第五話
「…………」
繁みを真っ直ぐ進み、どんどん分け入って十分に湖から離れ、少女の視線も届かなくなったところで、
「ふう」
フラトは足を止めた。
「追いかけて来てる気配もない…………よな。うん、さて」
少女から顔を逸らしたままの謝罪になってしまったのは少し思うところがあったりするが、あの状況では仕方ない。
あの形が、あの場でのフラトの出来る限りの真摯な姿勢だった。
兎に角――謝った。
あれで足りなかったのなら荷物もある。
後は、戻ってから確認するしかないので一先ず切り替えて再び歩き始める。
食材探し。
出来れば肉を確保したい。
これから山道を歩き回る羽目になるだろうから、腹に溜まって体力も付く肉が。
なんとしても――欲しい。
のだが。
「これは…………もしかしてまずいか?」
周囲から、まるで生き物の気配が感じられなかった。
最悪、ここまでの道中で見つけて摘んでおいた山菜くらいしか持ち帰れない可能性が頭をよぎる。
長年の山暮らしの中でも、ここまで気配を感じないのは初めてだった。
樹々や草花以外全てが死に絶えたかのような静寂。
「あの猪め…………」
考えてみれば当然。
あんなデカブツがあれだけの地響きを鳴らしながら走り回っていたのだから、周辺の獣と言わず昆虫に至るまでここら一帯から避難の為に姿を消してしまっていてもおかしくない。
湖の魚にしても、巨猪が放ったと思しき炎弾の着弾による爆発であちこちに吹き飛ばされ身は抉られ、そもそもまともに形も残っていないものばかりで、どうにか浮かんでいるのを四匹見つけられたときは嬉しくてちょっと涙が出そうだった。
爆発の影響を受けにくい岩場の陰にいてくれたのか、或いは深くを泳いでいたのか。
獲ったのではなく、取っただけ。
棚ぼたではある。
ちょっと釣りも試してはみたが矢張り掛からなかった。
澄んだ湖面に魚影さえ映らなかった。
あの少女が果たしてどれだけの距離を逃げ回っていたのかフラトにはわからないが、ごく短距離なんて事はないだろう。
となれば、まず間違いなくこの辺り一帯から全ての生き物が姿を消してしまったか、いたとしても、死ぬ気で死んだ振りでもして息を潜めていると考えていい。
そこまで本気で気配を消した獣を探し出すのは酷く難しい。
「…………はあ」
自然と溜息が漏れてしまうが、足は止めない。
無理だとわかっていても、駄目だとわかっていても――もしかしたら、がちらつく。
諦められずに視線をあちこちに飛ばす。
あまり奥に行き過ぎて戻れなくならないよう、ところどころで印を作りながら、山の中を静かに散策する。
ある程度の大きさの石を見つけたらひっくり返してみたりもしつつ。
蛇や蛙でもいてくれればこの際助かるなあ、などと思いながらも同時に、そんなものを持って帰って果たして少女にこれ以上悪い印象を与えることにならないだろうか、と心配もよぎる。
まあ、これが遭難なら形振りなんて構っていられる状況じゃあ、ないのだが。
そんな風に考えたりもしつつ山の中を歩き回る中でふと、気付いたことがあった。
「そういえば…………すっかり体調戻ったな」
戻ったというか馴染んだというか。
巨猪と少女に遭遇する前の不調が嘘のように、完全に違和感がなくなっている。
寧ろ、魚しか食べていないのに体力が有り余っているような気さえする。
気力が充実している感覚。
不思議なものだが、ともあれ、だからこそ、少し無理をしてでも食材を探すなら今だろう。
どんな僅かな気配も見落とさないように慎重に。
繁みを掻き分け、石をひっくり返し、木に登り、枝から枝へ飛び移り。
自身の気配を出来る限り殺しながら、泥だらけになりながら、探す。
探している――のだが。
「…………駄目だな。足跡があっても途中で切れてて辿り切れないし、少し時間が経ったくらいじゃ辺りの様子を伺いに姿を現わしたりもしないか」
そうそう簡単に甘えた隙を見せたりはしてくれない。
自身の生き死にがかかっているのだから当然と言えば当然なのだけれど。
気軽に、食料を探してくる、なんて少女に言ってしまったことを後悔する。
「んー…………、ん?」
これ以上無為に体力を消耗するのは避けた方がいいだろうか、と思い始めたときだった。
ふと『何か』が聞こえた。
微かな、ほんの僅かな――樹々が擦れるでもない、これまで山の中で普通に聞こえてきていた音とは違った種類の物音が聞こえた気がした。
生き物の気配を探すあまりに敏感になり過ぎて、錯覚や幻聴の類だった可能性も十分にあるほど、それはささやかな音だった。
