第39話
戸が開くと、僅かな獣臭が中から漂ってきた。久悠はラツェッドの腕を掴むのも忘れ、ゆっくり中に入る。逃げ出そうとしたラツェッドだったが、タールスタングがあっけなく捕まえる。
ラツェッドの部屋は、玄関から真っ直ぐリビングへと廊下が続いていた。その途中にいくつか部屋があるようだが、明るく光るリビングの霞ガラスの戸の向こうで、小さな生き物が二つ動いた様子が見て取れた。あぁ……と声を漏らし、久悠は駆けだした。戸を開けると、そこで二匹の小さな竜が走り回っていた。黒い鱗と青い鱗の翼竜。鱗の色以外は瓜二つの双子の翼竜。リュウとアオだった。
「リュウ! アオ!」
久悠の存在に気付いた二匹の幼体は、久悠がそう名前を呼ぶ頃にはもう久悠に向かって翼を広げて飛びかかっていた。
〝久悠みつけた〟
表情がないはずの竜がまるで満面の笑みでいるかのように見えた。二匹の勢いは久悠を押し倒し、それでも久悠は二匹を抱きしめ、リュウもアオも久悠の顔をペロペロと舐めていた。
「なかなかいい部屋だな」タールスタングが気絶したままの殺し屋をソファに座らせながら言った。「中型竜の幼体なら二匹くらい余裕だったろうな」
「あぁ」ラツェッドは居場所がなさそうに突っ立っている。「というか、竜って鳴かないんだな」
「お前、ヘビやトカゲやワニの鳴き声を知ってるのか?」
「知らないな」
「おれも知らない。なぜなら、そいつらは鳴かないからだ。竜も同じだ」
「なるほど。そのおかげで近所迷惑にもならず助かっている」
「立ち話もなんだ。お前も座れ」
「殺し屋の隣にか? 断るね。そもそもここは僕の部屋だ。君たちは好きにくつろげばいい」ラツェッドはそう言うと、リビングの窓側の壁に寄りかかった。「それよりも、感動のご対面のところ悪いが、僕は今から警察を呼ぼうと思っている。これは不法侵入だ。それに脅されもした。暴力も受けた。そしてなにより、僕はその二匹の竜をだれかに譲るつもりはない。ましてやこれだけの要因がある中でこのように毅然とした態度を振る舞う僕の心的負担も相当なものだ。なんらかの補填はしてもらう。覚悟しておけ」
「だそうだ久悠。お前、この後どうするつもりなんだ」
タールスタングは気絶した殺し屋の横にドンと座った。反動でその白い瞳の男が目を覚ます。「よぉ」と、タールスタングは彼に軽く挨拶をした。
「警察は呼んでもらって構わない」リュウとアオとの激しい挨拶を終え、久悠は二匹を抱えながら立ち上がった。「だがその男を託すところまでだ。そのあと、おれはあんたと取り引きをしたい」
「君の提案はそれに値する内容なんだろうな?」
「どうかな。判断するのはあんただ。取り引きの内容が気に入らなければ、そこで改めて警察を呼べ。おれたちのことなんて好きにすればいい」
しばらく久悠とラツェッドは睨み合った。
「この二人、なんか似てると思わないか」タールスタングが殺し屋に囁いた。「どちらも間抜けな感じでいい味だしていやがる」
彼は否定も肯定もせず沈黙していた。
「いいだろう」ラツェッドが言って、白い瞳の男の前にしゃがみ込む。「君はだれだ。なんのために僕を尾行していた」
「正直に話すわけないだろう。さっさと警察を呼べばいい」
「ウェルメを探してるのか?」久悠が聞いた。
「……あの時の男か。なぜお前がここに居る」
「こっちもそれを聞いている」
「お前がここにいるなら……そうだな。少しだけ話してやる。おれはすでにウェルメを見つけ出した。だが、肝心の情報を持っていなかった」
「……殺したのか?」
「殺した? なぜそう思う」
「あんたが殺し屋だからだ」
白い瞳の男はそれを聞いて笑い出した。
「殺し屋? おれがか? ……あぁ、確かにおれはお前を殺そうとしたからな。それに多少は対人戦闘の心得もある。だがおれは別に殺しを生業にはしていないし、これまでに人を殺したこともない」
