第四話

 ばちばちと、乾いた音が爆ぜる。

 急ごしらえで作成した木製の串を手で弄びながら、ぼんやりと揺らめく火と黒色の女性用下着がフラトの目に映る。

「…………」

 湖に落下したことでずぶ濡れになっていた身体も服も、既に乾いている。

 まだ陽も高く、寒いというわけでもなかったのでパンツ一枚になって身体の水分を拭い、服を乾かす間に色々と必要な作業を進めていたらあっという間だった。

 湖から拾い上げた鞄に水一滴の浸水もなく、完全防水仕様だったのも幸いした。

 持ってきていた道具ですぐに火をおこし、大き目の焚火を作ることができた。

 服だけでさえ、乾かす為に広げたりしているとかなり場所を取るのだ。

 手で弄んでいた木の串を焚火の中に放り込むと弾けて燃えて、離れた場所で黒い女性用下着が揺れる。

「…………」

 しかしまあ。

 改めて、よく生きているものだと思う。

 思い出すだに背筋が凍るというか燃え上がるというか――間一髪、紙一重だった。

 だいたいあんな高さから落下したら下が湖だろうが関係なく身体中の骨がぼきぼきに折れていただろう。

 落下中に上空から発射されたらしい炎弾とも言うべきどでかい炎の塊のようなものがフラト達には直撃せずに湖に着弾し、大爆発を起こさなかったら着水と同時に死んでいた。

 下からの爆風に巻き上げられ落下速度が落ち、且つ入水角度を調整出来たからこその奇跡だ。

 あの炎弾を食らっていたらそれはそれで骨も残らず燃やし尽くされて死んでいただろうし。

 故に間一髪で紙一重。

 流石にあの高さから落下して巨猪が追ってくるようなこともなかった。アレが空を飛べなくてよかったと心底思うフラトだった。

 そんな心配、鼻で笑ってしまいそうなものだが、あんなバカでかい猪がいて、しかもそれが炎を吐くところまで見せられたのだ。しかも明確に自分達(というか灰銀の少女にだろうが)に敵意を持って。

 空くらい飛べてもおかしくはないと思うくらいには、フラトも混乱している。

 今のところアレが走り回っている轟音も聞こえず、山は静かなものである。

 だからこそ不気味ではあるのだが、周囲に変な気配はなく、一先ず落ち着けている。

「……………………」

 いや――いやいや。

 否。

 