でも今は――そんなものにも縋りたくてフラトは、前方に乱立する大木の一つに気配を殺して近付く。
姿勢を低くして根元や周囲を確認してみるが、特に変わったものは見えないし、音も聞こえない。
本当に気のせいだったかもしれない、と思いつつ目の前の気を回り込むように奥へ。
「っ!」
『何か』の正体はあった。
いや――いた。
大木の根元。
血に塗れた女が、真っ黒な血溜まりを作っていた。
女は凄惨なまでに傷つき、木に背を預けて、手も足も放り出して根元に座り込んでいる。
真っ黒で艶やかだろう長い髪にも血がついてがびがびになってしまっていた。
だというのに。
そこまで血に塗れて尚、呼吸を忘れてしまいそうになるほど美しかった。
一瞬、見惚れた。
「っ…………あの」
フラトは慌てて木の陰から飛び出して、地面に膝を突き、女に目線の高さを合わせた。
声に反応したのか、女が閉じていた瞼を薄っすらと、気怠げに開ける。
暗い暗い、吸い込まれそうな緑の瞳。
艶やかな黒髪も、それとは対照的な真っ白な肌も血に塗れているのに、瞳と薄く結ばれた唇が嫣然と濡れていて、残虐なほどの気品を感じさせる。
見ただけで、見られただけで、背筋が冷たくなるような――それは気高さだった。
だがどう見えようと、ぼろぼろに傷ついていることに変わりはない。
フラトは頭を振って奪われそうな意識を引き戻す。
「僕の声、聞こえてますか?」
反応はない。
ただ、虚ろな視線だけが真っ直ぐにフラトを捉えている。
いや――どうだろう。
こんな状態で視覚が正常に機能しているかどうかは怪しい。
声だって、ただの雑音としか聞こえていないかもしれない。
音がしたからそちらの方へ目を開けてみただけなのかもしれない。
「…………」
まあ考えても埒は開かない。
状況の分析は後回しにして今できることを。
フラトはそっと女の、見る限り一番酷そうな肩口から胸に掛けての傷口にそっと手を触れて意識を集中させた。
深く息を吸って、吸い込んだ大気を血と混ぜ合わせて体内を巡らせる。
そうやって自分の中で一つにした気の流れを、傷口に当てた掌から相手に流し込む。
丁寧に、少しずつ、柔らかく、滑らからに。
別に――こんなことですぐに傷が回復したりはしない。
物語に出てくるような魔法のような効果はない。
この『手当』は、それこそ応急手当くらいの意味しかなく、血が止まるのを少しだけ早めたり、痛みを少しだけ和らげたり、僅かに傷の治りを早くしたりと、それくらいの効果しかない。
けれど――
「っ…………!?」
フラトが当てた手に女が自分の右手を添えて、静かに涙を零した。
流石にその反応は想定外で驚いたが、しかし、目的だった意思の確認はできた。
フラトはすぐさま空いている左手で、服の内側に忍ばせたポーチから一つの小瓶を取り出した。
家を放り出されるとき餞別として持たされたもの。
無色透明の液体が入った小さな五つの小瓶。
その内の一つを手に取る。
――『死にそうになったら飲みなさい。飲めないなら傷口に掛けなさい』
餞別などと言って一体何を持たされたのか、山道を歩きながら投げ渡された革袋の中を確認したとき、小瓶と一緒に入れられたメモにそう書かれていた。
その言葉から回復効果を発揮するような何かなのだろうと当たりを付けてはいたのだが――いざ、藁にも縋る思いで使用したそれの効果は想像以上だった。
そう。
既に一本は使用済み。
誰あろう――あの灰銀の少女に。
湖に落下し、拾い上げた少女は、それもう酷い有様だった。
恐らくフラトと邂逅する前からの戦闘で負っていた傷、その直後、巨猪を迎撃する為に放った攻撃をいなされた際の衝撃で受けた損傷。
血を吐いていたから、内臓だってやられていただろう。
そして湖に落ちた際に折れたと思しき手足の骨折。見えないだけで、他にも折れていてもおかしくはなかった。
満身創痍。
風前の灯。
虫の息。
生きているのが不思議なくらいの状態で、少女は途切れそうな浅い呼吸をしていた。
だからフラトは、効果がどんなものかわかっていなくても、使うしかないと判断した。
祈るような気持ちで、フラトはもらった小瓶の中身を灰銀の少女の口に含ませ、少し残して見えている傷口に振りかけた。
すると。
効果は――劇的だった。
回復、なんてそんな生易しいものじゃなかった。
あれは言ってしまえば復元だ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます