3.近づく距離と戸惑いと③



*****



 アレンからそくりょうしょうを得てラスが取り掛かったのは、香を使った薬糸りょう魔術だ。

 あらかじめ準備しておいたのは、ラベンダーオイルを使ったアロマキャンドル。とはいえ香はあくまでばいたいで、灯心に使う糸にこそふうがあり、魔力を込めてつむぎ出してある。

 ベンチに腰掛けたままのアレンの前にかざすように、ささげ持ったキャンドルに火種を近づけると、ぽっとだいだいいろの火がともった。


「え、と……それじゃ、楽な姿勢をとっていただいて……香りを吸いながら、目を閉じて。それから、おなかからゆっくり深呼吸して下さいますか」

「うん」


 その蒼い瞳が銀色のまつげの下にかくされるのを確認してから、ちゃんとできるかとどきどきしつつ、ラスは定型のじゅもんを唱える。


『糸よ、糸よ。私に従う運命の糸よ。どうぞこの方の疲れをほぐし、その身を癒し、心を安らがせ、悩みの種をかしたまえ……』


 声に従ってゆらゆらと揺れていたろうそくほのおが、一筋白いけむりを立ち上らせる。

 ラスも瞼をせ、煙が彼の体内を巡り、疲れや病の原因となるよどみを巻き取って、せる様を想像した。


(紡ぎ取れ、うばれ、消し飛ばせ。この方に巣くうもの、その身をさいなむものをすべて)


 強く強く念じ、仕上げに、ふっと炎をせばかんりょうだ。


「……どうでしょう」


 恐る恐るといった風情でアレンにけば、彼はゆっくりと瞼をあげ、パチパチとまばたいた後、大きく目を見開いた。


「すごい」

「え?」

「体が軽い! これが、君の薬糸魔術?」

「は、はいっ。私の一番得意な、疲労やびょうの種を巻き取ってから消し去る回復の魔術で……」

「アロマキャンドルを使うのは珍しいね。火を使うと、魔力は消えてしまうと思ってた」


 感心したように炎の消えたキャンドルを見つめるアレンに、ラスは「はい、普通はその通りです」と頷く。

 絶対的に、魔女と魔法は炎に弱い。それが世のことわりだ。

 炎属性の魔女だけはこの世に一人も存在せず、そして、魔石を使った魔術でもなんでも、炎によるじょうで強制的に消えてしまう。魔女を確実に殺すには、あぶりが最善。実際に、前王朝のハインリヒ凶王時代には、数えきれないほどけいが行われていたらしい。

 灯心の糸に魔力を込める薬糸魔術も、本来ならば炎の作用で無効化してしまう。しかし複雑な術式を使い、糸の炭化にともない魔法が消える直前に香りの方に効果を移し拡散するのが、アロマキャンドルを使ったラスの薬糸魔術である。


「自分で使えはするのですけど、術式の理論分解が難しくて……。はんよう化というか、例の凶暴化病案件に対処する兵の皆さんも使えるようにするには、まだまだ研究不足ですし。私じゃ魔力が弱くて、一人一人にしかかけられないんですけど」


 ゆうしゅうな姉たちならば、アロマキャンドルの香りが届く範囲の人々全てを、ささっと癒すことも可能なのだが。このところ久しく会えていないとしはなれた姉二人の美しい顔を思い浮かべながらけんそんするラスに、アレンはかぶりを振った。


「十分だよ。うそみたいに頭がスッキリした!」


 これはすごいと繰り返して、嬉しそうに肩を回したり手を握ったり開いたりしているアレンを見ていると、ラスもまた、だんだん心がこうようしてきた。


「私の魔法、……お役に、立てました?」

「役に立つどころか大助かりだよ!」


 満面の笑みがまぶしくて、ラスは思わず頰に熱が集中した。


(……だってアレンさまがあんまりお綺麗だから!)


