二章3
黙っていると、伯爵は続けた。
「知っているか? 小隊長。私が一日に何枚の書類にサインするか。二百枚だぞ。二百枚。ゆっくり食事する時間もないので、片手でパンをかじりながら記すのだ。毎日、毎日、署名書きばかりでイヤになる。それもこれも、わがコーマ伯爵家のため。家族のためだ。父上亡き今、長子の私がしっかりせねば」
「閣下……」
失言だったのか、伯爵は照れくさそうにする。
「すまぬ。ここだけの話と思ってくれ。わがコーマ伯爵は代々、皇帝陛下に仕える廷臣だった。が、まだ私が学生のうちに父上が急死なさったのだ。私が継ぐはずだった官職は別の貴族にとられてしまった。宮廷ではよくあることだ。権勢を失うと、食うにもことかく。ここは一つ、私が功を成し、ふたたび家名を盛りたてねば」
「さようでしたか」
コーマ伯爵は恥ずかしそうに赤くなる。
「おかしいな。これまで、こんな弱音を吐いたことはなかったのだが。そなたの目はすべてを見透かしているようで、つい口がすべった。おかげで、だいぶ気がらくになった」
「閣下なら、いずれ名だたる名君になられます。微力ながら、わたくしも手を貸しましょう」
お愛想だったが、伯爵は心から喜んでいた。
「そなたに言われると、悪い気はしないな。初めは城主の給金がべらぼうによいので受けたのだが、私はなかなか、この城を気に入っている。そなたとも会えたしな」
そう言うと、伯爵はようやく立ちあがる。
「エイディがカンカンだろうな。帰るとするか」
「私もお供いたしましょう」
「それにはおよばぬ。平の兵士が小隊長を従えていては、それこそおかしい。何、ここから五階までだ。案ずることはない」
それにな、と小声になって、
「エイディは怒ると怖いのだぞ。ついてきたら、そなたもとばっちりを食う」
「それは、ごめんこうむりたいですね」
ほがらかな笑顔で、伯爵は去っていった。
ワレスもつられて微笑んでいた。
あれなら、まずまずだ。なかなか可愛いお坊ちゃんではないか。
金で雇われた傭兵とは言え、命を預けてもいいと思える城主を持てるのは嬉しい。
(まったくの苦労知らずではなかったのだな。苦境に負けず、明るくふるまっていたのか)
ちょっと、ハシェドと似ている。自分だって肌の色で心ない差別を受けてきたのに、いつも人に優しく接することのできるハシェド。ワレスがハシェドのもっとも尊敬する部分に、伯爵は似ていた。
ワレスが一人で食事を続けていると、とうのハシェドがやってきた。ワレスの前にすわる。さっきまで、そこにどんな人物がいたかも知らないで。
「ご機嫌ですね。隊長」
「そうか?」
「いいことがあったんですね?」
「まあな。おまえのほうはどうだ?」
「やっと片づきましたよ。シーツも洗って、干して、タンスの裏まで掃除して……ああ、アブセスがいたら、やってくれたのに! だいたい男四人が暮らしていたんですから、男臭くないわけがないじゃないですか。ましてや夏ですよ? どうしろって言うんですかね。自分だって男のくせに」
ワレスは笑いを抑えられない。
「もてあましそうか? 新入りは」
「最初だけです。次からは文句言おうものなら、自分で掃除させますからね。今日は、その、なんていうか、隊長に言われてるような気がして……」
髭も薄い。体毛も目立たない。ユイラ人の男は他国人にくらべて体臭も少ない。半分ブラゴール人の血をひくハシェドは、純粋なユイラ人よりは、たしかにいくらか体臭は濃いだろう。彼の体から香る若い男の香りは、ワレスにとっては欲情をもよおすほど快いのだが、ハシェド自身は気にしているのかもしれない。
「なんなら、あいつを一晩、ホルズたちの部屋に入れてみたら、おもしろいかもな。それこそ豚小屋みたいな部屋で、男の匂いをプンプンさせたヤツらにかこまれて夜をすごしたら、きっと気が狂ってしまうぞ」
「やめてくださいよ。シャレになりません」
「なんだ。かばうのか」
「そうじゃないですけど、獣の檻のなかに羊を送りこむみたいで、良心が痛みます」
「そう言ってるうちは、けっきょく、おまえが掃除することになるんだ」
「ああ……」
頭をかかえているハシェドに、ワレスは胸の内でささやいた。
(優しいんだな。おまえのそんなところが好きだ)
ハシェドは自分が混血だから、ワレスのユイラ人らしい純白の肌に憧れている。雪の肌に金色の髪。優美にととのった顔立ち。もしかしたら、ハシェドにはワレスが世界で一番美しく見えているのだろうか。
ワレスにはそういうハシェドのほうが、はるかにキレイで好ましいと思えるのだが。容姿も、心根も。
「さあ、食ったら水浴びに行くぞ。暗くなる前にスッキリしておこう」
「そうですね。さっきので汗をかいたし」
平穏な日常だった。
こんな日が続けばいいと、いつも思うのだが、その願いは決まって、あっけなくやぶられる。
翌日、事態は急変した。
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