第七話

 フラトが湖に戻ると荷物がそっくりそのまま残っていた。

 移動させられた形跡すらない。

 というか。

「おかー」

 気さくに片手を上げて迎えられたので、

「ただー」

 フラトも片手を上げて返した。

「お、ノリがいいね。合格」

 なんて、焼き魚を貫いていた串の先端を向けて言ってきたので、フラトは少女に近づいて、

「不合格です。人に向けてはいけません」

 手から串を奪って焚火の中に放り投げた。

 焼いているとはいえ生魚に突っ込んでるわけだし、生臭いかもしれない串を再利用するつもりはないから薪にする。

 恐らく魚の油と反応したのだろう、ばちばちと大きな音が鳴った。

「ありゃ、ごめんごめん」

 意外にも、素直に謝られてしまった。

「それにしても猪なんてよく見つけられたねー」

「苦労しました。山の中、生き物の姿がどこにも見つからなくて。この猪も、逃げ遅れたのか、警戒し過ぎて動けなくなっていたのかはわからないですけど、幸運だった、の一言に尽きますね」

 自然を装ってそんな風に返答してみるが、しかし。

 フラトの内心は穏やかではない。

 いや、少女の意識や精神に歪なところがなさそうで、重傷を負いそこから復元のごとき復活を果たした後遺症のようなものが見られないで安堵している部分もあるのだが。

 彼女がまだこの場に普通に留まっていることが驚きだった。

 もし残っているのだとしても――それは自分に対する不満をぶつける為か、条件を付けての口止めか、或いは実力行使での記憶破損を狙ってくると踏んでいただけに、こうも親し気に話し掛けられると戸惑う。

