国民に引かれたくない。ぼっちになりたくない。そんな一心で、京は努めて優しくデッキブラシをレッドドッグに当てた。
「キュン」
パタリ。
レッドドッグは倒れた。京に対する恐怖で心労が限界値を超え、意識がなくなってしまったのだ。つまりは気絶。
「……死んだ?」
京はレッドドッグに近づき、お腹のあたりを触ってみた。フカフカのホカホカである。
「生きてる……なんだ、触っただけじゃ死なないんじゃん!」
デッキブラシは触れただけで爆発四散するのではなく、殴ったら爆発四散する仕組みらしい。京の認識がアップデートされた。更新された内容はそれでも間違いのままだが、誰かがデッキブラシに当たらないか、ずっと気をはらずに済むという事実は、彼女の心を軽くさせた。
「お、」
「おお?」
「おぉ〜!!」
「なぁ〜んとッ!! 闘わずして勝ってしまったぞこの挑戦者ぁ〜〜〜!!」
一瞬静まり返っていた会場は、引いた波が押し寄せたかのように騒がしくなった。バイブス上げ上げである。そんな、やんややんやと騒ぐ観衆のなかから、司会者がスススと近づいて来て、京にマイクのようなものを差し出した。
「挑戦者さん、一回戦勝利おめでとう!」
「ヒィッ、あ、あざます……」
「いやぁ、まさかデッキブラシでレッドドッグを倒してしまうとは。番狂わせ、いいですねぇ」
「ど、どうも」
陰キャ丸出しの受け答えが大音量で響く。こんな答え、求められているものとは絶対に違う。もっと気の利いたこと言えないのかこの出涸らしの茶葉野郎と自分を罵った。
「挑戦者さん、いまの意気込みを聞いていいですか?」
「あ、はいがんばります……ところであの、この魔物生きてるんですけど、どうしたらいいですか?」
京はレッドドッグを持ち上げた。体長が自分よりも少し大きめなくらいなのに、ホロと同じく発泡スチロール並の重さで、京はちょっとびっくりする。よっぽど飢えてるのかしら。
「この魔物、なんか死ぬほど軽いんですけど。コロシアムで飼ってるなら、ちゃんとご飯あげたほうがいいっすよ」
「え、軽い?」
「? 軽いです。もう連れてってください」
「あ、や、ボクは流石に持てないので……誰かー、レッドドッグ持てる人来てー!」
司会者は叫びながら、サッと京から遠ざかっていってしまった。コロシアムの中心に取り残された京は、レッドドッグを持ったまま立ち尽くす。
「これなに、どうしたらいいの?」
このままこの場所にいればいいのか、はたまた休憩をはさむのか。オロオロしていると、向こうからムキムキの男が二人やってきて、レッドドッグを回収していった。二人は去り際、京ににこやかにエールを送る。
「レッドドッグ撃破、おめでとう!」
「次の冒険者との闘いも期待してるよ!」
「え?」
二回戦目の相手は冒険者。京はムキムキの去ったほうを向いて間抜けヅラを晒した。そして、何回目かの大声を出すのだ。
「次回戦が人間相手なんて聞いてなーーいッ!!」
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