3.近づく距離と戸惑いと②


*****



 ──というわけで。

 ラスは晴れて、王立魔術研究所の研究職として採用されることとあいなった。


(夢!? これは夢なの!?)


 ちなみに、自宅からの通いではなく、今まで通り王宮暮らしはそのままで、だ。


(あれ?)


 なんでそんなことになったんだっけ。

 気づけば、あれよあれよといううちに、ようけいやくに必要な書類が調ととのえられ。職員の制服である黒いローブと金のふちりがされた黒いドレスを支給され、就職にあたって必要な事前説明を受けてと、次から次に雑事を済ませた後。


「こっちが総務部。業務上何か事務的な疑問点があったらここでかくにんしてね。もちろん直接俺に言ってくれてもいいよ。食堂やこうばいはこれから案内する。ええと、後は魔術に使う薬草園と、じゅう飼育舎、魔石保管庫……その辺は、君が働く研究棟にあるから、まとめて案内しよう。そうそう、一緒に働く同じ研究職の仲間にしょうかいするから簡単に挨拶もよろしくね。といっても、かしこまらず適当でいいよ。みんな適当な人たちだから」

「あ、は、はいぃ!」


 なぜかアレン王子直々に研究所内の案内を受けながら、ラスは目を白黒させたものだ。


(ん? 適当な人たちだから適当でいい……って言った? 今)


 ここにいるのは王国でも名うての魔女や魔導士たちなのだが。立て板に水な説明の中に、いささかの雑さを感じて首を傾げつつ、ラスは彼の後についてろうを急いだ。

 とはいえ、無理をして小走りになどならずに、ごく自然な調子で歩けているのが、よく考えれば不思議ではある。長身のアレンとはたけちがいに加えてあしの長さにかなりの差があるので、はばにも結構な違いがあるはずなのだが。


(私の速さに合わせて下さっている、ってことよね)


 ──そんな気遣いを、ごくごく自然にやってのける。アレンというのは、そういう人なのだ。


「みんな注目!」


 やがて、かべいっぱいのしょせきや、てんきゅうくすりびんなどが所せましと置かれた広い部屋──中央研究室にとうちゃくしたアレンは、パンパンと軽く手をたたく。

 彼自らの声掛けに、忙しく研究にぼっとうしていた魔女や魔導士たちが、いっせいに顔を上げた。


「今日付けで研究職に採用になったラケシス嬢だよ。みんな、よろしくね」

「……よ、よ、よ、……よろしくお願いします……!」


 興味深そうなもの、品定めするようなもの。

 こもごもの色をふくんで一斉に集まった視線を受け、ラスはきんちょうで心臓が口から飛び出しそうになるのをおさえ、慌ててガバリと頭を下げた。せいいっぱい張り上げた声は、全く大したことを言ってなどいないのに、不自然に裏返ってしまう。


(あ、あ、挨拶って、こんなので合ってた? だ、大丈夫かな、大丈夫かな……そもそも私なんかが来て本当によかったの!?)


 黒い髪にむらさきの瞳を見て、モイライだと気づかないわけもないのに、研究者たちは──ごくつうにぱちぱちとせいだいはくしゅもっむかえてくれた。囲む人びとが笑顔であることに、ラスは思わず胸が高鳴る。


「ラケシス嬢は、独自の無害化魔法を使うんだ。先日それで俺も命を助けてもらった……のは、みんなも多分覚えてくれていることと思う。それから、彼女は薬糸魔術もたしなんでいるらしい。後はぜひ、本人から聞いてくれ」


 どうやら研究所は、アレンにとってかなり気を抜いて過ごせる場所のようで、彼のいちにんしょうが王子様然とした「私」から素と思しき「俺」に変わっている。ラスはなんだかしんせんな気持ちでそれを実感した。

 そして、アレンからの紹介が終わった後。待ちかねたようにわらわらと自分のもとに人が集まってきて、ラスは慌てた。


「無害化魔法の話は、所長……アレン殿下から聞いているわ。しかも、凶暴化したを元の形状ではなく、リボンをかけた花束の形にしゅうれんさせたとか……。りょくの無効化なら過去にも出現例があるけれど、全く別の形にへんかんして脅威だけ取り除くなんて、とてもめずらしいわね! どんな術式に分解できるのか、興味があるわ」

