第八話

 翌日。

「おはようございます」

「おはよう。あんた、朝からよくやるわね、何時起きよ」

 フラトが食堂に這入り、昨日と同じ席に着いてお茶を飲んでいたクビキに挨拶をすると、クビキに目を細められ、訝しそうにそんなことを言われた。

「あら、見てましたか?」

「たまたまね。起きてカーテン開けて、窓から裏庭を見たら、ね」

「僕が起きたのは…………五時前くらいでしたね」

 裏庭に出る際、食堂の前を通ったときにちらりと確認した時間がそれくらいだったのを覚えている。今が六時少し前なので一時間近く裏庭にいたことになる。

「これまでの習慣が身体に馴染んでいるみたいでして、起きちゃうんですよね」

「ふうん。それで毎日あんな朝稽古みたいなことを?」

「まあ、日課のようなものです」

 元は、師匠と山で暮らし始めた折、鍛錬も始めたてでにっちもさっちもわからないのに、それでも師匠にぼこぼこにされるものだから、兎に角何かしなければと――前日に覚えたこと、気付いたことなどを含め、師匠の動きを真似するための早朝自主練のようなものが発端となっている。

 師匠にバレるのが恥ずかしくて、しかしそれ以上に動きを盗み見ているのが後ろめたくて一人の時間――早朝にやっていた。

 今となっては、その日身体を動かす準備体操みたいな役割だが、長年の習慣になってしまっているのでやらないと気持ち悪いどころか、錯覚ではあるのだろうが身体に不調を感じるのだから、最早強迫観念とも言えるかもしれない。

 軽く身体を伸ばし、関節を動かして、深呼吸。体内に大気を取り入れ、巡らせ、整える。そのまま呼吸を意識しながら、身体を動かす。

 身体に馴染んだ動きをなぞるように、丁寧に、力の流れる動きを意識して、淀みなく伝え、滑らかに。

 そんなことを毎朝数十分やっているのである。

「それで朝もシャワーを貸してほしいって言ってたのね」

「まあ…………そういうことです」

「ふうん。ま、時間通りに来てくれたしそんなことはいいのよ」

 そう言って一気にお茶を飲み干したクビキが立ち上がり、厨房の方へ足を向けながら言う。

「そんじゃ、朝食の準備、手伝ってもらえる?」

「はい」



 それからは厨房に場所を移し、クビキの指示に従い、淡々と作業をこなしていく時間だった。

 そつなくこなせたのは、師匠との暮らしで食事を作っていたおかげだろう。

 あまり戸惑うことなく、言われた通りに上手くできたんじゃないかと思う。

 肉を焼いて御馳走してくれたり、シャワーを貸しもらったり、何より寝床を貸してくれて布団まで用意してくれたことに報いる手伝いを、少しは出来たんじゃないかとフラト自身は割と満足していたのだが、

「ちょっとあんた、何でそんな手慣れてるのよ。私が工程、置いてかれてるじゃないのよ。刻むわよ」

 理不尽に詰られた。

 朝食の準備が滞りなく終わった後も――

「ほら行くわよ荷物持ち。折角の手の空いた男手なんだから、今の内に保存が利くもの優先して沢山買い込んでおくわよ」

 買い出しに連れ出され、

「くっそー、何か、平気でいつもの二倍以上の荷物を持たれると、こう…………もっと持たせてしんどそうな表情させたくなるわね」

 またしても理不尽に詰られた。

「お昼ご飯の準備は料理を覚える目的もあって子供達が主体になってやるから、ぱっぱっぱっぱっ勝手に進めちゃ駄目よ。いい? 細かいカバーに徹しなさい。わかってる?」

 それからも何故か邪険に扱われ、それが終われば、

「畑の方は雑用が必要なタイミングじゃないし、正直あそこ私達の生命線みたいなとこだから、手は出さなくていいわ」

 しっしっ、と遠くに行けとでもばかりに手を振られ、

「次は夕食前にお風呂の掃除があるから、夕方またここ戻って来てくれればいいわ。それまで自由時間よ。じゃ、またね」

 どうやら皿洗いも子供達がそれぞれ自分でやっているらしく、必要ないとのことで、食堂を追い出されたのだった。

 まあ本気で邪険にされているというよりは、最初の料理の段階でちょっと気に障ったというか、不機嫌にさせてしまったのがずっと後を引いているような感じだったので別に不快にはならなかったが。

 寧ろ、殺傷能力の高いものを投げつけられなかったので、そこまで、見た目ほど実際は不機嫌じゃないのだろうな、くらいにすら思っていた。

 大分フラトの中でクビキ・カイガイという女性の人物像が固まりつつあるが、もしも彼女がそれを知ったら今度こそぶち切れて殺しにくるかもしれない。

 まあ――ともあれ。

 何にしろ自由な時間が出来たのは嬉しかったので満喫することにしたフラトは、追い出されてすぐにクビキの下へ戻って、洗濯をしてもいいか相談したところ、

「洗剤とか道具一式は脱衣場に置いてあるわよ。勝手に使っていいけど、洗濯機は子供達の分と住み込みの職員の分で溢れてるから、やりたいなら手洗いになるわよ」

「構いません」

「じゃあ、裏庭の畑脇に水道があるからそこでやりなさい」

「ありがとうございます」

 お礼を言って今度こそ食堂を後にするフラト。先程追い出したときの不機嫌さのようなものはすっかり鳴りを潜め、さっぱりそのときの記憶が抜け落ちたかのような態度に、別人にでも話し掛けているのかと思ったが、結局彼女にとってもなんとなくノリだったのだろう。