 ドギマギしつつ彼から視線を逸らし、ラスは躊躇いがちに提案してみる。


「あの、もしよろしければ、……これからも、薬糸魔術でお体を少し楽にしたりする、お手伝いをさせていただけませんか? それから、サシェ用のポプリや香草茶の調合も、結構得意なので、それも……。お毒味でしたら目の前でいたしますので……」

「本当? それは楽しみだな。けど、毒味なんていいよ、君が俺に危害を加える可能性なんてないしね。ところで香草茶って、どんな種類があるのかな」

「ええと、はい。頭がスッキリする調合だとミントが欠かせなくて、眠れない時はカミツレにレモンバームを交ぜて……東方由来の茶もおすすめです。ちょっと好き嫌いが分かれるけど、疲労回復には効果ばつぐんなんです」

「へえ! 枇杷って、確かあのオレンジ色のプルーンみたいな実のなる植物だったかな。王宮の果樹園にも輸入品の木が植わってるよ。そのお茶っていうと、……使うのは葉のほう? 果実?」

かんそうさせた葉をせんじるのが基本ですが、私は花や果皮を交ぜたりもします。果肉やみつ入りのは、飲みやすいです。ほんのり甘くて……」


 ワタワタとお茶の解説をしているラスの話に、しばらく楽しそうに耳を傾けていたアレンだが、「けど、ラケシス嬢がいてくれたら、俺は数日眠らなくても働けそうだな」とおんなことを言い出すので、ラスは慌ててブンブン首を振った。


「ダメです! 薬糸魔術だけでなく癒しの魔術ぜんぱんに言えることですが、できるのはあくまで本来の治癒力の強化ですから! そもそもの体力が底を突いたら、術なんて効きません。魚の死体に魔法をかけても、ちょっと新鮮な死体になるだけ、みたいなもので」

「なるほど、魚の死体」


 アレンが真顔で繰り返すので、ラスははっと我に返った。


「え……あ、すすす、すみませんっ! 私ったらとんだ失礼なたとえ……!」


 真っ赤になってていせいするラスに、「あはは!」とアレンは声を上げて笑った。


「ううん、わかりやすかった。うん、俺も新鮮な死体にはなりたくないかな。ちゃんとるようにするよ。けど、……新鮮な魚の死体って。そのたとえ方こそ新鮮だな、と」


 口元に手を添え、肩をふるわせて、彼があんまり楽しそうに笑うもので。ラスもだんだん、ゆるゆると頰がゆるんできた。


「ふふ」


 ついつい、ラスまでつられて思わず軽く笑ってしまったのは、全くの無意識だ。

 けれど。


「あ」


 その顔を見て、アレンがポカンとしているものだから。ラスは慌てて表情を引き締めた。


「し、失礼しました……!」

「え? いいや、失礼じゃないよ、失礼どころか──君の笑った顔、初めて見た。すごくいい!」

「えええっ!」


 あまつさえよかったらもう一度笑って、と身を乗り出してくるアレンに、「だ、だめです!」とラスはいよいよ頭のてっぺんまでりんごのような赤さに染まった。


(どうしよう、どうしよう。お見苦しいものを見せてしまった!)


 彼は優しい方だから、「すごくいい」なんて心にもないことを言ってくれたのだろうけれど。そんなわけがないのに。

 もう頭の中がしっちゃかめっちゃかで、ラスは両手をいっぱいに広げて、首をいっぱいにひねって顔を隠そうとする。目がうるんでまともに彼の顔を見られない。


「わ、わ、私、……すごく、笑うのが下手くそで! 自然に見えるように頑張っても、あまりにひどいから、……街の子ども達からも、『呪われたじゃあくみ』とか『見ると不幸にわれる』とかって、こわがられたり馬鹿にされてて、……だから」

「……そうなの?」


 必死に言いつのっていると、アレンが静かな声で確認してくるので、ラスはうつむいて頷いた。


(……がっかりさせちゃった……?)


 せっかく笑顔をめてくれたのに。

 でも、同じように「笑え」と言われても、きっといつもの「にちゃ」とか「デュへ」の顔になってしまうに決まっている。それは嫌だし、やりたくない。……どうしよう。


「申し訳ございません……」


 なんだか泣きたくなってきた。必死に謝りつつほうに暮れたラスの肩に、そっとアレンの手が添えられた。

 顔を上げると、そこにはやはり、アレンの綺麗な笑顔があるのだ。

 けれど、その表情は少しいつもと違う。少しだけ鼻の頭にしわを寄せた、あどけない、少年みたいな笑み。ゆうで完璧な王子様ではなく、なんだか悪戯いたずらに成功した子どものような、じゃなものだったから。


