十章3
ワレスが嘆息していると、ハシェドがにぎった手をひっくりかえす。
「重いものを持ちましたか? 皮がむけてますよ」
「マニウス小隊長と槍駆けで手合わせしたんだ」
「結果はどうでした?」
「勝った」
「水で乾杯といきますか」
邪心のないハシェドの笑顔に、ワレスは胸をつきさされる。
(おまえが好きだ。まだ行かないでくれ。あと少し)
いつまでとは言えないけれど、あと少し……。
「隊長。ほんとにどうかしましたか? さっきから、変ですよ」
「おまえのそのずぶぬれの頭で、伯爵の部屋へ行っていいものか考えていただけだ」
「これはさっき、ついでに水浴びしたんですが——失礼します」
いきなりハシェドが服をぬいだので、ワレスはすくんだ。まさか昼日中の食堂で、ハシェドが誘ってくるわけもなし、ハシェドは魔法使いではないから他人の心が読めるわけでもない。が、一瞬、さっきのワレスの思考を悟られたのかと、心底ギョッととした。が、ハシェドはぬいだ服で髪をふいただけだ。
(おまえ、ときどき、おれの意表をつくよな。なんでこんなに、おれと行動パターンが違うんだ?)
ハシェドに屈折がないからだろうか。彼だって悲しみを知らないわけではないのに。
ワレスは微笑して、暗い考えをふりはらった。ハシェドの明るさが、いつも救ってくれる。
「服がぬれたぞ」
「こんなのすぐ乾きますよ。水浴びのとき、この服も洗ったんですが、もう乾いてますからね」
「夏もそれだけはありがたいな」
「にしても、さっきからやけに静かだと思えば、エミールがいないんですね。当番じゃないのかな?」
「いつもより来るのが遅くなったからな。休んでいるんだろう。たまにはウルサイのがいないほうがいい」
「まあ、そうですね。ウルサイとか言うと、ちょっとかわいそうですが」
甘い二人だけの時間をすごして、食事を終えたワレスたちは、本丸最上階の伯爵の居室へむかう。
階段前に立つ見張りの兵士は、ワレスを顔パスで通した。案内人はいないが、すでに間取りはおぼえている。だが、ハシェドは初めてなので、見るものすべてがめずらしいようだ。
「砦も来るとこに来ると、ふんいきが違いますね。裏庭もキレイだったけど」
言いつつ、遠くを歩いている女官を見て、ハシェドは口笛を吹いた。
「おい。気をつけろよ」
「すみません。つい」
「おれはいいが、上部のやつらは堅苦しいからな」
やっぱり、女を見るのは楽しいのだ。思わず口笛が出るくらいには。
伯爵の部屋の前まで来ると、ワレスは廊下にひざをつき、なかへ声をかけた。
「伯爵閣下。ならびにガロー男爵。ワレス小隊長であります。入室をおゆるし願えますか?」
扉の内でかすかに返事がある。ワレスがドアをあけると、ガロー男爵が髪もボサボサ、トレードマークの片眼鏡もなしで、山になった書類に署名していた。かたわらでは小姓のラヴィーニが、署名の必要なものと、判だけですむものとに書類を分別している。
「小隊長。よく来てくれた。ランディは見つかったか?」
「全力をあげておりますが、まだ」
「……そうか」
男爵は何やらうめいて、ボサボサの頭をかきまわした。
「やっぱり一人では処理しきれない。早く帰ってきてくれ。ランディ」
これには男爵に同情した。なにしろ、砦じゅうの書類が集まってくるのだ。これに嫌気がさして、伯爵も逃げだした。男爵一人になれば、今までの激務が二倍になって彼にのしかかってくる。
「ご多忙のところ、まことに申しわけないのですが、裏庭の件で報告をかねまして、ご助勢をたまわりたく参上いたしました」
「裏庭のことなら最優先だとも。聞きながら食事にしたい。ラヴィーニ」
「隣室に用意してあります」
ラヴィーニがとなりの部屋へ入っていくあいだに、ワレスは問いただした。
「彼は事情を知っているのですか?」
「私がうたたねしているうちに、ランディの寝室をのぞいてしまったのだ」
「なるほど」
「せめて、ラヴィーニがあと三年も育ってくれれば、半人前ながら第二書記にできるのだが。彼はなかなか利発でね」
椅子にくずれて眉間をもみながら、男爵はチラリとこっちをながめる。
「彼はブラゴール皇子のときの男だな」
ハシェドは以前、打ち首ものの嘘をついて、伯爵たちを
「そのせつは多大なご迷惑をおかけし、まことに申しわけありません。誠心誠意、深謝し、二度と同じ
あわてて平身低頭するハシェドを、男爵はちょっと笑う。
「いや、その件は今後いっさい追及しないと、ワレス小隊長と約束したからな。そなたにも聞かせてやりたかった。小隊長の弁論を。あれはボイクド城史に残る名演説だった。なぁ? 小隊長」
ワレスはカッと頬がほてるのを感じた。どんなふうにしてハシェドの窮地を救ったのか、当人には話していないのだ。
「あのときは我を忘れておりましたゆえ、
「恥じることはない。あれには私もランディも感服した。だからこそ、そなたにはわかるだろう? ランディは私にとって大切な友だ。彼を、救ってほしい」
男爵は机に両肘をのせ、両手のなかに顔をうずめる。泣いているのかもしれない。
「必ず、なんとしても閣下を見つけて参ります」
ラヴィーニが食事の盆を持って帰ってきた。
「報告を。小隊長」
「昨日の変死事件については、アトラー隊長から、すでにお聞きおよびかもしれませんが」と断ってから、簡略に報告した。
死体が見つかったこと。それに対する自分の考え。さきほどマニウス小隊長から聞いた話など。
ガロー男爵は腕組みして聞き入っている。
「そなたの言うことは、いつもながら筋が通っている。人間のしたこと……それに間違いない。しかし、正規兵は二年、あるいは三年で砦を辞めていく。長くいる者はすべて小隊長以上だ。まさか、マニウス小隊長が?」
そこからが、ガロー男爵をたずねた理由だ。ワレスは詳細に述べる。
「正規兵は上下関係が厳しいので、上官に関係を命じられれば、イヤとは言えないかもしれません。が、その可能性はないと考えます。単純なことですが、殺されたタオの友人は言っておりました。タオはひじょうに幸福そうだったと。上官にムリ強いされた関係なら、他人から幸せそうには見えないでしょう。また、マニウス小隊長では何十人もの兵士がこの一年にとっかえひっかえ……いえ、引きも切らず惹きよせられるほどの性的魅力——あ、いや、人間性がそなわっているとは言いがたい。万人がコロリとだまされ……いやその、どうも私は恋に関しては下々の言葉になってしまうようですね。マニウス小隊長では役不足。彼は無関係でしょう」
ワレスの恋愛用語にちょっと面くらいながらも、男爵は感心した。
「ふむ。しかし、それなら、誰が……」
「これはまだ私の第六感にしかすぎませんので、断言はいたしかねますが」
「心あたりがあるのか?」
「あるいは、兵士ではないのではないかと」
そう。ずっと、そのことがひっかかっていた。兵士同士、それも同じ小隊内でとなれば、誰にも相手を気づかれないなんて不可能だ。仕事中に逢引きだというのだから、相手のほうにも見張りをぬけだすために、嘘をついてくれる相棒が必要になる。
「兵士ではなく、裏庭を自由に行き来できる人物。それを調べたくて、ここへ来たのです。見せていただきたい書類があるのですが」
「して、それは?」
ワレスは告げる。
「庭師の調書です」
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