第2話

 運動会の代休で三連休となった週末をようやく抜けて、陽太が幼稚園に吸い込まれていった。少し肌寒い空気に秋を感じる。この背中を見送るのもあと五ヶ月か。

 帰り際、自転車に乗った母子とすれ違う。

――シンママなんだって。慰謝料がすごいんじゃない?

 入園して間もないころ、耳に飛び込んできた心ないうわさ話。発したグループの輪の中に、この人がいたのかどうか、るりにはそれすら分からない。お互い軽い会釈を交わして通り過ぎた。

 幼稚園に通うことがこれほどストレスだとは思わなかった。

 平日昼にお迎えの必要がある幼稚園では、ほとんどの母親が専業主婦だ。パートで働く人も少数派だろう。父親の収入が家計を支えている。

 しかし、陽太に父親はいない。るりがシングルマザーと知った人が陰口をたたくのも無理はない。

 弁明するだけの社交性も意欲もなかったため、うわさ話は既成事実となってしまったようだった。陽太にいないのは父親だけではないのに。

 ぼうっとしたままマンションに着く。

 このワンルームマンションを見ても、あの人たちは同じことを思うだろうか。

 ダイレクトメールやチラシで溢れた郵便ボックスは一つや二つではない。大学生や若い社会人は遊びや仕事に忙しく、郵便物を回収する時間も惜しいらしい。

 部屋に帰るとそのままベッドに寝転んでしまう。二十六歳の自分も本当なら仕事に忙しい年頃だ。

 他の道はなかったんだろうか。天井を見上げる。

 自分はいま、陽太のために生きている。しかし、陽太がいなければと思うこともある。その頻度は、最近、増えている。

 何度も考え、後悔し、開き直り、諦めた思考をなぞりながら、眠りに落ちた。


「今日、チックンしよう」

「ええー」帰ってきておやつを頬張っていた陽太の顔が曇った。

「痛くないようにするから」頭をなでる。周期がいつ狂うか分からないから、早めの方がいい。

「じゃあ、るりちゃん、ゲームしてもいい?」色素の薄い瞳が見上げてくる。

 こんな風に条件を出してくるくらいの小賢しさは成長の証だろう。罪悪感も手伝って、るりは自分のスマートフォンを貸してやった。


 トイレと一緒になったユニットバスで裸の小さな背中にそっと針を沈ませる。陽太の身体が強張る。最近は痛いと言わなくなったが、痛くないわけがない。

 白い肌に真っ赤な血が球状に盛り上がる。

 いつまで続けるべきなんだろう。

 口づけをするように、血を舐めた。

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