第十四話

 四、五時間は寝ただろうか。

 ある程度気持ちは張り詰めているものの、山の中でここまで深く眠れたのは初めてで、寧ろ起きたときに少し焦った。

 山の中ではいつ師匠に襲われるかわからないという恐怖が沁み付き過ぎている。

「あれ? もういいの?」

「うん」

「私の事にしてもそうだし、焚火とか魚の調理とか、猪も獲りに行ってくれたし、もっと休んでてもいいのに」

「いや、いつもの山の中での鍛錬に比べればしっかり眠れたし、ちゃんと回復できたよ」

「いや、だからその鍛錬が異常なだけだって」

「それが日常になっちゃってるんだからしょうがない。それに、トバク目垂れてるぞ」

 とろん、とわかりやすく眠そうな顔になっている。

「へへへ。いやー、焚火の炎見てたらなんかねー。なんだろ、いつもなら外でこんなに眠くなるもんでもないのに、変だなあ」

 声もふわふわしている。

「代わるから、トバクもう寝てきていいよ」

「じゃ、お言葉に甘えようかなー」

 のそりと起き上がり、フラトの後方へふらふら歩いていく。

「おやー」

「すみすみすみー」

 もうまともに頭働いていないんだろう。

 背後でごそごそと――恐らくエンカが寝袋に這入っている音を聞きながら、フラトは焚火にそばに避けられていた自分の鍋を取って湖の方へ向かう。

「…………ふぅ」

 完全に夜も更け、少しひんやりとした空気が寝起きの身体に心地いい。

 鍋の中に残っていた水は捨てて、湖の水を汲み直す。ついでに顔も洗ってから、焚火に戻って鍋を火にかける。

 沸騰するまでぼうっと火を見つめる。

 相変わらず、山は怖いくらいに静まり返っている。

 こんな状況でもよく眠れたのは、間違いなくエンカが火の番をしつつ周囲の警戒をしてくれているという安心感があったからだろう。

 一緒に肉を食べ、少し会話をしたくらいでよくもまあそこまで信頼したものだと自分でも思うが、それでも『信頼できる』と思った自分の直感に従った。

 それにまあ――疲れてもいたのだろう。

 死を覚悟するほどの体調不良に突如襲われ。

 見たこともない巨大な猪に丸焼けにされそうになり。

 かと思ったら崖から落下し湖にダイブ。

 ずぶ濡れになり意識を失った女の子の対処。

 山の中を歩き回って狩り。

 そりゃあ――疲れもする。気疲れもする。

 彼女との事がなかったとしても、疲弊はしていただろう。

 事前知識もなく魔獣に遭遇していたら、と考えるとぞっとしない。

 矢張りここでエンカに会えたのはフラトにとって幸運だったと言う他ない。

 ただ、気は抜けない。

 この後もその幸運が続くとは限らない。

 絶賛遭難中のこの状況だからこそ、エンカから協力しようと申し出てはくれたものの、流石に足手まといなら置いていかれるだろう。

 そうならないように、気合を入れなければならない。

 今日はこの後、エンカが起きたら山の中に這入って出口を探すために歩き回らなければならないし、再びどこかで野宿の可能性も低くない。

 そうなれば、寝床探しに、食糧だってまた確保しなければならないだろう。

 状況は厳しい。

 魔術なんて便利そうなものを使えるエンカに、どうすれば役立てるのかはわからないが、出来る限りのことはしよう――などと。

 焚火で熱される鍋の中の水をぼんやり見ていたフラトは――

「…………ん?」

 ――

 気付いてしまった。

 そういえば――エンカが背後で寝袋に入る音が聞こえたが、その方向って。

「…………うわあ」

 恐る恐る振り返ると、案の定エンカはフラトの寝袋に這入り込んでいた。

