第38話

 マンション入り口のオートロックのガラス戸が閉じるギリギリのところで久悠はそれに足を挟み、エントランスに入ることに成功した。タールスタングが後から追いかけてくるが、待ってはいられない。居住者用のソファやテーブルが並ぶ空間を抜けると、奥にエレベーターを待つラツェッドの姿があった。しかし、その間にいたはずの白い瞳の殺し屋は見当たらない。もし今もどこかに身を潜めてラツェッドを殺す隙を窺っているとしたら、久悠の存在にも気付いたはずだ。あるいは、微かな可能性としては、ラツェッドの帰宅を待ち伏せするために先に彼の部屋に侵入していることも考えられる。しかしそれならわざわざエントランスを利用する必要もなく外壁を伝って部屋に侵入すればいいので、その線は薄いだろう。なんにせよ、殺し屋の行動の予測ができない。エレベーターが開いた瞬間にラツェッドが襲われる危険もある。動くなら今しかないと久悠は思った。

 チンとエレベーターがエントランスに到着する。戸が開く寸前、久悠はラツェッドの背後に忍び寄り、その襟元を掴んで強引に引っ張った。すぐにエレベーター内を確認するが、中にはだれもいなかった。

「な、なんだ急に!」ラツェッドが困惑し、そして久悠の顔を見てさらに声が高くなる。「お前、どうして僕が住むマンションを知っている! さては事務所からずっと尾けてきたな? 変な違和感があったんだ」

 普段から挙動不審なラツェッドだが、プロの尾行に気付いていたのだとしたら中々の感性だ。

「尾行はおれじゃない、おれとはまた別の奴だ。おれはあんたに相談があってきた。おれ自身は極めて穏便に話をしたいと思っている。だが、あんたを尾行していた奴はそうじゃないかもしれない」

「どういうことだ」

「リュウとアオは?」

「なんで僕がそれに答えなきゃいけない。それよりさっきの質問に答えてくれ」

「安全確保が先だ。察しの通りあんたは尾けられていた。尾けていたのはおれを殺そうとした男だった。恐らくだが、間違いなく相手は殺し屋だ」

「恐らく? 間違いなく? こ、殺し屋? この時代に」

「あんたの部屋や、その途中のエレベーターや通路は危険かもしれない。本当ならお前を車に連れ帰ってこの場から立ち去りたい。それがあんたにとって一番安全な行動だろう。だがおれはあんたと同時にリュウとアオの安全を確保したい。だからまず教えてくれ。リュウとアオはどこにいる」

 ラツェッドは少しだけ考えてから、根負けしたというようにうな垂れて答えた。

「僕の部屋にいる。大丈夫、このマンションの部屋は広い。猫を飼うような飼育環境さえ整えておけば、中型竜の幼体を二匹くらい、人がいなくても大丈夫だ」

 彼が言い終わるのと同時に、久悠はエレベーターの横に非常階段を見つけた。重いスチール製の扉を開け、ひんやりとしたコンクリート造りの階段スペースにラツェッドと共に入る。白いLEDライトがコンクリートをさらに冷たく映し出している。上階の様子を確認しながら、久悠はラツェッドに合図し、ゆっくりと階段を上りはじめた。

「部屋は何階だ」

「……どうして僕がお前に部屋を教えなきゃいけない」

 久悠は徐々にイライラが積もりはじめていた。このラツェッドという男とやり取りしていると、それだけで疲労が溜まる。疑り深く、かといってそこまで頭の回転が早くない。マイナが毎日ストレスフルで酒を飲んでいた気持ちがよくわかる。

「おれはあんたと取り引きしたい」階段を上りながら、久悠は答えた。「おれの目的はリュウとアオだ。竜二匹を譲ってもらうためにおれはあんたに会いに来た。だが、あんたの帰宅したと思ったら、その後ろをスーツ姿の男が尾けていることに気付いた。見覚えのある奴だった。おれはそいつに殺されかけたんだ。その手際の良さから、奴は恐らく殺し屋だ。もしかしたらあんたは狙われているのかもしれない」

「人から恨みをかった覚えはないがね」

 自覚がないだけだろうと久悠は投げ返したかったが、それは余計な話なのでグッと堪えることにした。

「奴は、ある女性の名を口にしていた。リュウとアオの遺伝子を後天的に暗号化させた人物だ。おれが襲われた時、奴は彼女を探していた。関連があるとすればリュウとアオだろう」

「だったらそいつの狙いは僕というよりその二匹の竜じゃないのか?」

「だから!」久悠の声が狭い階段スペースに響き、慌てて口を塞いでから、小声で言い直した。「だから早く部屋が何階か教えろって言ってるんだ」

 ラツェッドはようやく頷いて、自室は五階にある504号室だと言った。二人は階段を駆け上がり、ラツェッドが汗を流しバテかけている中、久悠はマンション五階通路へと繋がる戸をゆっくりと開け、その隙間から辺りの様子を窺った。……いた。白い瞳の男だ。彼はエレベーターの前に立ち、やや苛立ち気にエレベーターの昇降ディスプレイを睨みつけている。なるほど、と久悠は思った。おそらく奴はラツェッドを尾行しマンションに入ったが、自分の後ろからだれか来る気配を悟ってこの階段に身を潜め、駆け上がって先回りし待ち伏せをしているのだ。奴にとっての誤算は、その後ろから来ただれかが久悠であったこと、久悠が白い瞳の男の存在を予め確認していたことだろう。もし彼が本当に殺し屋なら、その動きはやや軽率とも思われる。チンと音が鳴り、エレベーターが到着する。彼は身構えたが、当然ながら中にいるのはラツェッドではないので、肩から力を抜く。そんな彼を、エレベーターから出てきたタールスタングが殴りつけた。

「久悠。いるなら出てきていいぞ」タールスタングは気絶した男の首根っこを掴み、その身体を軽々と持ち上げながら言った。「こいつが殺し屋? だとしたらその業界は相当な人材不足だろうな」

 久悠は階段スペースから戸を開けて出ようとしたが、ラツェッドがその手を引いて首を振る。

「やめた方がいい。あいつはタールスタングという男だ。おそらくおれを恨んでる。あれは奴の罠だろう」

「あんた、本当に面倒くさいな」

「あ、待て!」

 久悠は逆にラツェッドの腕を掴むと、その手を引っ張ってタールスタングと合流した。タールスタングはすでに警察から受け取った自分の荷物の中のロープで男を拘束していた。

「よぉ、色男」

 タールスタングがラツェッドとの再会を歓迎する。

 一方のラツェッドは、タールスタングと目が合うや「ひっ」と怯えた風に身を引いた。

「ぼ、僕に何の用だタールスタング。さては報復に来たな?」

「あぁ、そうだな。心当たりは、当然あるよな?」

「あれは……仕方なかった!」

「仕方ないだ?」

「中で話そう」久悠が二人の間に割って入る。「それに、目的はタールスタングの報復じゃない。おれがあんたと取り引きするために来たんだ。穏便な取り引きだ。それが終わったら、おれたちはもうあんたに興味を示さないだろう。なぁ、タールスタング」

「おれは興味津々だがね」

 タールスタングがニッと笑い、ラツェッドが怯える。その手を久悠がさらに引くと、ラツェッドは観念して504号室の鍵を開けた。

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