十四章5


 エンハートが現れる以前、アルメラ宮廷じゅうの貴族に愛されていたファルシス。エンハートが出仕してからも、しばらくは太陽と月として人気を二分していた。


 海外との貿易の盛んなアルメラの気風は、船乗りという男だけで成り立つ職業が英雄的存在であるがゆえに、美しい少年や青年がもてはやされた。長い航海のあいだ、年下の男の子を可愛がる男たちの気質が、アルメラ全土を支配していたと言っていい。権力者たちには、男色の趣味があるなしにかかわらず、美男子の騎士や芸術家、貴公子を、どれだけの質と数でのかが、そのまま権勢を象徴するとまで考えられていた。


 アルメラの最高権力者である大公も、ことのほか美青年をめでていた。若いころ、大公は自ら船に乗っていたので、なおさらだ。


 ファルシスは少年のころ、その美貌を見込まれ、ぜひ小姓にと大公に望まれた。しかし、あのアルメラの風潮のなかで、奇跡的にもファルシスは同性に惹かれないタイプだった。小姓にはなれないが、生涯、剣を捧げますと誓い、貴族の子息に生まれながら、騎士になったのだ。それでも、大公はファルシスを可愛く思ったらしく、その返答に満足した。


 だが、エンハートは宮中にあがり、大公に望まれると、あっさり愛人の座におさまった。大公はエンハートを溺愛したが、手をつけず、キレイなままとってあるファルシスも、天使の像を愛するように変わらず愛した。エンハートには肉欲を、ファルシスには聖性を求めたのだ。

 そういうところが、よけいにエンハートにはだったのかもしれない。エンハートは自分とともに大公や臣下に愛されるファルシスをうとましく思い、一芝居打ったのだ。


 やりくちは、きわめて単純。しかし、嘘の女神から特別に借りてきたかのようなエンハートの舌と、見事な演技力があれば、ほかには何も必要なかった。宮廷じゅうが、おもしろいようにだまされる。あれほどファルシスを愛おしんだ大公でさえ。


 遠乗りのとき、落馬するエンハート。手綱は刃物で切られている。なんのことはない。自分で切ったのだが、その犯人をエンハートはファルシスに押しつける。むろん、名指して責めるわけではない。他人がそう思うように仕向けるのだ。そういうことの、くりかえし。いつも、どんなときでも、エンハートはに笑ってみせる。


「私の思い違いだ。この杯には、毒は入っていなかった……」


 初めは少数から、そのうち公然と、ファルシスは非難される。やってもいない罪のために。


 社交界を敵にまわして、つまはじきにされるのは、貴族にとって恐ろしくみじめでツライ。どの夜会でも立ち入り拒否される。友達だと思っていた人に、あからさまに無視される。ひどい罵声をあびせられることはない。どこまでもまといつく白い目と、ささやき声があるだけだ。見え見えのイジワルと皮肉。冷たい笑い。蔑みの目。


 生まれてからずっと大切にされ、誰からも愛されてきたファルシスには、この仕打ちは耐えられなかった。かわいそうに針のようにやせ細り、すっかり心を病んだ。エラードが最後に会ったとき、ファルシスはだった。聞きとれないほど小さな声で、しきりに何かつぶやくだけの。


 ファルシスは運河に身をなげた。

 そのあとは、エンハートの栄華。

 ファルシスの父侯爵は、愛するわが子の葬式を出すことさえ人目を忍び、悔し涙を流した。


 あのまま順調に行けば、エンハートは父アルジオン伯爵以上の栄光を一身に受けたはずだ。エンハートを寵愛した大公は、大公女の一人をエンハートに嫁がせようとすら考えていたのだから。


 ただ一人、エラードだけはだまされなかった。少年のころからずっと、叶えられぬ恋の相手として、ファルシスを愛し続けていたエラードだけは。


 だから、同じことをした。エンハートがファルシスにしたように、エラードもエンハートを栄光の地位からひきずりおろすために、彼に近づいた。

 エンハートがファルシスにしたより、もっと単純な方法だ。アルメラ大公のエンハートへの執心を利用すればいい。二人の密会の現場を、わざと大公の目にとまるようにすれば……。


 そうして、エラードは身分を奪われ、国を追放された。エンハートは爵位こそ剥奪はくだつされなかったものの、宮廷での特権や官位を没収され、出入りを禁じられた。

 エンハートにとっては何もかも失ったのと同じだ。あの人を魅了するためにだけ生まれてきたかのような青年が、人々の寵愛を失ったのだから。


 エンハートがその後どうなったのか、エラードは知らない。いや、知らなかった。まさか彼が自分を追って、こんな国境の砦まで来ていたとは思いもよらなかった。エラードの知るエンハートは、そんなことをする人物ではない。だが……。



 ——エラード。アルメラを追放されたのだって? 私も……つれていってくれないか? お願いだから。



 エラードが旅立つ前夜、エンハートはそのまぶしい姿を黒衣に隠し、ヘルディード家の裏門をくぐってきた。

 あるいは、それが大公のせいいっぱいの温情だったのかもしれない。



 ——アルメラを出ていけ。その後、二人がどこへ行こうと勝手。そう。たとえ、二人つれだっていようとも。



 そうでなければ、いかにエンハートが必死だったとはいえ、大公の送りこんできた厳重な見張りのついたヘルディード家に入ってこられるわけがない。初めから見逃すように指示されていたのだ。


「私も君と行かせてくれ。決して、君の足手まといにはならない。なんでもするから……どうか……」


 エンハートがエラードに対してひざまずいたのは、あれが最初で最後だった。

 だが、あのとき、エラードは宣言した。復讐の最後の仕上げのつもりで。


「あなたほど醜い人を、私がほんとに愛するとでも思ったのですか? 私はあなたがファルシスにしたことをゆるせなかった。それだけです」


 エンハートは糸の切れた人形だった。あやつる人のいなくなった人形。

 いったい、どんなふうにして彼が帰っていったのか、今となっては思いだせない。


(エンハート……)


 私はずっと、自分でも気づかぬうちに、君の面影を求めていた。ファルシスではなく、君を。


 美しいエンハート。

 不幸せな、ゆがんだ、私の恋人……。

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