第2章 寝顔

「はっ、はっ……!」


 階段を駆け上がり、生徒会室のある四階に到着した頃には、心臓がバクバクして、全身にうっすらと汗をかいていた。

 時刻は、もう六時近い。

 生徒会室の部屋の前で息を整え、


「失礼しますっ」


 生徒会室に入った瞬間、俺は口をつぐんだ。

 西日の差し込んだ生徒会――そこには先輩しかいなかった。

 先輩はテーブルに突っ伏して、すぅすぅと小さな寝息をたてている。

 電源のついたままのノートパソコンとスマホを見る限り、作業中にウトウトしてそのまま……ということなのだろう。


 先輩、寝顔まで綺麗なんだ……。

 一切、隙を見せない先輩だけど、その寝顔は無防備で、少し幼げにさえ思えた。

 先輩は他の役員以上にたくさんの仕事を複数こなしてるから、やっぱり疲れが溜まってしまったのだろう。

 今の季節だから風邪を引く心配もないし、他の役員がいないところを見ると、生徒会の仕事そのものは終わってしまったのだろう。

 起こさないよう部屋を出ようとしたその時、スマホがメッセージの着信を伝えてくる。

 スマホを取り出してメッセージをチェックし、何げなく顔を上げた――瞬間。


「…………っ」


 先輩と目が合った。

 刺すような鋭く、ひんやりした視線に、俺は何かを言わねばならないと考えて、


「……お、おはようござい、ます……」


 ようやくしぼ出したのがそれだった。


「おはよう、吉井君。それじゃあ、スマホを貸しなさい」

「え……」

「貸しなさい」

「どうして、でしょうか?」

「私の寝顔を撮影したんでしょう」

「誤解です……!」

「誤解であるのなら、余計に見せられるんじゃない? 見せられないということは、怪しすぎるわ。第一、吉井君。あなた、家の用事で今日は欠席するはずじゃないの? どうしてここにいるの? 家の用事というのは嘘だったの?」

「嘘じゃありませんっ。ただ予想したよりもずっと早く終わったものですから……生徒会の仕事ができるかもと思ったので、急いで戻ってきました」

「戻って来て偶然、私が眠っていたから撮影を……」

「本当にしてないんです!」

「なら、それを証明して」


 もう観念するしかない……。


「……ど、どうぞ」

「ありがとう」


 画面を見た瞬間、先輩の顔色が少し変わった。驚いたように目をかすかに瞠った。


「……この写真は何?」


 当然の質問を投げかけてくる。先輩が見せたスマホのホーム画面に映っていたのは誰だろう、先輩その人。

 桜の花びら舞い散る中、先輩が桜の古木を見上げているという構図。


「これは明らかに盗撮よね。やっぱりあなた、わざと私を押し倒して――」

「違うんです、先輩。あの、説明をさせてください……っ」

「いいわ。納得するかはおいておいて話は聞きましょう。ただし少しでも誤魔化しや嘘があると判断した場合には、以前の録音データを学校側に報告させてもらうからそのつもりで」

「……それは、俺が入学して間もなく撮ったものです。少し早めに登校して、学校の中を見て回っていたんですけど、迷ってしまいまして……。ウロウロしている時に、先輩を見たんです。最初は道を聞こうと思ったんですけど……」

「ですけど? どうしたの。続けて」

「あ、あんまりに綺麗だったので、思わず撮影してしまいました。後で先輩が生徒会長だと知って、すごくびっくりしました。それから、先輩のあだ名のことも」

「あの下らない呼び名ね。確か……氷の女帝、だったかしら」

「はい。でもその画面の中の先輩、すごく自然に微笑んでいて……だから、先輩が氷の女帝と呼ばれているのを知って、びっくりしたんです」

「理解はしたわ。けれど盗撮は感心しないわ。以後、気を付けなさい」


 先輩は俺にスマホを返してきた。


「この写真データ、消した方がいい……ですよね?」

「その必要はないわ。事情は理解したもの。ただ私としては自分が了解していない写真を拡散されるのは好まないから、人には見せないように」

「この写真は誰にも見せたことはありませんっ。俺の宝物ですから!」

「盗撮したものを宝物と言われても喜べないわね」

「……ですよね。失礼しました」

「でも折角だから、この写真のデータ、もらえない?」

「はい!」

「じゃあ、IDを交換しましょう」


 ひょんなことで、先輩の個人的なメッセージIDを知ることになった。

 先輩の寝顔まで見られて今日はなんていい一日なんだ! 戻って来て良かった!


「あなたね、今、よからぬことを考えたでしょう。だらしのない笑顔で一発で分かったわ。――せっかく戻ってきたんだから、ついでに仕事をやってもらうわね」


 先輩は過去の生徒会の議事録の束を俺の前に積み上げた。


「電子化作業をよろしくね」

「は、はい……」

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