第5話 悲愴――あるいは、
私は、今、なんとなく愉快な気分にあることを知らせたい。それは、私の仕事によって生まれたものだ。私が秋に交響曲を書き、その一部を破棄したことを君も知ってるだろう。……旅行中に別の交響曲の構想が浮かんだ。今度は標題音楽だ。その標題は、すべての人にとって謎となるような標題をもったものだ。
*
「音楽室にようこそ、後輩くん♪」
「……おじゃまします」
「それに琴音ちゃんも♪」
天音は、ふたりをピアノの前に案内する。
「じつはね、今度の文化祭で歌うから、その練習をしてるんだけど――」
彼女はポンポンと人差し指でピアノの鍵盤をたたいていた。
「――ちょうどいいのがあったの!」
そして、手にもっていたノートを見せる。
「って、あ!」
琴音がびっくりして声を上げる。
「か、返してよ、お姉ちゃん!」
「よいではないか、よいではないか~」
琴音はノートを取り戻そうと、かわいくぴょこぴょこと跳ねていたが、姉のほうが背が高いので届かない。
その姉妹のようすを見ていると微笑ましくなる。きっと、本当に仲がいいんだろうな。
「……で、そのノートが関係あるんですか? 文化祭に」
「それがおおいにあるのですよ。――ほら見て!」
「――見ないで!」
天音がノートを開くと、そこには五線譜の海がひろがり、音符が夜空の星のように
「これは……スコアですね」
「うん。とってもいい曲なんだから」
天音はピアノで
それは、軽快だけどあたたかくて、もの悲しくてかつこの上なく明るい感じもする、それでいて神秘的でロマンチックだ。
クラリネットで演奏するなら、きっとすごくいい音色が響くだろう。
いっぽう琴音は、恥ずかしそうにうつむいていた。
「ほんとに、これを、みんなの前で流すの?」
「もちろん。もう歌詞も付けちゃったし」
姉が答える。そして、続けて言った。
「けど、これは一人で歌うより二人がいいと思うの。――だからね、琴音、いっしょに歌お!」
妹はその提案に驚く。彼女はそのまま、こちらに眼差しをむける。
「……先輩……」
琴音にとっては、荒唐無稽かもしれない。けどー-
「俺はいいと思うよ」
だって結局、初めて会ったあの時、彼女の声にも魅了されたんだから。
「君の歌が聞きたい」
なんとキザなセリフであろうか。
こんなことは人生で言ったことがない。
「すっごい、キザなセリフだね~」
姉がニヤニヤしながらからかう。
こっちもわかってるんだから、言わないでほしかったよ……。
*
ふたりの女の子が歌っている。
歌に真剣に生きる彼女、音楽に真剣に生きる彼女。
ふたりの歌姫が奏でる旋律に、自分が、音楽室が、そして世界が満たされていく。
*
秋の全国大会予選にむけた練習も佳境となり、激しいというより調整に入ってゆく。
全体練習が軽めにおえるなか、俺は下校時間ぎりぎりまで残って、自主練をする。
――彼女たちが頑張っているんだ。俺だって何かに打ちこみたい。
「おーい、杉藤」
「あっ、おつかれさまっす」
「部室のカギたのんだぞ」
「うっす」
「……一生懸命なのはいいけど、あんま根詰めんなよ。お前は最後の秋じゃないんだから」
「はい、ありがとうがざいます」
ひとり、ボールを蹴りこむ。いつの間にか、校庭全体が暗くなっている。ずいぶんと日が落ちるのが早くなったもんだ。
学校に響いていた吹奏楽部の音も聞こえなくなっていた。
――そろそろ、帰ろう。
トンボをもち、グランド整備に入る。
整備がおわり、ボールを集め、部室に戻ろうとすると、ひとり校庭のはたでこちらを見つめている子がいた。
暗くてよくわからないが、その子はこちらに近づいてくる。
それは琴音であった。
「どうしたの?」
「……先輩は、どうしてこんなにがんばっているんですか?」
「なんでって、そりゃ君たちを見てだよ」
「私たち?」
「うん、文化祭にむけてがんばってるじゃないか?」
琴音は、まるで、低音のクラリネットの音のような悲しげな声で言った。
「……それは姉のおかげです。いつも、姉が私の先にいるんです」
「そんなことないよ」
「……そうですか?」
「うん。けど、たしかに俺も、君に出会う前に音楽室から聞こえる歌声を聴きに
――しまった。これは他言無用の自分だけが知っている秘密だった。完全に悪手だ。
「バカーーーーーー」
彼女は最後に残っていたボールをゴールにむかってシュートする。
可憐な容姿に似合わず豪快な蹴りから放たれたボールは、見事にゴールの白いネットをゆらした。
「バカ…………」
琴音は帰っていった。
最後の声は、まさに、バスクラリネットの
*
家に帰り、そぞろに親の書斎から『チャイコフスキー交響曲第六番“悲愴”』のスコアを手に取る。そして、解説にのってある、彼が甥のダビドフへ送った手紙の一節を読む。
私は、今、なんとなく愉快な気分にあることを知らせたい。それは、私の仕事によって生まれたものだ。私が秋に交響曲を書き、その一部を破棄したことを君も知ってるだろう。……旅行中に別の交響曲の構想が浮かんだ。今度は標題音楽だ。その標題は、すべての人にとって謎となるような標題をもったものだ。
――チャイコフスキーさん。やっぱり、あなたのいうとおり、青春は、人生は謎だよ。
――――――――――――
引用 チャイコフスキー 交響曲第六番〔悲愴〕解説 園部四郎 全音楽譜出版社
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