三章2



 男爵の憔悴しょうすいしたようすは、一晩寝ずに伯爵の帰りを待っていたことを示している。つまり、伯爵はワレスと別れたあと、自分の部屋に戻らなかったのだ。


(エミールの態度に興味をお持ちだったから、食堂の少年と夜を明かしたとも考えられる。それならさわぐこともない。すぐに帰ってくるだろう。が、万一、食堂から五階までのあいだで事件にまきこまれたとなると……)


 もしそうなら一刻も早く救助が必要だ。一秒の遅れが生死を決めることもある。

 ワレスは昨日の食堂での一件を、洗いざらい男爵に打ちあけた。


「——というしだい。閣下はそのとき、すぐにもご帰還なさると約定なされました。しかし、あのとき、やはり私がお供しておりますれば、このようなことにはならなかったのですが」


 ガロー男爵は片眼鏡をはずして、ハンカチでふき始めた。そうすると、男爵も思いのほか若い。たぶん、ワレスと同じ……いや、一つ二つ下だろう。伯爵の口髭に、男爵のモノクル。威厳をとりつくろうための彼らの精一杯の虚勢なのだ。


「ランディが言ったのか。父上が急死なさって、宮廷での特権を失ったのだと? 彼はよほど、そなたを気に入ったのだな」


 嫉妬が感じられたので、ワレスは黙って頭をさげた。

 男爵は丹念に眼鏡のレンズをみがき続ける。


「私は幼いころ、ぜんそくがちで、学校へ入るのが遅れた。自分よりいくつも小さい子にまじっての勉学は恥ずかしくもあり、肩身のせまい思いをした。クラスメイトも一人だけ大きな私に近寄ろうともしなかったしな。でも、ランディは違っていた。わかるだろう? 彼ときたら無邪気で、今でさえ子どもみたいだから。彼にかなうヤツは誰もいなかった。ヤンチャで途方もないことをして、ときどき困らせることもあったが、みんな、彼を好きだった。彼は私を裁判長と呼んだ。クラスのケンカの仲裁役に仕立てたわけだ。おかげで私もいつのまにかクラスになじんでいた。私は勉強での遅れはほとんどなかったので、すぐに上のクラスに移ってしまったが、ランディとはそれ以来のつきあいだ」


 男爵はモノクルをかけなおす。


「小隊長。私は彼の第一の親友と自負している。彼がそなたに家庭の事情を話すとは、正直、おどろいた。私以外には誰にもしたことがなかったのに。しかし、なぜかしら、こうして私自身、思い出を語っている。そなたには秘密を話したくなる要素があるのかもしれないな。そのなんでも見透かせる魔法の鏡のような瞳のせいだろうか」


 さすがに親友どうし、同じことを言う。


「頼む。ランディを見つけてくれ」

「ご命令とあらば」

「命令ではない。これは懇願だ。それでも聞いてくれるか?」

「もちろんであります」


 男爵は笑った。伯爵のいたずらっこのような笑みとは少し違う。おだやかな微笑だ。


「近衛隊には、ひそかに昨日から探させているが、いっこうに手がかりがない。ぐうぜんとはいえ、そなたのおかげで夕刻までの足どりがつかめた。さっそく食堂の少年たちを調べさせよう」


「お待ちください。彼らのあつかいには私のほうがなれております。銀貨の十枚もあれば、ものの数分でわかります」

「ならば、そなたに任せよう」


 ふと、ワレスは思いだした。


「そういえば、閣下は私と別れる前、ほんとは裏庭を見にいくつもりだったと話しておられました。私がやめるよう進言し、聞き入れてくださったはずですが、そちらへまわってみられたのかもしれませんね」


 目に見えて、ガロー男爵の顔色が失われた。


「裏庭だと?」

「そうおっしゃっておいででしたが?」


 男爵は落ちつかなげに、何かを探してキョロキョロする。


「ああ、まったく、あのヤンチャ坊主が。どこまで私を心配させる気だ? なんで、そんなことをしようと考えてくれる。だから、私は反対したんだ。君みたいな世間知らずが危険きわまりない砦の城主なんてできっこないって」

「男爵。落ちついてください」


 ワレスが声をかけると、やっと少し男爵は平静をとりもどす。部屋のすみにある書棚へ走っていく。ひとかかえの書類の綴りを持って帰ってきた。


「見てくれ。小隊長」

「これは?」


 文書には数えきれないほどの人名がならんでいる。ワレスはそれにザッと目を通したあと、男爵を見あげた。ワレスのイヤな予感への最後の仕上げのように、男爵はうなずいた。


「ここ数年、裏庭で起こった変死と行方不明者のリストだ。あそこは今、砦でもっとも危険な場所なのだ」


 ワレスは言葉を失った。

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