 フラトは早速部屋に戻り、服やらタオルやらを持ち出して、脱衣所で道具一式を取り、裏庭へ。

 だだっ広い畑もあり、その隣には子供達が遊ぶ為の広場も確保されている広大な裏庭でフラトは畑脇の水道に真っ直ぐ近付き、大きな桶に水を張って洗剤を入れ、その中に洗濯物をぶち込んでじゃぶじゃぶと洗った。

 全ての洗濯を終えた後は、隅に生えている二本の大木の間に、持ってきていたロープを結んで渡し、そこに洗ったものを引っ掛けて並べた。

「んー」

 洗濯の為にしゃがみ込んで凝った腰を伸ばす。

 温かな日差しに、ふと、軽い睡魔に襲われた。

「さて、あと二時間、三時間くらいか…………」

 考えてみればここまで数日間ずっと歩き詰めで、昨夜は建物内の、それも布団の上でぐっすり眠れたが、それで綺麗さっぱり拭えるほど浅い疲労ではなかったらしく、まだ身体に気怠さが残っている。

 だからこそ、この日差しの温かさに誘われるようにこのままここで昼寝なんてしてしまえたら幸せだろうなと思ったが、その前に昨日からちょっと気になっていることがあった。

 ということで――。

 甘い昼寝への誘いをはねのけながら、フラトは洗濯に使った道具をまとめ、抱えて元の場所――脱衣所に戻してから、自分が借りている部屋の前を通り過ぎ、突き当りを右に折れて数歩の場所で立ち止まった。

 目の前にはわかりやすく『本』の絵柄が彫られた扉。

 図書室――と昨日クビキが説明してくれた場所である。

「…………」

 ゆっくりと、静かに扉を開けて中に這入ると、常駐している人もいないらしく、他に人の気配は感じられなかった。

 部屋自体は広いが、その三分の二程度は自習用の空間として使われているのか、個人で使う机が複数に、長机が一つ。そしてそれぞれに対応した椅子が並べられていた。

 フラトはその空間を真っ直ぐに横切って残りの三分の一の空間――本棚が並べられた場所へと向かった。

「種類ごとにちゃんと分けられてる」

 本棚の端から視線を動かして次々にタイトルを目で追っていくと、最初は読み書きの本、そして簡単な計算の本、歴史の本、などが目に付いた。

 別の棚には絵本や小説も置かれており、中にはフラトが師匠の家で読んだ小説と同じタイトルもいくつか見つけ少し驚いたが、しかしよくよく思い返してみれば、山にいるだけでは絶対に手に入らないだろう品々が、師匠の家にはあったし、入浴剤にしろ、石鹸にしろ、洗濯用洗剤にしろ、フラトもごくごく当たり前にその恩恵にあずかっていたのだ。

 小さな頃から当たり前にあり過ぎて微塵も疑わなかった――あるいは疑わないよう仕向けられていたのかは知らないが、兎も角、本などの娯楽品も含め、フラトの知らないところで師匠はこっそりと買い出しに出ていたのだろう。

「…………」

 更に本棚を移って、タイトルに目を通していく。

 実際、本棚そのものにどういった内容の本が収納されているのか大きく見出しが貼り付けてあるのだが、本棚もそこまで大きくないし、数があるわけでもない。暇潰しと好奇心を満たしつつ、尚且つ見逃しのないようにフラトは収納されている本そのものを端から端まで丁寧に視線でなぞっていく。

 三つ目、四つ目の棚と一つも漏らさずタイトルを読んでいき、とうとう最後の本棚へ。

「…………これか」

 目当ての種類らしきタイトルは見つけられたのだが、おや、とフラトは視線を更に先に進めてから戻り、もう一度進めてから戻して、

「あらー?」

 少しばかり落胆した。

 目当ての種類の本は、しかし、両側を全く違う種類の本に挟まれていて、もしかしたら一冊だけ違う場所に戻されてしまったのかと思っての確認を一応してみたのだが、そもそもそういった事故を見逃さないためにも一冊、一冊タイトルを追ってこうして最後の本棚までやってきたわけで――つまり、目当ての分野に関しての本は一冊しかないらしい。

 その一冊をしゃがんで、最下段から抜き出し、手に取った。

「……………………何だこれ」

 手に取った本のタイトル――『魔術とは』。

 しかしてその中身は――白紙だった。

 表紙と裏表紙にそれぞれ、少しばかりデザインの違う魔術陣が描かれていて、手に取った瞬間は、その『それっぽさ』にわくわくしたのに。

 捲れど捲れど白色。

 魔術について書かれた本はどうやらこれしかなさそうなのに、その一冊でさえ、わけのわからない仕様になっていて、

「はあ…………」

 と思わず溜息を吐いたフラトのすぐ隣で、近付いてきていた少女が同じように、

「はあ…………」

 溜息を吐き出した。

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