 フラトの心情はまったく落ち着けてなどいない。安心できていない。

 それもこれも全部あの――離れたところで風に揺れる黒い女性用の下着がちらちら視界に映るせいで。

 猪とか割ともうどうでもいい。そんなもんにはもう混乱していない。そっちじゃない。

 あのがいけない。

 視界に映るというか、視界が引っ張られるというか。

 変な引力が発生している。

 そうに違いない。

「…………ん」

 小さな吐息が聞こえてフラトの心臓が跳ね上がる。

 早鐘を打ちそうになる鼓動を無理矢理抑え込んで深呼吸をする。

 それから、さて、と気合を入れる。

 覚悟を決める。

 同時――吐息が聞こえた場所でがばりと勢いよく人が跳ね起きた。

「っ、おはようございます」

 フラトは、そちらの方へ瞬時に右掌を向けながら立ち上がり、言う。

 視線は下、足下の焚火に落としたまま。

「寝起きのところすみませんが、ちょっと聞いてくれたらありがたいです」

 と、前置きしてから。

「僕はフラト・ホウツキ。十六歳です。さっきは僕のせいで、その…………すみませんでした。それから、助けてくれてありがとうございました」

 下を向いたまま上半身を下げてお礼を言い、感謝を伝える。

 伝えなければならないと思っていた。

 よくよく考えずとも、フラトが灰銀の少女の逃走進路にいたせいで、彼女はあの場で迎撃せざるを得なくなってしまった。

 逃げるように声まで上げてくれて、庇おうとしてくれた。

「それから加えて今のうちに謝ります」

 言いながらフラトは上げていた右手を降ろして、更に深々と頭を下げる。

「本当にごめんなさい」

 できるだけ真摯しんしに謝罪の言葉を口にする。

「一応言っておくと、あなたに巻き付けているその毛布は洗ったばかりでその後使ってないので清潔です。下に敷いてある寝袋も同様です」

 不安に駆られながらフラトは言葉を紡ぐ。

 毛布も寝袋も、たまにある山での鍛錬に使っているものを最近洗ったばかりで、それを鞄の中に詰め込んできたから汚れていたりはしないはず。

 フラトの言葉に、少女が動く気配はない。

 が、静かに意識を向けられているのは感じる。

 じっ、と――言葉を聞いてくれているのだろうか。そうだといい。

 気絶から起き上がったばかりで意識がはっきりしているかは怪しいところだが。

 更にその上で、フラトの言葉を聞いて意味を理解してくれているか、不安だが。

 そこら辺はもう願うしかない。

 兎にも角にも、少女が目を覚ましてくれたことに一先ず――安堵する。

「…………」

 大変、だったのだ。

 湖に着水、というより落下後――何よりもまず少女を捕まえて陸に上がり、次いで鞄を回収。

 それから優先して火をおこす作業に移行した。

 フラトは意識があり、自分で身体を動かすことができたからいい。

 体温をしっかりと維持することができた。

 だが、意識を失ったままの少女はそうもいかない。

 体温が奪われるのはなんとしてでも阻止しろ――とは、山中修行を始めた際、耳がタコになるほど何度も何度も師匠に言い聞かせられたことだ。

 ――普通に命に関わるから。

 ――食事だのなんだの心配する前に命を奪われてしまうから。

 というわけで、少女を濡れたまま寝かせているわけにはいかなかった。

 そのまま寝袋に横たえて毛布を掛けても被害が広がるだけで意味はないし、なんなら余計乾きにくくなるかもしれない。

 そのまま少女が体調を崩してしまうのが一番最悪の状況であり、それはなんとしても回避したかった。

 遭難した可能性が高かったから。

 というか――フラトは遭難した。

 もう頼れるのは目の前にずぶ濡れで横たわる少女しかいなかったのだ。

 元居た場所は崖が高過ぎるし、この湖周辺からすぐ外縁は鬱蒼と茂っていて、先が見通せない有様。

 故にフラトには選択肢などなかった。

 しょうがなかった、とフラトは自分を無理矢理正当化しながら行動を起こした。

 つまり――気を失った灰銀の少女の服を全て脱がした。

 清潔なタオルで身体に付着した水分を全て拭い取り、毛布にくるんで、寝袋を焚火の近くに敷いて、そこに寝かせた。

 毛布はくるむときに胸上で緩く縛ったので跳ね起きた今でも落ちていないはず。

 因みに。

 そこらの木材を組み合わせ、組み立てて、服を掛けられるものを作ったので、少女から脱がした服はそこに掛けてある。

 あの、魔性の引力を持つ黒い下着も。

「言い訳をさせてもらうと…………できるだけ目は背けました。でもやっぱりごめんなさい」

 結局、見たか見てないかで言えば見てしまっているし、なんなら触れてもいる。

 いやそれだってフラトは出来るだけタオル越しに触れるように精一杯気を付けたが、限界はある。あった。

 しっかりくっきり、彼女の丸裸な全身がフラトの脳裏にこびりついてしまっているし、感触も覚えてしまっている。

 こればっかりはどうにも拭えないのだからしょうがない。

「…………」

「…………」

 無言の時間が怖い。

 聞いて欲しいと言ったのはフラトだが、ここまで静かに黙っていられるとそれはそれで不安になるものだった。

 ただ、今のところ嫌な感覚はないのが救いと言えば救いか。

 激情に駆られてフラトの方へ向かってくる様子もないし、敵意や殺意のようなものも向けられてはいない。

 ただじっと、観察されているような視線を感じるばかり。

 ならば――と、フラトは更に言葉を重ねる。

「あと、申し訳ないとは思ったんですけど、あなたの荷物、湖に落ちて中もびしょびしょになっていたので一度全部出して、焚火の傍に並べて乾かしてます」

 言わずともすぐに確認できるだろうが、説明はちゃんとしておく。

 兎に角、何から何まで色々と乾かさなければならなかったので大き目の焚火を作りたかったのだが、その点に関しては困らなかった。

 少女の攻撃をあの巨猪が逸らしたせいで抉れた脇の繁み。

 そのときに吹き飛ばされたものが大量に落ちてきていたので、薪集めは労なくできた。

「そんでまあ、色々と言いはしましたけど、何か気に入らなかったらそこにある僕の荷物、鞄ごと持って行ってもらって構わないので」

 その為に鞄を予め少女の近くに置いてある。

「あと、さっき取ったばかりの魚を焼いてあるので食べて下さい。一応全部で四匹焼いてその内二匹は僕が既に食べたんですけど、今のところ体調に問題はないので大丈夫だと思います。疑わしければそのまま置いといて下さい」

 先ほど、食べ終えた後の串を何も考えずに焚火の中に放ってしまったが、自分が食べた証拠として残しておけば良かったな、とちょっと後悔した。

「あなたが持っていた剣は寝袋のすぐ横に置いてあるので確認して下さい。取り敢えず伝えておきたい事はそんなところです。僕は、ここから山を出る道がわからなくて、これから数日はこの山を徘徊しないといけないかもしれないので、今から食料を探してきます。勿論あなたの分も確保してくるつもりでいますけど、ここに残るかどうかは自由に判断して下さい」

 鞄ごとなくなってしまっていても文句は言えない。

 状況がどうであれ自分と同じくらいの歳に見える少女の服をひん剥いて全裸を見てしまった――という事実のみならず。

 フラトとしては、自分を庇ってくれたが為に傷付いてしまった少女を助けようと思って抱えて飛んだのだが、湖に突き落とした結果となった。

 あの場から移動させていなければ巨猪の吐き出す炎に呑み込まれて死んでいたというのはあるとしても、それはそれ、これはこれ。

 どうしたって罪悪感は残り、燻っている。

 起き抜けに突然襲い掛かられたって仕方ないとすら思っていた。

「じゃあ、そういうことで…………行ってきます」

 フラトは回れ右をしてから視線を上げて歩き出し、繁みの中へと踏み入る。

 背中に少女の視線を感じながら、茂みを掻き分け奥へ、奥へ。

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