第九話
扉の開閉音は耳にしていたので、誰かしら這入ってきたのはわかっていたが、まさか隣に並ばれるとは思わなかった。
フラトは、隣に立って自分と同じ様に溜息を吐き出した少女を見上げた。
しゃがんだ状態でも少し見上げる程度の小柄な体躯。首のあたりで毛先がくるんと内に巻いた藍色の髪が可愛らしく、髪と同じ藍色の瞳をした少女だった。
そんな少女が、残念そうに視線を落としたまま、口を開く。
「おにーさんは、魔術、得意だったりしない?」
「しない、かな…………だからこうして何かしら勉強になるものないかなあって、この図書室に来てみたとこ」
「それは残念」
「悪いね。…………何か、困ってたりするのか?」
「そりゃあもう、大いに困ってる」
「へえ。そんで、それに魔術が必要だと」
「うん」
「じゃあこれ見る?」
ほい、とフラトは手に持っていた本を少女の方へ差し出したが、少女からは細めた目で苦り切った表情を返されてしまった。
「そんなの見たところで読むような内容がないじゃん」
「ありゃ、知ってたのか」
「だってずっとここにいるんだから、来たばかりのおにーさんじゃないんだよ」
そりゃそうだ。その通りなのだが、だったら――
「じゃあ、何でここに? 僕が探した限りじゃあ、魔術に関連しそうなタイトルの本、この一冊しかなかったけど…………」
「その一冊しかないかどうかを確認しに来たの」
「ん?」
「週に一度、王都から商人さんが来るんだよ。色々持ってきてくれるの。それが昨日だったから、だから、もしかしたら――」
「魔術に関連する本がこの図書室にも入荷されてるんじゃないか、と?」
弱弱しく、少女はこくんと頷いた。
「まあ、これまでずっと増えなかったからさ、別に期待なんてしてなかったんだけどさ、もう習慣みたいなものなんだよね、ここに来て溜息吐くの」
なんてことを少女は言うが、その心底から残念そうな表情とか、そもそも図書室まで足を運んでしまっていることとか、流石にそれで『期待していない』は通じないだろう。
まあ殊更そのことを突き付けてやろうとも思わず、ただ、それだけ魔術に興味があるのだろうと、フラトは少女の話を聞く。
「そんなことを習慣にするのは年齢にそぐわないというか、まあ年齢関係なく健康に悪そうだな。職員の人とかに仕入れてもらえるよう頼めたりしないのか?」
「出来るよ。してる。でも、希望は出せるけど、結局仕入れに行く人はこの町中のそういった希望を沢山聞いて仕入れに行くから、通るかどうかはまた別の話なんだって」
「そっか」
多分、意地悪とかされてるわけではなく、商人の人だって持ってこられるものには限りがある。だったら売れるものを運びたいし――単純に優先順位の問題なんじゃないだろうか。
中には必要不可欠な生活消耗品などもあるだろうし。
なんて。
少女の話を聞いてぼんやりそんなことを考えながら、フラトは手に持ったままだった本を再度ぺらぺらと捲った。
矢張り、白い。
一応、最初から最後まで捲って目を通したが、一文すら書かれていない。どころか――一言もないのだから形はどうであれ、こんなものを本と呼んでいいのかどうかすら疑問が湧く。
まあ、厳密に言うと、ページ数だけは下部に振られているので全くの白紙というわけでもないのだが。
「ここで魔術が勉強できないってのは…………わかってるんだけどさぁ」
少なくとも週に一回、その商人の人が来た後に図書室に確認に来て、それから溜息を吐くという幼い少女らしからぬ習慣を今週もこなした彼女は、しかし、その場にフラトがいるというこれまでと違う状況に何かを感じたのか、未だ留まり続け、そんな風に呟いた。
「ん? そうなのか?」
少女の物言いが妙に引っ掛かって、フラトは訊き返した。
「勉強の補助になる参考書が欲しくてここに来てるわけじゃなくて? そもそも、勉強そのものができてないのか?」
「教えてくれる人がこの町にはいないんだよ。蜘蛛頭のおにーさんも、わかるでしょ?」
「…………まあ」
わからないけれど、少女が『こんなことは知っていて当たり前なんでしょ』とばかりの口調で言うので、思わずフラトは適当に頷いてしまった。
「魔術を教えるのは難しいって、カイガイ先生に言われた。魔力を流す感覚っていうのが人それぞれで、そういう感覚は簡単に共有できるものじゃないから最初は怪我もし易いって。加えて、何かあったときにつきっきりで治療できる体制が整ってないから、こういう小さな町では、親子でもなければそういう責任を負えないんだって、言われた」
上手くできない内は魔力が暴発して皮膚や筋線維が切れたり。扱おうとする魔力が大きければ最悪、もっと酷い怪我を負うこともあるとかなんとか――エンカが言っていたのを思い出す。
それにしても。
拒絶された理由がまあすらすらと、淀みなく出てくるもので、恐らくもう何度も何度もクビキに魔術の教えを請いに直談判し、その度に繰り返し説明されて断られているのだろう。
