二章2



「あなたは……コーマ伯爵閣下ではありませんか。なぜ、こんなところへ……」


 運よく、まわりの席はまばらだ。誰も彼の正体に気づいていない。


「うむ。私だよ」

「私だよ、ではございません。尊い御身が、かような兵卒のたまり場になど、おいでになられてはいけません。供は? お供はつれておられないのですか?」


 ワレスがオロオロするのが、よほど意外だったのか、伯爵はいっそう楽しそうになる。


「うむ。ない。ときおり、こうして兵士たちを観察しているのだ。生の声やウワサを聞くと、ふだん気づかぬことを知れる。そのように教えてくれたのは、そなただぞ」


 ワレスは頭痛をおぼえた。


「とはいえ、若さま育ちの御身です。供もなくこんなところを歩いておられれば、気の荒い傭兵に難癖つけられないものでもございません。食堂や大勢の目のある場所はまだよろしい。が、薄暗い廊下でケンカになれば、止めに入る者もありません。いかに閣下が剣術にお覚えがあろうと、肉弾戦では貴族の若さまなぞ、ひとたまりもないのですよ」

「そなたはくわしいな」


 伯爵は逆に感心している。ワレスはいよいよ困りはてた。


「こんなこと兵士に知られれば、閣下の信頼にもかかわります。仮にも一国一城のあるじが、軽々しく——」


 あんまりワレスがあわてているので、エミールが首をひねった。


「これ、誰さ」

「バカもの。言うにことかいて『これ』とはなんだ。このおかたはボイクド砦の城主、コーマ伯爵閣下だぞ。おまえも以前、前庭の変死事件のとき、広間にてご拝謁たまわっただろう?」

「ああ、そういえば、えらそうにチョビひげ生やしたのがいたね。髭ないと、たよりないなぁ」


 エミールの暴言に、ワレスは生きた心地がしない。ジゴロをしていたからこそ、身分差というものをよく理解していた。


「ご無礼つかまつりました。なにぶん、この者は下賤げせん育ち。なにとぞ、ご容赦を」

「誰が下賤だよ。おれだって、ほんとは——」

「もういい。おまえはしゃべるな」


 わめくエミールの口を手で押さえる。

 何がおかしかったのか、伯爵はこのようすに、いたく感動している。


「それが、ふだんの小隊長か。その姿を見ただけでも来たかいがある」


 少年みたいにイタズラ好きな伯爵に、ワレスはため息をついた。


「閣下もお人が悪い。知らぬまに城主に観察されていたと知れば、なかには気をそこねる者もありましょう。今のうちにお戻りください」


 すると今度は伯爵のほうが吐息をもらす。


「さきほどのは言いわけ。じつは退屈している。来る日も来る日も書類に追われ、寝るヒマもない。夢のなかまで書類が追ってくる。こう……ときには、パァッと憂さを晴らしたい。いや、私の命はそなたたちの危険の上に成り立っている。こんな戯れ言は安全な場所にいる者の奢りであることは、重々承知しているとも。だから、叱ってくれるなよ」


 以前、伯爵の前で熱弁したワレスの演説は、よほど印象に残っているらしい。ワレスは苦笑した。


「しかし、そのために口髭を落とされるのは、もったいないではありませんか」


 ユイラ人は成長がゆるやかなので、二十歳をすぎても、たいていは髭も生えない。ワレスもしかりだ。

 伯爵の口髭については、だから前々から少し疑問ではあった。その答えは、案外かんたんだったが。


「あれは、つけ髭だ。何しろ私の年だろう? 髭でもつけてごまかさねば、城主の貫禄などあるまい。辺境の砦には猛者が多いと、かねてより聞いていたのでな」


 なるほど。納得だ。


「閣下はおいくつになられるのですか?」

「二十二だ。そなたより、五つは下だろう?」

「学校出たてですね。ムチャもしたくなる年だ。さあ、騒動にならぬうちにお戻りください」


 伯爵はすねた顔つきになった。


「そなたもエイディと同じだな。私がハメをはずすのは、そんなに悪いことか?」

「御身を案じているのです」


 ふう、と伯爵は頬杖をつく。

 よこから、エミールが口を出した。


「じゃあ、ほんとに伯爵なの? 退屈ならさ。おれが遊んであげるよ」


 目が魔物みたいに光っている。ろくなことを考えてないに決まっている。どうせ、お金の算段だ。


「閣下。エミールはたちの悪い病にかかっておりますれば、相手になさいませぬよう」

「おれ、病気なんか持ってないよ!」

「おまえの性格はそれだけで病気だ。閣下から、どうやって金をまきあげようかと考えていたくせに」

「うっ……ち、違うもん。なんだよ。バカ。知らない」


 エミールはむくれて行ってしまった。


「やっと静かになった」


 ワレスは頭をかかえたものの、伯爵は嬉しそうだ。

 二十歳をすぎているのだから、花宿で女を買ったことくらいあるだろう。しかし、それは貴族を専門に相手をする高級娼婦だ。荒くれ者の船乗りを客にしている場末の売女みたいなエミールは、かえって新鮮なのかもしれない。


「閣下。とにかく、このようなことを続けておられれば、いずれ痛いめにあいますよ」

「わかった。わかった。もう帰る。ほんとはこのあと、裏庭を見てからと思っていたのだが」

「裏庭と言いますと、温室があるという」

「うむ。温室もあれば、花も植えられている。私の食事のために、果実や野菜が作られているが……多少、生煮えだろうと、塩辛かろうと、あたたかい料理を大勢で食するほうがいい」


 伯爵のよこがおはさみしげだ。

 まあ、そうだろうなと、ワレスは思う。

 本丸最上階の伯爵の居室は、守りがかたいぶん、許可なくしてはやすやすと入れない。五階全体が閑散としていた。一万人以上が暮らす城だとは思えないほど静かだった。ときには世界じゅうから一人とり残されているような気持ちになるのかもしれない。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る