「あ、ありがとうございます」

「薬糸魔術も得意だってことだけど。それって確か、薬効のあるアロマランプをいたり、薬をみ込ませた糸をかんに巻き付けて傷や病をいやす術のことだよな。うちには今の所、糸属性の魔術を使う魔女も魔導士もいないんだ。後でくわしく話を聞かせてくれよ」

「は、はいっ」

「その可愛いねこちゃんはあなたの使い魔?」

「えっと、はい! ロロって言います……」


 研究者たちは、おおかたがラスよりも一回り以上も年上ばかりだが、みんな目がきらきらしていて、とても若々しい。何より、だれもが楽しそうだ。


こうれい化とまではいかないけどさ、うちじゃ所長……アレン殿下がダントツでとししたなくらいだから、こんな若い子が入ってくれてうれしいね」

「ほんと。所長は人使いあらいけど、仕事はやりがいあるし待遇もいいよ。一緒に頑張ろう」


 赤毛を後ろで引っめてくるりとお団子にした、三十手前くらいの外見の魔女がしみじみとつぶやき、それに五十すぎの人のさそうな魔導士の男性がじょうだんまじりで同意する。少し遠巻きにその様子を眺めつつ、「人使いが荒いはひどいな」と苦笑するアレンに、周りがどっと笑った。

 あたたかな空気に、ラスの緊張もじわじわと解けていく。かんげいされているのだ、ということは、はだで感じられた。

 ──なんだか、やっていけそうな気がする。


「頑張ります! ……改めて、よろしくお願いします!」


 おもちはかたいままでも声にハリが出て、再び勢いよく頭を下げるラスに、周りは改めて「よろしくね」と頷いてくれた。



*****



 朝は王宮主殿で起きて朝食をいただき、午前中の定刻に研究所に行って研究にいそしみ、夕方にまた主殿の自室に戻る。

 かくして、ラスのそんな新しい生活が始まった。

 王立研究所の高水準な仕事についていけるだろうか、としりみしたものの、ラスも伊達だてに薬糸魔術を使って商売していたわけではない。まどったのは最初だけで、所内の空気がやさしく温かいものだったこともあり、気づけば自然と研究に没頭することができていた。

 そして、研究所に出入りするようになってから、アレンの人となりについても、今まで以上に少しずつ知ることができるようになってきた。

 ──アレンは不思議な人だ。その印象自体は変わらない。

 けれど、彼が所内の魔女や魔導士たちのために、いかに過ごしやすく、心置きなく研究に集中できるかんきょうを作ることにしんしてきたかは、知ることができた。


「魔女へのへんけんなんてとっくに市井じゃほろんで久しいけど、王宮ってちょっととくしゅな場所でね。魔女は出ていけ、みたいな考えかたが、まだまだ根強く残ってるのよねえ」


 きゅうけい時間にお茶をかたむけながら、せんぱい研究者である赤毛の魔女──ルピナという名らしい──は肩をすくめてみせた。


「みんな魔術のおんけいにはあずかりたいし、もちろん世間的に十分きゅうしているんだけど。魔石を使うだけで普通の人間である魔導士はともかく、あたしたちは生まれつきの魔女でしょ? 元々体に魔力を宿しているなんて、何か別種の人外生物みたいなもんじゃない。実際それで、前王朝時代はハインリヒきょうおうとかにはくがいされてきたわけだしさあ。そんなこんなで、不気味だなって差別的な目を向けてくるやつもそれなりにいるわけよ。それなりっても、ごく一部だけどね」


 レヴェナント王国ちゅうすう部における魔女との付き合い方の歴史は、常に一進退の繰り返しだ、とルピナは語った。

 たとえば、あかぼうへの祝福の魔法という手段で以て、魔女の力のおこぼれをもらう習慣は、メーディアのいつでも知られるとおりだ。王室や賛同する勢力がそっせんして魔女の存在を受け入れることで、偏見の強い貴族たちへのけいもう活動として始まったものらしい。


「それじゃ大おばあさまは、当時の王室の気遣いを台無しにしてしまったんですね……」


 先祖のやらかした大ポカの罪の重さを改めて思い知って青ざめるラスに、「馬鹿ね、そんなこと、今となっちゃ言っても仕方のない話じゃないの。それにあんた自身が何かやったわけでもないんだからさ」と笑い飛ばしつつ、ルピナは肩をすくめた。