 まだエンカの寝袋は乾かしているところなので当たり前と言えば当たり前だし、別にフラトもエンカに寝袋を使われるのが嫌なわけではない。

 ちょっと諸々気になって寝付きが悪くなるが、嫌な気はしない。

 すでに寝入ってしまっているのは、こんな状況で流石に早いなあ、とも思うが。

 まだ出会ったばかりで信頼も何もないのに、怖くはないのだろうか。

 自分を棚に上げて思う。

「まあ…………相当眠そうだったしな」

 師匠の餞別を使って奇跡的に回復したとはいえ、あれだけ瀕死の状態からの回復には彼女の体力なり生命力なり、まあ、なんだかそういうものをかなり消費したのかもしれない。

 普段と違う疲れ方をしていても不思議ではない。

 なら睡眠は取れる内に取って、出来る限り体力回復に務めるべきだろう。

 この先も、都合よくこんな風にゆっくり休める場所があるとも限らない

「そろそろいいかな」

 沸騰した水を鞄から取り出したコップに注いで、白湯を飲みながら自分の鞄を引っ繰り返す。

 まずは、今日の山中移動に備えて鞄の中身を整理。

 それから手近な枝をナイフで切ってちょこちょこ細工を施し、持ってきていた道具を使って簡易的に釣竿を作成。

 湖の傍――焚火と、寝袋に這入っているエンカが見える位置に新しく小さな焚火を作ってから、岩に腰掛け、湖に釣り糸を垂らす。

 駄目元ではあるが、今は他にすることもなし。

 ゆったりと時間を使うことにした。



 日が昇り始め、空が明るんでからもしばらく釣り糸を垂らしたままにしていたが、

「やっぱ駄目か」

 釣果はゼロ。坊主。

 傍に作った小さな焚火を消して始末し、元の焚火の方に戻りながら、釣竿の糸を取り外して巻き取り、竿は折って焚火の中へ。

 相変わらず山は静かで、あの巨大な猪が暴れ回っている様子もなければ、近くに魔獣がいる気配もない。

 鍋にもう一度湖の水を汲んで焚火に掛け直す。

 昨日から何度もこの方法で湖の水を飲んでいるが、今のところ不調はないから大丈夫なのだろう。

 水が沸騰するまでの間にぱぱっと水浴びを済ませる。

「さて、作ってくか」

 取り敢えず鍋の中には昨日食べる前に取り外しておいた魚の頭と骨を投入。

 出来るだけ平らな岩を用意して、昨日の残りの猪肉を一口大にカット。

 摘んでいた山菜と師匠の家から持ち出してきた調味料も一緒に鍋に入れてぐつぐつ煮込む。

 野菜は心許ないが、大量の肉でかなりお腹は満足いくスープになっただろう。

 魚の頭と骨でどれだけの出汁が取れるかは甚だ疑問だが、ないよりはいいはず。

 なにせ、もういい匂いが立ち昇っている。

 これは美味しく出来たいに違いにない。

「んん…………」

 漏れた呟きと同時に、視界の端でもぞもぞと動く気配がし、ぐわん、とエンカが寝袋から上半身を一気に起こした。

「こわ…………」

 バネ仕掛けの人形のような起き上がり方に恐怖を感じた。

「おはー」

 明後日の方向を見ながらエンカがそんなことをぼやく。

「ようー」

 取り敢えず返すと、

「ん」

 満足したように頷いた。

 エンカはそのままゆらゆらと起き上がり、裸足のまま歩き出した。

「おいトバク、どこ行くつもりだ。そっち湖だぞ」

「水浴びー」

 左手をひらひらと振りながら答える。

 絶対寝ぼけてるだろ、あれ。

 というか。

「マジか」

 全然気にしない質なのか、寝ぼけて自分の他に男がいることを忘れているのか…………いやでも一応返事はしてきたしなあ、などと思いながらフラトは湖が背になるよう体勢を変えて、鍋の様子を見る。

