十八章2
ユリシスが口をひらく。
「……でも、それは僕が言うことではないと思ったんです。リチェルさんは喜んでしているから」
『やっぱり、そうなんだな。おまえが急に兄の話をし始めたとき、変だと思ったんだ。おれは今現在の困りごとを聞いたのに、おまえはとつぜん過去について語った。でも、あれは現在進行形だった。ヘンルーダの腕前は、じつのところ、みんなが思ってるほどよくない。ショーンだけは長年そばで見ていたので気づいているが、ほかの庭師たちは知らない。温室の花をほんとに育てているのは、おまえとリチェルなんだろう?』
ユリシスは泣き笑いのような、かすかな微笑をくちもとに刻む。
「ええ」
『だよな。じゃないと、果物係のおまえのもとに、三株しかない貴重な花があるわけないんだ。ヘンルーダに強制されたのか?』
「無理強いじゃありません。最初は手伝ってほしいと言われて。そのうち、気づいたんです。ヘンルーダが自分で育てたと自慢している花は、全部、リチェルさんの手によるんだと。でも、しょうがない。僕は兄を……殺した。殺して逃げてきた。兄に似た人につくすのは、罪滅ぼしかなと思ったんです。ただ、ヘンルーダはいつか皇都に帰って、皇室おかかえの庭師になるんだって野望があって……僕はそれがイヤだったんです。だから、期待されるほどの才能はないように見せていました。リチェルさんさえいれば、あの人は満足です。皇都へ行くときは、僕を置いていってくれるように」
『つらくはなかったのか?』
「兄のように暴力はふるわれなかったので。僕は花の世話さえできれば、それでよかったんです。僕だけじゃない。リチェルさんも同じですよ。いえ、リチェルさんは僕よりずっと、ヘンルーダに協力的です。あの人は自分の容姿にコンプレックスがあるから、人前に出たくない。でも、自分の育てた花が世界中で愛されたらいいと思っています。ヘンルーダの名前で品評会に出すのは、むしろ彼の望みなんですよ。リチェルさんにとって、花は自分の分身なんでしょうね」
『あの虹色スワンか?』
「スワンはリチェルさんの魂です。肥料の配合がすごく難しいんだって、嬉しそうに話してました。四年前、初めて花が咲いたとき」
ユリシスは若いのに、人生に疲れきった顔をして嘆息する。
「ねえ、ワレスさん。どうして僕を捕まえなかったんですか? 変死の犯人が人間だとわかったとき、僕を怪しいとは思わなかったんですか?」
『おれは最初から、おまえだけは疑っていなかった』
「なぜです?」
『おまえが自分のために他人を犠牲にできる人間じゃないと知ってるからだ』
「それは違います。僕は……」
『ユリシス。おまえが兄を殺したのは、ジョアナのためだった』
「……知っていたんですか?」
『おまえの兄は結婚したとたんに、ジョアナにも暴力をふるうようになったんだな? ジョアナを兄の暴力から救うために、おまえは自分が悪者になった』
ユリシスは虚脱して、吐息をしぼりだす。
「兄が……彼女との婚約記念にしたいからと言ったんです。あの八重咲きの蘭。僕は二人の結婚がなくなってくれればと思い、大切な花を焼いた。でも、ムダでした。兄は僕の気持ちを知っていたんですね。僕が逆らうと、ジョアナにひどいふるまいをするようになったんです。もう耐えられなくて……」
うつむいたユリシスの双眸から涙がこぼれるのを、ワレスは見た。自分の体よりはるかに大粒の澄んだ玉が、いくつも、いくつも生まれては落ちていく。神秘的なながめだ。
『ユリシス。おまえは自分で思ってるほど罪深くはないんだよ。もう、自分をゆるしてやれ』
ユリシスは首をふる。
ワレスは言った。
『じゃあ、今すぐ、おまえのこの手をにぎりしめてみろ』
「なんですって?」
おどろいて、ユリシスが涙にぬれた目で、ワレスを見つめる。
『できるだろう? おまえが自分で言うほど非道な人間なら、今すぐこの手をにぎりしめて、おれを殺せ』
「そんなことできるわけない! だって、だって……あなたは生きている!」
ユリシスは自らの言葉にひるんだ。
『そうだよ。ユリシス。おまえは充分、命の重みを知っている。おまえが過去に犯した罪をゆるせないというなら、それでもいいさ。でも、一つだけ約束してくれ。これからの人生を死んだまま生きないと。自分を苦しめるためだけに生きているなら、生きているとは言えない。おれは、おまえに笑っていてほしい』
「笑う? 僕が?」
『今でなくてもいいんだ。いつか、きっと』
ユリシスはぼんやりして、ワレスを乗せた手も、力なくテーブルの上におりた。
「僕が笑ってもいいんでしょうか? それは罪ではないですか?」
『兄がおまえを苦しめながら笑っていたのは、罪ではないのか?』
「わかりません。でも……考えてみます。たぶん、答えは見つからないけど。でも、何かが変わる気がする。ほんの少しだけ、何かが……」
ワレスが円卓におりると、ユリシスは立ちあがった。
「もう行ってもいいですか?」
『ああ』
ほんとはもっとたずねたいが、今のユリシスから聞きだすのはムリだろう。
ユリシスが部屋を出ていくとき、ワレスは一言だけ告げた。
『ユリシス。八重咲きの蘭、おれは見たことがない。おまえが見せてくれるか?』
「あなたが、そう言うなら」
ユリシスは気づいているのだろうか? そういう彼のおもてには、笑みが浮かんでいる。
変化は少しずつおとずれるのかもしれない。本人も知らないうちに、ゆっくりと。いつかは前をむいて歩いていける。
(おまえへの救済が、おれ自身の罪滅ぼしなんだろうな)
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