第2話 その琴の音は――


 ――あれ、今日は何も聞こえないなぁ。


 音楽室の前で立ち尽くす。

 いつもと同じ時間にやって来たはずなんだけどな……。


 ――まあそんな日もあるか……。



「どうされました?」



 凛とした声がした。

 

 振り返る。

 そこには、ひとりの女の子がいた。


 俺はとっさに答えようとする。


「えっと……いや、とくに……」


 完全に挙動不審である。


「? とりあえず音楽室、開けますよ」


 静かな廊下に、彼女の声が響きわたる。


 聞かなくてもわかる。きっと、彼女があの歌声のぬしだ。


 制服のリボンを見る。

 青色だ。

 ということは、ひとつ下の1年生だ。

 ――意外だ。大人びていて、凛とした声ゆえに、年上か、すくなくとも同学年だと思っていた。


 彼女はドアの前に立ち、カギを取り出した。


 このままではいけないと、てきとうに思いついた言い訳をする。


「そうだ、忘れ物を取りに来たんだ……!」


「……なら、おなじですね」


 彼女はそう言って、やわらかく微笑んだ。

 今までの大人びた表情からは想像できないギャップがあって、その微笑みはとても魅力的であった。


 彼女はすぐに表情を戻すとカギを開け、瑞々みずみずしいロングの黒髪をたなびかせて音楽室に入っていった。


     *


「――見つかりましたか?」


 彼女は自分の用事をおえるとたずねてきた。手にはノートをもっている。


「……いや、ないなぁ」


 まぁ、なくて当たり前だが……。


「忘れ物をしたのは、いつ頃のことですか?」

「昨日の授業のときかなぁ」


 昨日、授業があったのは本当だ。


「では、準備室をあたってみては? 持ち主のわからないものは、そこで保管されるので」

「くわしいね」

「吹奏楽部ですから」


 そう言って、準備室のドアを開けてくれた。


 中へ入って、存在しない忘れ物を探す。


 棚に並ぶ、いくつもの管楽器のケースを眺めながら思う。

 ――どうしようか、もう無かったってことにするか……。


 となりにいる、ひとつ年下の女の子を見る。彼女は箱を取り出そうとしていた。おそらく、それが忘れ物BOXであろう。


 ――いや、あやまろう。自分のつまらない嘘に、ここまで親身になってくれたんだ。ばつが悪い。


 と、棚のなかで、ひとつのケースを見つけた。

 そぞろに手を伸ばし、取り出す。

 このケースは知っている。けど、ここでは、すこし場違いだ。


「それが忘れ物ですか?」


 彼女は不思議そうにたずねる。


「いや――」


 俺は、いちど、言葉を飲みこんでから再び答える。


「……そうだ」

「それ、バイオリンですよ」

「うん、バイオリンだ」


 そう言って、ケースを開ける。

 木とニスと松脂のかおりが、ほのかにただよう。

 バイオリンは明るい色をしており、弦や弓の毛を見るかぎり、手入れも行届ゆきとどいていそうだ。


「バイオリンを探しにきたって、誰にも言わないでくれ」


 それを聞いて、彼女は、すこしばかり考えてから答える。


「……わかりました。これは、私だけの秘密にします」

「たすかるよ」


 俺はケースを閉じようとする。が、彼女はそれをとめて、ケースからバイオリンを取り出して言った。


「だから、弾いてみてください」

「え、今?」

「はい。いちど、そばで聞いてみたかったんです。バイオリンのが、どのような響きをもつのか」

「…………わかったよ」


 俺はバイオリンを受け取り、肩当を取りつける。

 そして、弓をもち、弓の毛によく松脂をこすりつけ、のせる。松脂は、透き通っていて美しい、――フランス製の“ベルナルデル”だ。



 すべての準備をおえると彼女に聞いた。


「チューナーはある?」


「これでいいですか?」


 彼女はピアノの前に立って言った。


「うん、じゃあ、まずA(ラ)を――」

「はい」


 バイオリンのピアノのが音楽室で響きわたる。まるで、ふたりをやさしく包み込むかのように。


 Aの音を合わせると、つづいて重音をつかいながら調弦していく。


「すばらしいです」


 奏でられた和音ハーモニーに、彼女は子供のように感動していた。


 その反応を見て思う。

 ――なつかしいなぁ。自分も初めて聞いたときは同じようだった。


「満足した?」

「……あの……もしよければ、一曲おねがいできますか」

「…………」

「――お好きなものでいいので」

「……数フレーズでいいなら」

「はい!」


 何を弾こうか 考える。

 自然と、校内放送で流れていた曲が頭に浮かんだ。

 それなら俺も、おおよそ暗譜している。


 バイオリンをかまえ、左手の指先で弦をおさえて音をつかむ。

 そして右手の弓が動き、音を奏ではじめる。


 ミスをしないように丁寧に、けどできるだけ弓をいっぱいにつかってダイナミックに美しく。



 一分ほどで弾きおえる。それは、永遠のようであり、一瞬でもあった。


 彼女を見る。黒髪ロングの彼女は口をむすび、沈黙していた。


「ごめん、知らない曲だった?」

「……いえ、もちろん知っていますよ」


 彼女は重たそうに口を開いて言った。


「――チャイコフスキー交響曲第六番“悲愴”」

「そうだね」

「先輩も好きなのですか?」

「うん……君は?」

「…………どうでしょう」


 彼女は困ったように微笑んだ。


 バイオリンをケースにかたづけていると、彼女が聞いた。


「もって帰りますか?」

「……いや、これは俺のじゃなかった」

「弾いてみてわかった感じですか?」

「そんなたいした者じゃないよ、俺は……。それに、今はもう、バイオリンは習ってないし……」

「……では結局、このバイオリンは謎のままですね」


 俺と彼女は音楽室を出る。

 彼女がカギを閉めると、なんとなく別れの雰囲気がただよった。


 このまま、彼女との関係も永遠に終わってしまいそうだった。

 だから、大胆にも俺は一歩踏み出す。


杉藤すぎとうだ」

「えっと……どうされました?」

 小恥ずかしいが、この際、気にしてはいられない。

杉藤凪なぎさ……自己紹介だよ」


 彼女は虚を突かれたのか、すこしばかり目をぱちくりさせていた。が、こたえてくれた。


「――高島琴音ことねです」

「えっ?」

「……もう……自己紹介ですよ」

「そ、そうか……ははっ」


 俺は、おのずと笑っていた。


 高島琴音ことねを見る。

 彼女も笑っていた。


 ――そっとやさしく愛らしく。

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