 背後でばしゃばしゃ聞こえる水の音がやけに気になるが、振り向かないよう灰汁取りに集中する。

 ここまで本人が気にしていないと、昨日散々気を遣った自分が馬鹿みたいだなと一瞬思ってしまうが、まあそれはそれ、これはこれ、だろう。

 裸を見たりすることが許されたわけじゃあないのだから、矢張り、気は遣うべきなのだ。

 危ない危ない。

 昨日からエンカが妙に明け透けというか、あけっぴろげな発言などもするから、勘違いしてしまいそうになる。

 遭難中だということを忘れるなよ、とフラトは自分の気持ちを律する。

「…………」

 無心で灰汁取りを続けた後、鍋を焚火の火から離して、魚の骨と頭は取り出しておく。

 少しスープを掬って味見をしたところで、

「あ!」

「うわっ」

 背後で急に声がしてフラトの肩が跳ね上がった。

「肉が沢山」

「…………気配殺して背後に立つのやめてくれ」

 頭だけを後ろに反らし、目を細めながらフラトが呟く。

 意図的に湖の方から意識を逸らしていたとはいえ、声を掛けられるまで湖から近付いてきていたことに気付けなかった。

 あまりに水音に意識が引っ張られるというか、水音から背後の光景を想像してしまい、どうしてもそれが少女の肢体を想起させてしまうので気を逸らしていたが、遮断し過ぎた。

 状況がどうあれ簡単に背後を取られたことにちょっと悔しさを感じるフラトだが、その前にたくまし過ぎる想像力の制御方法を身に着けるべきだろう――なんて。

 年頃の少年に言うのも酷な話なのかもしれない。

 それも昨日裸体を見てしまい、のみならずタオル越しとは言え触れてしまってもいるのだから。

 寧ろよく律していると褒めるべきなのかもしれない。

「ごめんごめん。いい匂いがしたからさ」

 びちゃびちゃびちゃびちゃ。

 背後に立ったエンカがフラトに覆いかぶさるようにして鍋を覗き込んでいるので、頭を逸らしたフラトの顔面にエンカの髪から滴る水が全部かかっていた。

 いや――滴ってるっていうか、びしゃびしゃ流れ落ちてくる。

「タオルもう乾いてるだろ。拭けよ」

「持っていくの忘れたー」

「持っていくの忘れたって…………トバク今、服着てるわけだけど」

「身体に付いた水滴を手で払って着た」

「そんな、雑な…………気持ち悪くないのか?」

「え、気持ちいいけど」

「いや、それは嘘だろ」

 濡れて張り付いた服は重いし動きにくいし、気持ちよく感じられる要素なんてどこにもない。

「にしし」

 可笑しそうにエンカが笑顔を見せる。

 服が張り付いているせいでエンカの身体のラインが浮き彫りになり、目のやり場に困る。

「ふぅ」

 鞄から自分のタオルを取り出し、濡れた髪を拭いたエンカが、そのままタオルを肩に掛けて、フラトの対面の岩に腰を下ろした。

「ねえ」

「ん?」

「まあ私が言えた立場じゃないのはわかってるけど、流石に真っ直ぐ見過ぎでは?」

「いや、だって上の服透けて下着見えちゃってるから」

「いやいや、だから見過ぎなんじゃないって言ってるんだけど。今の今まで結構気遣ってくれてたじゃん」

 一応それには気付いていたのかこの少女。

 気付いて尚その態度なら本当に言えた立場じゃないが。

「なんかもう吹っ切れた」

「あら、吹っ切れちゃったの?」

「うん。まあ裸は確かに見ちゃったけど、なんていうかそうやって服が透けてるのもそれはそれで凄い魅力的だし、もうこの引力に視線が逆らえないっていうか、逆らいたくない」

「理性ぐちゃぐちゃじゃん」

 そう言うエンカの顔がほんのり赤く見えたのは、果たして間に挟んだ焚火に照らされたからなのか。

「まあ、こうして焚火に当たってればその内服も乾くでしょ。別に寒くはないしさ」

「おかげで僕の目は今とんでもなく幸せでちょっと乾き過ぎて痛いくらいだけど、そんなんで体調崩したら、流石に許さないからな」

「瞬きくらいしなさいよ。一瞬じゃ乾きやしないんだし。それにそのときは裸で抱き合って私の身体を温める権利をホウツキにあげ…………待て待て待て、ちょっと待てホウツキ」

「おいやめろ邪魔するな」

「いやこっちの台詞だっつの。何焚火消そうとしてんの」

「大義の為に」

「だまらっしゃい」

「ぶっ」

 弾けるような子気味のいい音がフラトの左頬から鳴った。

「一瞬、意識が飛びかけた。ただのビンタで首が持ってかれ掛けたんですけど」

 ちゃんと、滅茶苦茶痛いし。

「正気に戻ったかな?」

「ああ、うん…………ありがとう」

「そういえば、鍋の中に入ってる肉って、昨日の猪肉?」

「うん。流石にあれだけの量、昨日夜の一食だけで食べきるのは無理だろ」

「さて、それはどうかな」

 ニヤついた笑顔でエンカが言う。

 何故ニヤつく。

「……………………食べれたんだとしても残してたよ。今日山の中を動くのに、朝ご飯は必須だろ」

「そりゃそうだね。昨日その残った肉を見つけなくて良かったよ」

「別にわざわざ隠してたわけじゃないけどな」

 そも、あれだけの串焼きを食べれば満足すると思ってたし、じゃなくともこっそり食べるなんて警戒すらしていなかった。

「ホウツキが今作ってるそのスープ、私も食べていいの?」

「目の前で作っておいて駄目なんて言わないよ。トバクがいてくれたから結構ちゃんと寝れたし、そのお礼も込めて美味しく作れたと思うから、温かい内に食べて今日動けるだけの体力をしっかり付けよう」

「やったね」

「んじゃあ、はい」

 とフラトが手を差し出すと、

「はい」

 とエンカがフラトの手に自分のカップを渡してきた。

 そこに肉盛り盛りでよそって返し、自分の分もしっかりとよそった。

「「いただきます」」

 手を合わせて言う。

「ふんあっ」

 早速肉を口に放りこんだエンカが、口をほふほふさせながら何か言っている。

「美味しい」

 咀嚼して飲み込んで、それだけ口に出してからまた肉を放り込んでいた。

 好評で何より。

 フラトは始めにスープを一口飲んでから、肉を齧った。

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