 実際問題として、実力行使の記憶破損が行われる可能性は低くないと見積もっていた。

 なにせあの巨猪にあんな攻撃を正面からぶちかましていた人物だ。

 裸を見られた報復と、ついでにその記憶も消せる一石二鳥の強硬手段――そんな風に考え、行動してもおかしくはないと思っていた。

 最悪、この湖からいなくなったと見せかけて茂みに潜み、奇襲を仕掛けられることも覚悟はしていた。

 そんなわけで。

 フラトの心情は、現在ぐちゃぐちゃである。

「そりゃあ、あんなもんが暴れ回ってたらねえ。どんな生き物だって一目散に逃げるか、安全なところに姿を隠すってもんだよね」

 少女が岩に座ったまま頭を反らして背後の遥か上、自分達が落ちてきた先を見上げながら言う。

 …………うぅむ。

 急に襲い掛かってくるような気配もなければ、敵意のようなものも感じない。

 まあ、今更そんなことするなら矢張り、最初からいない振りをするだろうが。

「あ、あと魚二匹もありがとねー。お腹空いてたし凄い美味しかったよ。でもあなた、薄味派の人?」

「薄味派? いや…………そういうわけじゃないですけど、薄かったですか?」

 しっかり味は付けたつもりだったし、なんなら魚自体の旨味が濃くて、下手に味付けをしなければ良かったと後悔したくらいだった。

 四尾全て同じような塩梅にしたはずだったのだが。

「まあ、あれはあれで好きだけど。素材の味? うん、美味しかったよ」

「そうですか…………」

「それにしても私に二匹もよかったの? 魚だって獲るの苦労したんじゃない?」

「いや、色々と湖に落ちた衝撃で気絶して浮いてたのを拾っただけで棚ぼたみたいなもんでしたから、気にしなくて大丈夫ですよ」

 もしかしたらあの爆発前に、繁みが抉られ放り出された物による落下の衝撃で気絶していた魚かもしれない可能性はまだ残っているので嘘ではない。

 実は湖に落下中も焼き殺されかけたなんて、殊更伝える必要はないだろう。

「湖に変なのが住み着いてて、私達がぼた餅にならなくて良かったよね」

「怖いこと言わんで下さいよ」

 あはは、と少女がからから笑う。

 実際あんな巨猪が存在しているとなると、冗談とも笑い飛ばせないから怖い。

 しかも底の方に住み着いていたら物の落下や爆発の影響は大きくなかったかもしれないし、なんなら下手に刺激しただけで怒らせていたかもしれない。

 ほんと、変なものが住み着いていなくてよかった。

「あのさ、私ってどれくらい気失ってたかわかる?」

「正確にはわからないので体感になりますけど、三、四時間程度ってところじゃないですかね」

 持ってきた猪を湖の傍の大きな岩の上に寝かせながらフラトが答える。

 少女に小瓶の液体を使って回復させた後も、色々と忙しなく動いていたので正直、そのときの時間感覚はあまりあてにならない。

「ふーん、そんなものか」

 呟く少女を背に、フラトは猪の皮を剥いで、肉を捌いていく。

 自然と訪れた静寂の中で黙々と作業をこなす。

 途中から――すぐ近く、斜め後ろら辺から覗き込むように作業をまじまじと見てくる視線を感じてはいたが、声は掛けてこなかった。

 一応気を遣ってくれているのか、相手も距離感を計りかねているのか。

「こんなものかな」

 きりのいいところでぼそりとこぼす。

 別に静寂が苦手なわけじゃないが、ずっと背後から覗き込まれているというのも虫の据わりが悪いというか、むず痒い。

 妙な息苦しさがあり、少し吐き出すつもりでこぼした言葉だったのだが、自分でも思いがけずフラトの口から更に言葉が漏れた。

「まさか――」

「んー?」

「まさか、ここに残っているとは思いませんでした」

「え? 何でさ。助けてもらったのにお礼も言わないなんて、なしでしょ」

 言うだけ言ってすぐに山の中に消えちゃったし、と少女。

「でも、意識のないあなたを脱がせてすっぽんぽんにしたことには違いないわけで、その過程で少しは触れてしまった部分もあるわけで、更に言えば身に着けていた下着とかもまあ、言うなれば、敢えて言うなら、がっつり見てしまったわけですし――」

「待て待て待て。へーい待てや。わかったから待って。言い方よ。何か文法変だし、そんな明け透けに言わなくても」

 たまらず、といった感じで少女が割って入ってきた。

「目を閉じれば瞼の裏に艶やかな下着が焼き付いてしまっていて」

「え? 艶やかだった? まじで?」

 そう言って少女が服の胸元を自分で広げて見下ろしていた。

 因みに、乾かしていた少女の服は、既に本人に着用されている。

 あの不思議な引力を持つ黒い下着もなくなっていた。

「ほぉー」

 自分の胸元を見下ろして今更何に感心してんだか。

「さて問題です」

 少女が何か言い出した。

「胸元のほくろは右と左どっちについてるで――」

「向かって右――だから左に二つ」

「おぉう…………食い気味に正解」

 引いてらっしゃる。

「いや、今のはさあ『いやいやそこまでは見てませんって』からの『あはは、そうだよね。ともあれ、助けてくれてありがとう』って自然な感じで話を戻す流れだったじゃんか。もうそれ自分で自分の首思いっきり絞めてるじゃん」

「確かに」

「まあ、お礼は言うけどもね。どうもありがとうございました」

 頭を下げられてしまった。

「実際、適切な対応だったと思うしね。この状況で濡れたまんまで体調崩す方が圧倒的に最悪だし。ご飯ももらってこうして健康体でいられるんだから、文句を言ったり、非難する方がおかしいってもんでしょ」

「そういうもんですか」

 そういう事に、してくれるのか。

 なんというか――何だろう。

 そうやって許されてしまうと、それはそれで罪悪感が勝るというか、いっそなじられた方が楽だったまであるような気になってしまうが、流石にこれ以上変態発言は重ねられないので、フラトは素直に少女の言葉を受け止めることにしておいた。

「っていうかさー」

「何でしょう」

「瞼の裏に焼き付いているのが下着の方なの?」

 おおぅ。

 少女側からのまさかの突っ込みである。

「…………」

「裸を見てる筈なのに?」

「…………んむむ」

 口を噤む他ない。

 変なところで少しだけ保身に走ったのが見事に見抜かれていてもう下手に言い訳を重ねられないと直感し、ゆっくりと、少女に向けていた顔を捌いた肉へと戻す。

 そんなフラトの背後に更に近付いてきた少女が耳元に口を近付けてきて言う。

「憶えてるでしょ?」

「……………………はい」

 耳がこそばゆくて、よくわからないが心臓がぎゅっとして、思わず目を瞑りながらフラトは消え入りそうな声で答えてしまった。

 不覚。

「どうだった?」

「………………………………綺麗でした」

 返答を散々逡巡して迷った挙句に、妙に素直な感想だけが出てきた。

「ふっふっふ。よろしい」

 耳元から口を離して妙に満足そうに言う。

「それ、捌くの手伝おうか?」

 あっけらかんと少女は話題を変えてきたが、

「いや、大丈夫ですよ」

 遠慮でも何でもなく、あとは捌き終えた肉を串に刺していくだけの段階なので手伝いの手は必要なかった。

 その作業もすぐに終わり、猪肉を焚火の周りに刺して火に当てながら固定する。

 流石に全てを一度にフラトが、というわけにはいかず、余ってしまった分を少女が何も言わずに持ってきてくれて、一緒に火の回りに固定していった。

 肉が焼けるのを待つ間、二人は自然と焚火を間に挟み、向かい合って大きな岩の上に腰掛けた。

 心地よく吹く風に少女の灰銀の髪が揺れる。

 そんな少女にフラトは言う。

「訊きたいことが、あります」

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