「っていうか、一進半退だって言ったでしょ。メーディアの一件だけじゃないの。魔女が王国に関わろうとするたび、どういうわけか、が起こって不思議とはじかれてきたのよ。で、いったんり戻し、ジリジリと前に進む。何百年も、それが続いてきたの」


 そういうわけで、魔女がていこうなく暮らせるのは市井、それも偏見の少ない下町や辺境部のみ。王都中心部では、大々的な魔術研究には民間ですら魔導士のみが受け入れられ、魔女はめ出される。そういう時代が、非常に長かった、と。


「偏見を主導してきた最たるものが、設立百年以上の歴史を持つ、国家魔導学院の存在よ」

「……魔導学院、ですか?」


 王都といえど端っこの下町で細々暮らしていたラスには、あまり聞き覚えのないめいしょうだ。


(でも、どこかで聞いたことがあるような。……あっ)


 ──君のことだ。魔導学院のおうえん部隊を控えさせてあるんだろう。

 ふと思い出したのは、あの日、凶暴化した薔薇の花を無害化する前のやりとりだ。


「そういえば、ガイウス閣下にアレンさまがかけた言葉で、そんな名前がありました」


 ぽんと手を打つラスに、ルピナは目をみはり、「あー……なるほど?」と訳知り顔だ。


「えっと……なるほど、なんですか?」

「そりゃまあ。ガイウス・グリム閣下でしょ。アレン所長の側近で従兄いとこの。あの人、グリムこうしゃく家の次期当主だもの」

「?」


 首を傾げるラスの反応をどうとらえたものか、ルピナは得意げに指を振った。


「国家魔導学院ってのは、魔女に門戸を閉ざした、魔導士だけが入れる国立機関よ。今は王立魔術研究所のほうが断然有名だから、ラスにはぴんとこないかもだけどね。王宮内での魔術研究は、そこがずーっとはばかせてたの。そしてその学院を代々ぎゅうってきたのが、他でもないグリム侯爵家、ってわけ!」


 魔力の扱いは、生来それになじんだ魔女のほうが魔導士よりずっとけているので、レヴェナントでの魔術研究は長い間未熟なままだった。「いわば素人しろうとばかりの魔導学院が実権をにぎっている限り、さぐりで何もかもしないといけないんだから、カメの歩みもやむなしよね」とルピナは鼻を鳴らしている。


「だから、先王陛下のからは、我が国の魔術史としても、もうだいやくしんなのよ。魔女ぎらいの貴族たちの反対を押し切って魔女を雇用する王立の魔術研究所が建ったでしょ。ゼラム陛下の代には王宮内に移転して、さらに魔導学院と並び立つまでに育ったでしょ。そしてアレン殿下が所長になられてから、今度はウチが学院を逆に吸収しようとしているの」

「そ、そうなんですか?」

「だって魔導学院のほうは、もう歴史が古いだけで大した成果も出せてないんだもの。魔女よう派の貴族たちから、予算の無駄だからとっととたたんでしまうよう声が出ているらしくてね。学院は、いわば魔女差別のしょうちょうだもん。ま、時代の流れってやつよね」


 一連の経過をたりにしてきたように話すところから、見た目は三十手前のルピナはひょっとすると、予想以上に年上なのかもしれない。魔女であることで諸々の不利益を実害としてこうむってきたのなら、王立魔術研究所の発展は、彼女にはきっとさぞかし胸のすく話だったことだろう。一方で、ラスは少し落ち着かない気持ちにもなる。


「それは……らしいことだけれど。なんだか、流れが急過ぎて。下手するとうらみを買いそうな話……でもありますね」


 おっかなびっくり感想を述べると、「そりゃねえ」とルピナはあっさり顎を引いた。


「なんだけど、そこんとこ今のアレン所長はへいこう感覚っていうの? うまいのよ。あの方がガイウス閣下を側近の一人に起用しているのは、そういう根強く残る対魔女きょうこうなだめ、ゆっくり取り込んでいく意図だもん。ガイウス閣下はガイウス閣下で、そんなアレン所長のことをすごく敬愛しているみたいだけど、それはそれとしてグリム侯爵家一派がしょうあくしてきた魔導学院のとくけんえきを手放すわけがないから、……あのお二人のやりとりってなんか、ハタから聞いてるとじんしん出そうよ」

