十五章5
*
「遅いわね。小隊長」
第三区画の庭師宿舎前。
エルマのささやきに、クルウはうなずいた。とっくに松明は消しているものの、今日は月が明るい。暗闇になれた目なら、視界には困らなかった。
「何か、あったのかしら?」
見張りちゅうに私語はつつしむべきだ。しかし、エルマが心配になる気持ちはわかる。
何ヶ所かより道する予定ではあるにしても、ワレスたちは遅い。先行したクルウたちがここへ到着してからでも、もう一刻半は経過している。
ワレスの話では、ユーグの小屋を調べるのは念のためだという。そう時間はかからないはずだ。
ミモザに手間どっているのだろうか? それも現場を押さえれば、短くてすむという打ちあわせだったが。
「ミモザはな。レックスヒルの悪魔なんだよ」と、夕刻、ワレスは笑っていた。だからと言って、悪魔の返り討ちにあったわけではあるまい。
心配ではあるが、こちらも二人しかいない。エルマを一人にするわけにはいかないから、ここを離れることもできない。エルマをつれてくるなら、こんなときのためにもう一人、連絡係を入れるべきだったのだ。
(いつもの私なら、小隊長に忠告しただろうに、今夜は
エンハートのことで頭がいっぱいだったからだ。
エンハート。私はやはり、君を愛していたんだろうな。憎みながらも、君の華やかな見せかけの裏に、ときおり見せるあの表情……ワレス小隊長と同じあの表情を見て、心をゆさぶられていた。
君は私に素性を知られないよう、精いっぱい、虚勢をはっていたのか。なぜ、そんなことを……。
なぜも何もない。私の心がすでにファルシスのものだったからだ。あれは私のために仕組まれた悲劇だった。私がファルシスを運河に落とし、エンハートをゆがませた。
今さら悔いてもしかたないが、あのとき、もしと思わないではいられない。
エンハートがともに行こうと言ったとき、彼をつきはなさなければ、いや、ファルシスがあんなヒドイ状態になる前に、エンハートを止めることができていれば。
それとも、もっと早く、エンハートと出会った夜会で、私が彼に心を奪われていたら。もしも、あのとき……。
私はゆるせるのか?
ファルシスを殺したエンハートを? それでは、あまり、ファルシスが哀れだ。
でも、エンハートがあの美貌を涙にぬらして懇願してきたら、今度はもう、つきはなすことはできないだろう。私は彼をゆるす。彼を抱きしめる。きっと……。
そんなふうに思うのは、ワレスの涙を見てしまったせいかもしれない。全身からこみあげる絶望を抑えこむようにして、ふるえながら泣いていた。いつもは、あんなに強いワレスが。
クルウは笑った。
(私はいったい、彼とエンハート。どちらにより強く惹かれているのだろうか? ファルシスを愛したのもほんと。エンハートを愛したのもほんと。では、ワレスを愛したのもほんとか?)
もちろん、ワレスに惹かれたのは、彼の見せる表情がエンハートを思わせたからだ。が、ならば今、エンハートと再会したなら、彼を即刻、切りすてることができるかと言えば、ノーだ。
(私の心の大部分はエンハートのものだ。でも、どこか一部が彼につながれている。この鎖を断つのは手ごわそうだ。あの強がりのいじっぱりが、私の腕で泣いたのだ。可愛くないわけがない)
これは、エンハートにはナイショだなと、クルウは思う。
エンハートを見つけたら、思いきり抱きしめて、キスをする。愛していると百回も言おう。そして、もう一つの秘密の恋は一生、自分一人の胸の奥に隠し、砦を去ろう。そう思っていた。
「変よ。こんなに遅いなんて、何かあったんだわ」
エルマのつぶやきに、クルウは我に返った。物思いで現状を逸脱するなんて、あってはならないことだ。今夜はほんとにどうかしている。
「たしかに、遅すぎる」
エルマをここに残して、一人で見に行こう。彼女には絶対に、茂みから姿を出さないよう厳重に注意して——と、クルウが思案したときだ。
宿舎の扉がゆっくりとひらく。
クルウはわが目を疑った。扉をあけて、あたりを警戒しながら出てきたのは……。
「エンハート!」
叫んだのは、エルマだ。
何があっても監視に徹するようにと、あれほどワレスに言われたのに、やはり、エルマには我慢できなかったらしい。行方不明の兄を見つけたのだから、それもいたしかたないが。彼女がかけだしていくので、クルウもあとを追った。
エンハートはおどろき、出てきたばかりの扉のなかへ逃げ帰る。エルマが、続いてクルウが同じ扉にかけこむまでに、ほんの一分もかかったかどうか。
二段ベッドが三つならんだ暗い部屋。一つの寝台わきに誰かが立っていた。金髪の男。期待をこめて、クルウはその手をつかんだ。
「エンハート」
だが、どういうことだろう? それは、エンハートではなかった。ぼんやりと目をあけて立っていたのは、金髪ではあるものの、クルウの知らない男だ。そばかすのあるおもてが窓からの月光で見わけられる。ロープで手首をベッドにつながれていた。
「違う。エンハートではない……」
ほかの三人の庭師たちも起きだしてきた。合計四人。一人は治療室だから、人数はあっている。エンハートはいなかった。
宿舎には表口のほか、戸口はない。窓はあけはなされていたが、そこから誰かが出ていくところは見なかった。
「なぜだ。エンハートが消えた」
クルウとエルマが困惑して顔を見あわせていると、今度は外から足音がかけてくる。ユージイだ。
「たいへんだ! 小隊長がいない」
消えたのはエンハートばかりではなかった。ワレスもまた、夜の闇に消えた。
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