「じゃあ俺は幸運な男だな。さっき見られた君の笑顔は、すごく特別なものだったんだね」


 今日はいいことありそうだ、次があるようにいのっとこう。

 ──そんなふうにカラッと告げて白い歯を見せるアレンに、ラスはだんだん心が軽く、明るくなっていくのを感じていた。


「……はいっ!」

(私が笑ったから、今日はいいことありそう、だなんて。そんなの初めて言われた! きつだとか、気味が悪いとか、そういう言葉なら、たくさんかけられてきたけど……)


 嬉しい。

 じりに浮いたなみだつぶをそっと指先でぬぐったが、アレンは見ないフリをしてくれた。

 そして、彼と話しているうちにどきどきと高鳴るどうの速さが、とっくに緊張やきょうによるものではないことに。その感情の、確かな名前に──ラスは、気づき始めてもいた。


(私、……この方が、好き)


 どこか読めなくて、しん的で。ちょっと押しが強くて、笑顔が優しい。

 王太子としてのしつにも王立研究所の仕事にもしんけんに向き合い、とてもけんめいで、完璧な王子様。

(そういう、表面的なところばかりじゃなくて)

 例えば、仕事の合間に「ちょっと疲れた」とため息混じりに愚痴を言っていたり。素の一人称が、王太子らしくなく「俺」だったり。楽しいことがあった時に無邪気に笑う目元や、意外と冗談が好きで何かとからかってくるところ。たまに見せる、少し冷たい、無機的な印象の眼差しも。

 何を考えているのかわからない人だと思っていた。

 今は、わからないことが、逆に素敵なことだと思う。まだ知らない、これから知っていく彼の余白を、楽しみだと。


(でも)


 ──そんなことを思う資格などないのに。

 同時に胸をおおうのは、どうしようもないむなしさだ。


「そういえばラケシス嬢。よければ呼び方を変えても構わない?」


 ふとアレンが手を打ったので、ラスは首を傾げた。


「ラケシス嬢、といつまでも呼ぶのはなんだかよそよそしいと思って。確か、ご家族は姉ぎみがお二人いると言っていたよね。彼女たちには、なんて呼ばれているのかな。よければ俺も、ならいたい」

「姉たちは、……」


 ごく自然に「ラス」というあいしょうを答えようとして、声がのどで止まった。


(王宮に連れてきていただいて、何不自由ない暮らしどころか、こうして王立研究所にせきを得て、魔術をみんなの役に立てる夢を叶えることができて。全部、アレンさまのおかげ……そう、アレンさまにかかった、メーディア大おばあさまの、溺愛の呪いの……)


 呪いがなければ、アレンはラスに目を向けることなどなかったに違いない。

 あの日ラスがアレンを助けたのは、決して彼が「アレン・アスカロス・レヴェナント」だったからではない。ちかってその言葉に噓はなかった。

 あそこにいたのが誰であれ、ラスは必ず守ろうとしただろう。この状況はただのぐうぜんの産物だ。要するに、アレンにとっては、晴天のへきれきもいいところのはず。


(そう。この方が私によくしてくださるのは、……ご自身の意思ではないのに)


 だからこそ、申し訳なくて、気の毒で。

 考えるたび、しんどくて、胸が詰まる。


(これ以上、きょを縮めるべきではない……。研究所でのお仕事も、動植物の凶暴化病解消に目処めどが立ったら、……きっと去るべきなんだわ)


 でも、と思う。


(もしも、そうじゃない可能性が少しでも、あるのなら)


 万が一でも、億に一つでも。たとえば何かのせきで、呪いが彼に効いておらず。

 アレンはじゅんすいにラスの力に興味を持つなり、政治的なおもわくを裏に置くなり、言葉通り「命を救われたお礼」以外の感情を持たずに接してくれているだけで。

 今ここで過ごしているこの距離が、偶然に、成り行きで作られたものだとしたら。

 なぜならアレンはまだ、「好きだ」とか「愛している」とか、ラスに決定的な一言を告げていない。

 呪いを裏付けるその言葉を聞かされない限り、──まだ、あと少しだけ。

 許されていると、かんちがいしてもいいだろうか。


(いいわけがない。……あるわけがない。絶対に。それなのに。私……私は、なんてきょうなの)

「ラケシス嬢……? 気分がすぐれない?」

「……いえ……」


 不意に訪れるどうしようもないいたたまれなさをやり過ごそうと、シクシクと痛む心臓の辺りに手のひらを置き。

 きゅっと唇を嚙むラスを、アレンはいぶかしげに見つめていた。

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