そう思うと、何かしら協力してあげたくなる気持ちが湧き上がっては来るのだが、残念ながらフラトは、こと魔術に関しては門外漢である。
「そんな白紙の本をわざわざ置いてるのも、きっと、わからせようとしてるからなんだよ」
「わからせるって?」
「私みたいに、魔術に興味を持っちゃった子供に『ここでは魔術は習えない』ってさ」
「ほう…………まあ、そういう考え方もあるのか」
「え?」
「ん?」
「いやいや、蜘蛛頭おにーさん。まるで別の考え方もあるみたいに聞こえたけど…………」
蜘蛛頭おにーさん――その呼び方は最早、髪型が蜘蛛のよう、もしくは頭の形が蜘蛛みたいな奴か、最悪いつでもどこでも蜘蛛のことばかり考えている蜘蛛狂いの人間のように聞こえて嫌だなあと、フラトがちょっと顔をしかめていると、少女に肩を、その小さな体にしては割合強い力で掴まれた。
「ちょっと聞いてる!? 蜘蛛頭さん」
「最早そいつはもう人間じゃないな」
蜘蛛頭は、もうそれ蜘蛛だろ。
「些事です」
「んなわけあるかよ。っていうか難しい言い回しを知ってるな溜息少女」
「変なあだ名付けられた!? いまさっき会ったばかりの人に」
「それは僕の言葉だ。しかも『変』の具合で言うなら僕の方が変なあだ名付けられてるだろ」
「それこそ蜘蛛さんを当たり前みたいに頭の上に乗せてる人に『変』の具合がどうのこうのあーだこーだ言われたくない」
「そこまで駄々っ子みたいなこと言ってないだろ、僕は」
「いいから、本当にあるの? 別の考え方」
がくがくと肩を揺らされ、頭も揺れる。
これで蜘蛛が振り下ろされでもしたら多分嫌がらせに遭うのはフラトだろう。
無駄に糸玉を投げつけられるのも嫌なので、フラトは少女の手を肩から外しつつ、立ち上がって、見下ろしながら答えた。とは言え期待度はできるだけ上げないように。
「わかったわかった。実際にあるかどうかは確信が持てないから、暇潰しくらいの感覚でいいならな…………えっと、そっちは今お昼休みだったり?」
「うん」
「そしたら、一緒に調べてみるか」
「お、ナンパか?」
「おい…………」
お前が教えろと言ってきたんだろうに。
先程まで溜息を吐き出して沈んだ表情をしていたのがどこへやら、フラトのそのちょっとした『気付き』に意味があるのかわからない以上は期待させたくないのだが、そんな思いとは裏腹に、少女は楽しそうな顔つきでフラトを見上げてきている。
その容姿に見合わない軽口を叩きながら。
「自分の半分くらいの年齢の子供をそんな目で見るわけないだろ。アホなこと言ってんなよ」
「ほおう」
「何だその『本当にそうかな』みたいな顔」
「私が言い訳したときにカイガイ先生がよくやる顔」
「よく言い訳をするような状況になるなよな」
どうせ宿題忘れたりしてるのだろう。
「で、どうするよ。取り敢えず僕は気になってるから一人でも調べるつもりだけど」
「あーずるい。楽しそう。私もやる」
「ぐりぐり頭を擦り付けてくんな。地味に痛いだろ。わかったから離れろ」
ぐい、と少女の頭を押し返してどける。
こうして会話をするのは初めてだというのに、習慣とはいえわざわざ溜息を吐きに本棚を確認しに来たときも、頭に蜘蛛を乗せるフラトに全く躊躇わず隣に並んできた事と言い、妙に距離感の近い少女だった。
「その前に、裏庭の畑脇にある水道近くに移動な。確か近くにベンチもあったし」
と少女に言って、フラトが図書室の扉の方へ移動しようとすると。
「あーいけないんだー。ここの物、持ち出しちゃいけないんだよ」
割と大き目の声で少女が非難がましく言ってきた。
図書室ではお静かに。
「どうせこれ、置いてたって誰も見ないんだろ?」
「まあねー。私以外にそれ見てる子なんて、それこそ見たことないし」
「ならいいだろ。なんだったら、何か言われたら全部僕のせいにしてくれていいし。それに――」
ちらっとフラトは図書室の壁に掛けてある時計に目を移す。
「お昼休み、あとどれくらいだ?」
「んー、あと一時間半くらいかな」
「え、そんなにあるんか」
あと十数分くらいしかないんじゃないかと思っての確認だったのだが、随分残っている。
「家が飲食店とか経営してるとこの子は、この時間に色々手伝いしたりするらしいからお昼の時間は結構長いんだー。その間にここの子達にも色々仕事があったりするわけなんだけどね」
「お前は、何もないのか?」
「今日私は休みの日だから特に何もないよ」
「ふうん。そんじゃ、僕借りてる部屋寄ってくから、先に出ててくれるか?」
「はーい」
フラトに続いて図書室を出た少女は元気に返事をしてフラトを追い越し、駆け足で玄関の方へ向かっていった。
それを見送りながらフラトは自分が借りている部屋の扉を開け、鞄を引き寄せてごそごそと中を漁った。
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