3.近づく距離と戸惑いと③
*****
アレンから
あらかじめ準備しておいたのは、ラベンダーオイルを使ったアロマキャンドル。とはいえ香はあくまで
ベンチに腰掛けたままのアレンの前にかざすように、
「え、と……それじゃ、楽な姿勢をとっていただいて……香りを吸いながら、目を閉じて。それから、お
「うん」
その蒼い瞳が銀色のまつげの下に
『糸よ、糸よ。私に従う運命の糸よ。どうぞこの方の疲れをほぐし、その身を癒し、心を安らがせ、悩みの種を
声に従ってゆらゆらと揺れていた
ラスも瞼を
(紡ぎ取れ、
強く強く念じ、仕上げに、ふっと炎を
「……どうでしょう」
恐る恐るといった風情でアレンに
「すごい」
「え?」
「体が軽い! これが、君の薬糸魔術?」
「は、はいっ。私の一番得意な、疲労や
「アロマキャンドルを使うのは珍しいね。火を使うと、魔力は消えてしまうと思ってた」
感心したように炎の消えたキャンドルを見つめるアレンに、ラスは「はい、普通はその通りです」と頷く。
絶対的に、魔女と魔法は炎に弱い。それが世のことわりだ。
炎属性の魔女だけはこの世に一人も存在せず、そして、魔石を使った魔術でもなんでも、炎による
灯心の糸に魔力を込める薬糸魔術も、本来ならば炎の作用で無効化してしまう。しかし複雑な術式を使い、糸の炭化に
「自分で使えはするのですけど、術式の理論分解が難しくて……。
「十分だよ。
これはすごいと繰り返して、嬉しそうに肩を回したり手を握ったり開いたりしているアレンを見ていると、ラスもまた、だんだん心が
「私の魔法、……お役に、立てました?」
「役に立つどころか大助かりだよ!」
満面の笑みが
(……だってアレンさまがあんまりお綺麗だから!)
ドギマギしつつ彼から視線を逸らし、ラスは躊躇いがちに提案してみる。
「あの、もしよろしければ、……これからも、薬糸魔術でお体を少し楽にしたりする、お手伝いをさせていただけませんか? それから、サシェ用のポプリや香草茶の調合も、結構得意なので、それも……。お毒味でしたら目の前でいたしますので……」
「本当? それは楽しみだな。けど、毒味なんていいよ、君が俺に危害を加える可能性なんてないしね。ところで香草茶って、どんな種類があるのかな」
「ええと、はい。頭がスッキリする調合だとミントが欠かせなくて、眠れない時はカミツレにレモンバームを交ぜて……東方由来の
「へえ! 枇杷って、確かあのオレンジ色のプルーンみたいな実のなる植物だったかな。王宮の果樹園にも輸入品の木が植わってるよ。そのお茶っていうと、……使うのは葉のほう? 果実?」
「
ワタワタとお茶の解説をしているラスの話に、しばらく楽しそうに耳を傾けていたアレンだが、「けど、ラケシス嬢がいてくれたら、俺は数日眠らなくても働けそうだな」と
「ダメです! 薬糸魔術だけでなく癒しの魔術
「なるほど、魚の死体」
アレンが真顔で繰り返すので、ラスははっと我に返った。
「え……あ、すすす、すみませんっ! 私ったらとんだ失礼なたとえ……!」
真っ赤になって
「ううん、わかりやすかった。うん、俺も新鮮な死体にはなりたくないかな。ちゃんと
口元に手を添え、肩を
「ふふ」
ついつい、ラスまでつられて思わず軽く笑ってしまったのは、全くの無意識だ。
けれど。
「あ」
その顔を見て、アレンがポカンとしているものだから。ラスは慌てて表情を引き締めた。
「し、失礼しました……!」
「え? いいや、失礼じゃないよ、失礼どころか──君の笑った顔、初めて見た。すごくいい!」
「えええっ!」
あまつさえよかったらもう一度笑って、と身を乗り出してくるアレンに、「だ、だめです!」とラスはいよいよ頭のてっぺんまでりんごのような赤さに染まった。
(どうしよう、どうしよう。お見苦しいものを見せてしまった!)
