九章

九章1



 翌日。

 ワレスが目をさますと、窓ぎわに椅子をよせ、エルマヴェラがすわっていた。近くに水をはったタルが用意され、寝台から窓に渡した細引きには、いくつも布がさがっている。うっすら朱色に染まり、染め屋の店さきみたいな風情があるものの、要するに大人の女性用のオムツだ。


「女は不便だな。当分、夜警はいいから、部屋にこもっていろ」


 遠慮したのか、クルウとハシェドの姿はない。エルマは頬を赤くしてふりかえった。


「今日は二日めだから、量が多いの。できれば、男の人には見られたくないわ」


 それはそうだろう。かつての愛人たちでも、その日には会ってくれなかった。


「着替えたら出ていく。内鍵をかけ、この部屋の住人以外、誰も入れるな。昨夜のザッツの行動でもわかるように、傭兵連中ときたら、何をするか知れたものではない。あなたを男だと思っていてさえ、あれなんだからな」

「あれはさすがに、ちょっと怖かったわ」


 少しどころか、だいぶ怖かっただろうに、ムリをしている。

 彼女を男だと思っていたときには、つかみどころのない異星人のような気がしたが、女だとわかってしまえば、なんてことはない。ほんの少し気の強い、でも、ごくふつうの若い女だ。一途で情熱的ではあるが。


「本物のエンハートは第一大隊にいたのだな?」


 昨夜は裏庭に行かなければならず、あまり話が聞けなかった。寝汗で、じっとり湿った服をぬぎながら、ワレスはたずねる。エルマの声が小さいのは窓の外をむいているせいだ。ワレスの裸を見ないようにしている。さすがにお姫さまは育ちが違う。


「毎日、入隊者の名簿を調べて、それだけはわかったの。エラードといっしょに、何度か第一大隊に行ってみたけど、誰も兄を知らなかったわ」

「ことに傭兵は入除隊の入れかわりが激しいからな。一年も前に行方不明になったなら、誰もおぼえていないだろう。よほど目をひく者でもなければ」

「あら、兄はとても目立つのよ」


 きわめて心外そうに、エルマヴェラは主張する。


「エンハートはこの世の奇跡。ひとめでも見たら、彼を忘れることなんてできない。あなたもかなりの美青年だけど、隊長さん。でも、エンハートにはかなわなくてよ。エンハートは太陽だもの」


 ワレスはつぶやく。

「ブラザーコンプレックス」

「なんですって?」

「いや、何も」


 エルマはワレスをにらんでから笑った。


「わたしが妹だから、ひいき目をしてるって言うんでしょ? エンハートがわたしの憧れであることは認める。でも、ほんとよ。彼があれほど美しくなければ、不幸ではなかったでしょう」

「エルマヴェラ姫」

「エルマでいいわ」

「では、エルマ。エンハートは不幸だったのか?」


 エルマは窓枠から身をのりだし、子どもみたいに陽光に手をかざす。


「ええ。とても」

「エンハートはどんなやつだったんだ?」

「外見は恐ろしく綺麗だけど、中身はわりと平凡だった。それは学校での成績はよかったわよ。でも、小隊長みたいに特別な才能なんてなかったわ。とても繊細で、良心的で、ほんとにどこにでもいる男の人。わかるかしら? そういう人が権力争いにまきこまれると、どんな不幸におちいるか」

「美貌を利用されるだろうな」


 では、クルウのことはその結果だろうか? だから、クルウはエンハートの名を口にするとき、あんなに憎しみに満ちた目をす?のか?


「エンハートとクルウは権力争いにまきこまれたのか?」


 ところが、エルマは悲しそうなおもてで首をふる。


「あれは、エンハートが生まれて初めて自分の意思でしたことでしょうね。かわいそうな人」


 二人のあいだに何があったのか、ひじょうに気になるのだが、エルマが続けて言う。


「わたし、エンハートを救ってあげたいの。彼の心は病んでいる。彼がゆがんでいくのを、わたしはそばで見ていることしかできなかった」


 どうやら、とても複雑な事情がありそうだ。


「なるべく早く見つかるよう、おれも協力しよう。中隊長に頼めば……ちょっとイヤだが……とりあえず、どの小隊に属していたかくらいはわかるだろう。あれで砦に長いぶん、おれより人脈が広いのは事実だ。しかし……」


 すでに九割がた死んでいると見ていい。言葉をにごしていてもしょうがないので、ワレスはそう告げた。


「だから、あまり期待しないように」

「そうね……」


 エルマの目には涙が浮かんでいた。女の涙に弱くない男はそういないだろう。とくにワレスにとって、エルマの涙は特別だ。エルマが兄妹のようによく似ているから。たった三つで死んだ妹も、成長していれば、こんなふうになっていただろう。美しい花のような姫君に。


「レイディ」


 ワレスは子どものころ、妹にそうしていた呼びかたで声をかけた。胸の奥がしめつけられるように切なく、ほのかにあたたかくなった。


「泣くことはない。おれは他人に見えないものが見えるんだ。エンハートの魂がこの世にあれば、おれが必ず伝えよう。あなたの言葉を」


 エルマは澄んだ青い瞳を指さきでぬぐって微笑む。


「わたし、まだあきらめたわけじゃないわ。エンハートはきっと生きてる。でも、ありがとう。あなたの親切は一生、忘れません」

「あなたに泣かれると、妹に泣かれてるみたいで困る。エンハートが生きているよう、おれも祈ってるよ」

「ほんと。わたしとエンハートより、あなたとわたしのほうが、よっぽど兄妹らしいわ。エンハートとは似ていないのよ。似てるとしたら髪の色くらい。血がつながっていないから、あたりまえなんだけど」


 さらりとエルマが言うので、それがあらためて詰問していい内容なのか、ワレスは迷った。迷っているうちに、エルマのようすがあわただしくなる。


「ヤダ。たくさん出てきた。お願い。外へ行って」


 これは不可抗力だ。ワレスはどうすることもできず、自分の部屋を追いだされた。しょうがないので、さっそく中隊長のところへ出向く。一人で行くのは危険な気もしたが、まあ、なんとかなるだろうという希望的観測のもと、六階の一号室の前に立つ。

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