「じ、じんましん、ですか」

「腹のさぐり合いと言葉の切り結びぶりがねぇ。黒々しててねえ。さすがガイウス閣下も反魔女貴族の筆頭格だけあって一筋縄ではいってないけど、あたしの見立てじゃアレン所長のほうが一枚上手ね。いわくつきのモイライのあんたを雇用して実績出させようとしてるあたりも、ほんと、どこまで意図的にやってんのか。こわいったら。でも、あの人に魔女自体への悪感情が一切ないのは本当。肌で分かるもん」

「そうなんですね……」


 魔術研究所の所長職にいている時点で、アレンに魔女への偏見がないのは分かっていたけれど。そんなややこしい背景があったのかと、ラスは頷いた。


「ま、ここんとこは例の凶暴化病のせいで、ちょっと風向きもいやなほうに変わりつつあるんだけどね。それはそうと、……がっかりした、ラス? 自分がやとわれたことに、何か裏があるかもしれないってこと」


 ふといぶかるようにルピナに問われ、ラスはおどろいて「え?」と首を振る。


「いいえ、ちっとも……。どうしてですか」

(この国で一番、国政の中枢にいる人が、私達のために心をくだいてくれているんだもの)


 そのことを改めて実感して、むしろラスはポカポカと心が温かくなった。


(だったら私も、アレンさまのお役に立てるように全力で応えないと!)


 ついでに一人称の件から察しはついていたが、アレンは立場上、他の政務にも気が抜けず忙しいがゆえに、研究所にいる時には、かなり素を見せるらしい──ということも、じょじょにわかってきたところだ。

 ラスにとって今までのアレンといえば、まさにかんぺきで無欠な貴公子そのものだった。

 どんな時も笑顔を絶やさず、衣装も常にピシッとして、部下への指示も的確。歩く姿にさえ気品とふうを感じさせる。少なくとも、きゅうていで見かける彼は常時そんな感じだ。

 けれど、研究所でのアレンは、時折ルピナたち研究職に「この決裁急いでって言ったじゃないですか!」と荒めにどやされたり、所長机で仕事をしていると見せかけてこっそりほおづえをついたまま船をいでいたり、飼育舎にいる犬型の魔獣を興味本位で撫でようとしてまれかけたりしている。

 そういう場面に出くわすのは決してひんが高いわけではなかったけれど、「気の抜けた」アレンを見かけるたび、ラスは少しだけ、嬉しくなった。


(お疲れなんだわ、アレンさま。……でも、ここでなら安らげるのかしら)


 相変わらず、ネオンブルーアパタイトの瞳は神秘的で。いまいち何を考えているのか読みづらいのも同じだ。

 けれど、「このかたは、どういうつもりなんだろう……」と不安になることは以前より減っていた。


 さらにラスに関しては、王宮主殿にそうろうさせてもらっている都合上、アレンとは、自室に戻るときに、大体帰りが一緒になる。

 もちろん、最初は「ご一緒するなんておそおおくて」とえんりょしていたが、「新人さんがちゃんと働きやすい環境なのかどうか確認する意味もあるから」とアレンに言いくるめられてしまい、なんとなく習慣が続いている。そういうわけで、一緒にいられる時間が長い分、おたがいにだんだん打ち解けていったのも自然な流れだった。

 とはいえ口下手で、しょうが魔術研究バカなラスは、アレンと話す内容も、大体が仕事のことになる。


「ルピナさんの開発した十一型魔術に、ターレンさんの五型魔術、それと私の無害化魔法と薬糸魔術を掛け合わせた形で、凶暴化した植物を元の形に戻すことができそうで……。空気拡散型の魔術なので、どうはんが広くて。動物への効果は未知数で、まだ一度しか実証実験で成功していないんですけど……」

「すごいね、それはかなり画期的だよ。くんこうを使えば、魔法も効率的に広がるし、今までみたいに一ぴきずつ対処する必要はなくなるということだよね。実用化すれば、かなり兵の負担が減るんじゃないかな」