彼は優しい方だから、「すごくいい」なんて心にもないことを言ってくれたのだろうけれど。そんなわけがないのに。
もう頭の中がしっちゃかめっちゃかで、ラスは両手をいっぱいに広げて、首をいっぱいに
「わ、わ、私、……すごく、笑うのが下手くそで! 自然に見えるように頑張っても、あまりにひどいから、……街の子ども達からも、『呪われた
「……そうなの?」
必死に言い
(……がっかりさせちゃった……?)
せっかく笑顔を
でも、同じように「笑え」と言われても、きっといつもの「にちゃ」とか「デュへ」の顔になってしまうに決まっている。それは嫌だし、やりたくない。……どうしよう。
「申し訳ございません……」
なんだか泣きたくなってきた。必死に謝りつつ
顔を上げると、そこにはやはり、アレンの綺麗な笑顔があるのだ。
けれど、その表情は少しいつもと違う。少しだけ鼻の頭に
「じゃあ俺は幸運な男だな。さっき見られた君の笑顔は、すごく特別なものだったんだね」
今日はいいことありそうだ、次があるように
──そんなふうにカラッと告げて白い歯を見せるアレンに、ラスはだんだん心が軽く、明るくなっていくのを感じていた。
「……はいっ!」
(私が笑ったから、今日はいいことありそう、だなんて。そんなの初めて言われた!
嬉しい。
そして、彼と話しているうちにどきどきと高鳴る
(私、……この方が、好き)
どこか読めなくて、
王太子としての
(そういう、表面的なところばかりじゃなくて)
例えば、仕事の合間に「ちょっと疲れた」とため息混じりに愚痴を言っていたり。素の一人称が、王太子らしくなく「俺」だったり。楽しいことがあった時に無邪気に笑う目元や、意外と冗談が好きで何かとからかってくるところ。たまに見せる、少し冷たい、無機的な印象の眼差しも。
何を考えているのかわからない人だと思っていた。
今は、わからないことが、逆に素敵なことだと思う。まだ知らない、これから知っていく彼の余白を、楽しみだと。
(でも)
──そんなことを思う資格などないのに。
同時に胸を
「そういえばラケシス嬢。よければ呼び方を変えても構わない?」
ふとアレンが手を打ったので、ラスは首を傾げた。
「ラケシス嬢、といつまでも呼ぶのはなんだかよそよそしいと思って。確か、ご家族は姉ぎみがお二人いると言っていたよね。彼女たちには、なんて呼ばれているのかな。よければ俺も、
「姉たちは、……」
ごく自然に「ラス」という
(王宮に連れてきていただいて、何不自由ない暮らしどころか、こうして王立研究所に
呪いがなければ、アレンはラスに目を向けることなどなかったに違いない。
あの日ラスがアレンを助けたのは、決して彼が「アレン・アスカロス・レヴェナント」だったからではない。
あそこにいたのが誰であれ、ラスは必ず守ろうとしただろう。この状況はただの
(そう。この方が私によくしてくださるのは、……ご自身の意思ではないのに)
だからこそ、申し訳なくて、気の毒で。
考えるたび、しんどくて、胸が詰まる。
(これ以上、
でも、と思う。
(もしも、そうじゃない可能性が少しでも、あるのなら)
万が一でも、億に一つでも。たとえば何かの
アレンは
今ここで過ごしているこの距離が、偶然に、成り行きで作られたものだとしたら。
なぜならアレンはまだ、「好きだ」とか「愛している」とか、ラスに決定的な一言を告げていない。
呪いを裏付けるその言葉を聞かされない限り、──まだ、あと少しだけ。
許されていると、
(いいわけがない。……あるわけがない。絶対に。それなのに。私……私は、なんて
「ラケシス嬢……? 気分がすぐれない?」
「……いえ……」
不意に訪れるどうしようもないいたたまれなさをやり過ごそうと、シクシクと痛む心臓の辺りに手のひらを置き。
きゅっと唇を嚙むラスを、アレンは
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