「……はいっ!」


 勤め始めて三週間が経つ頃。

 その日もラスは、研究の成果をいっしょうけんめいアレンに説明していた。

 アレン自身はもちろん魔女どころか魔導士でもないが、所長である以上、ある程度魔術には精通しているのだ。お世辞にも説明が上手とはいえないラスの話す研究内容を、彼はいつも興味深そうに聞いては、質問したり、意見をくれたりする。彼と過ごす休憩や往路帰路の時間が、ラスは好きだった。

 ちなみに、今二人で話している所は、王立魔術研究所内の薬草園だ。ベンチに並んで腰掛け、研究所の食堂から支給された、白パンにとりにくのローストや生野菜をはさんだ昼食をつまみながら、現在きょうにある研究の談義をしている。


「それにしても……」


 ふと言葉を止め、ラスは躊躇ためらいがちにアレンの顔をうかがい見た。

 その造作がまばゆいほど美しいのは初対面時から同じだが、このところ仕事を通してよく話をするだけあり、初めの頃感じていた無駄な緊張は覚えなくなってきたものだ。その分、見えてくることもある。


「あの、もし余計なおせっかいなら申し訳ないのですが……。えっと……アレンさま、かなりお疲れではありませんか? 夜、きちんとおやすみになってます……?」


 不安のままにたずねると、ラスの話を微笑んで聞いていたはずのアレンは、わずかに目を見開いた。


「あ、わかる?」

せんえつながら。目の下に、くまが」


 ちょいちょいとおのれの下まぶたを人差し指で示すラスに、アレンはクスッと軽くき出した。


「バレたか。実は昨日と今日、しゅうしんしたのが明け方なんだ」

「あの、差し出がましいことを申しますが……すいみんは健康のかなめです。魔術である程度ろうは回復できますが……それも限度があります」

「心配かけてごめんね」


 眉尻を下げた後、アレンは少し言いづらそうにこんなことを切り出した。


「このところ、例の動植物の凶暴化のがいが深刻化してきてさ。本来ならたみの安全確保にだけ集中したいところなんだけど。めんどうな政治的あれやこれの対応に、ちょっとね……」

「……そうだったんですか」


 しょうさいについてはにごされたが、それはおそらく、例のガイウスが中心になっている魔導学院のばつとのしょうとつだろう。ラスもルピナはじめ研究所の仲間たちから、自分たちの現状をめぐる苦々しい話をいくも聞いていた。

 ──風向きが嫌なほうに変わりつつある。そう、ルピナが話していた件だ。

 凶暴化病が起きるようになってからこちら、ガイウスは、己の一族が率いる魔導学院所属の魔導士たちを次々と現場にけんして対処させ、「国のためにあせみずくで働いている我々に比して、魔術研究所のなんと情けないことか」とこわだかに批判を繰り返しているらしい。今までは研究所にも学院にもつかずに静観していた中立層の貴族を取り込むためだ。

 もちろん、魔術研究所とて何もしていないわけではない。けれど、凶暴化病のはっしょうはいつどこで起きるか予測がつかないため、どうしても初動が後手に回ってしまう。その点、みょうなほどに、魔導学院が出張るのはじんそくなのだ。


(ガイウス閣下のことは、アレンさまの前であまり話さない方がいいってみなさん言ってたし、れずにおくとして……)


 もんもんとするラスの様子に気付いたのか、アレンは苦笑した。


「ああ、ごめん。っぽくなってしまって」

「! いえ」


 申し訳なさそうに謝るアレンに、ラスは慌てて首を振る。


(そうだ)


 ラスはキュッとひざうえで拳を握った。


ねむる時間もないほど忙しくて当たり前だわ……このかたは王太子さま。お仕事は、魔術研究所の運営だけじゃない。その上で、研究所のことをよく思わない貴族の方々から、私たちのこと守って下さってもいるんだもの)


 ぐるぐると悩んでいたラスだが、意を決して顔を上げた。

 このところ、ぼうきわめるアレンのために何ができるか、考え続けていたのである。


「あの、アレンさま……!」

「何?」

「よろしければ、なんですが! ……私の薬糸魔術、少しアレンさまに使ってもかまいませんか?」

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