「なんだよ。久悠の早とちりか」タールスタングがぼやく。「本当に間抜けな男だ」
久悠はタールスタングを睨むが、すぐに視線を白い瞳の男に戻した。
「肝心の情報っていうのはなんだ」
「ウェルメのクローンが優秀な科学者でね。ヒトゲノムの後天的完全暗号化実現のための研究チームに所属させていた。彼女はそこで重要な発見をしたんだが、その成果をチームに共有しないまま姿を消した」
「重要な発見ってのはなんだ」
タールスタングが聞く。男は答えようとしなかったが、代わりに久悠が言った。
「だからこの二匹の竜を探してここまで来たのか」
遺伝子の暗号化が成功したこの二匹をサンプルとして手に入れるために。
男は頷いた。
「鱗一枚でもあればいいんだ。そうすれば彼女の成果を多少なりとも理解できる可能性がある。論文を書いて科学誌に掲載されれば、人間の違法クローン問題は解決に向かうだろう。家庭で手軽に命をDIYできる時代がやっと終わるんだ。おれは世界を救いたい」
「事情はわかった」ラツェッドが立ち上がり、男を見下す。「あとは警察に話せ。おれはお前に興味がない」
しばらくして、ラツェッドが呼んだ警察が白い瞳の男とタールスタングを連れて行った。
「おい、なんでおれまで拘束されるんだ!」
タールスタングは騒いだが、それがよくなかった。警察は複数人でその巨体を押さえつけ、鎮静剤を打ち、大人しくなった彼を抱えて出ていった。
「間抜けな男だ」ラツェッドが言う。「似てるな。お前たちは」
「どこがだ」と久悠は不快感を露わにした。「それよりも、ようやくこれであんたと取り引きができる」
リュウとアオは男二人の話など素知らぬ様子で、二匹で走り回りじゃれ合っている。
「期待外れだったらまた警察を呼ぶからな」
「気に入ってくれることを願うさ」
久悠はポケットから黒と青の何らかの鱗が入った透明袋とメモリーカードを取り出した。
「それは?」神妙な表情でラツェッドが聞く。
「リュウとアオの鱗だ。遺伝子を暗号化する前の」久悠が言うとラツェッドが息を呑む。「そしてこのメモリーカードには、リュウとアオの遺伝子暗号化前の全ゲノム情報と、繁殖のために必要な〈Dコード〉となるアミノ酸の三次元構造が記録されている」
鱗はウェルメにリュウとアオの遺伝子暗号化を依頼したときの物だ。メモリーカードは、混合溶液が送られてきたときに受け取ったものだった。
「おれがあんたと取り引きしたい内容はこうだ。リュウとアオの二匹と、今見せた鱗とメモリーカードを交換したい」
ラツェッドはしばらく考えてから、静かに口を開いた。
「本物なのか?」
「本物だ」
「それをどうやって信じればいい」
「DNA走査をしてみればいい。調べれば本物だとわかるはずだ」
「今すぐ調べるなんて無理だ」
「それなら、もし偽物だったらいつでもリュウとアオを取り返しに来い。おれは逃げも隠れもしない」
「それこそ本当か?」
「いずれにしても信じてもらうしかない」
「あまりにお前主導な取引だな。それにもし仮に信じるとしてもだ。お前、その鱗とメモリーカードがどういうものかわかって言ってるのか」
「大方は」と久悠は頷く。
ラツェッドは「頭がおかしいのか」と呟いてから、そして続けた。「絶版品種であり芸術的な美しさから、一匹の値段が大型翼竜を遥かに超える価格になっているセレストウィングドラゴンの繁殖権を手にするということだ。お前はそれを手放そうというのか? その二匹の竜のために」
「そうだ」
「なぜだ」
「繁殖権も、それによって得られる富やなんかにも興味がない。おれはこいつらじゃないとダメなんだ」
「わからないな」
「だろうな。だからこそ、この取り引きは成立すると踏んでいる」
「だが、それは少し早計じゃないか? おれはACMSだ。立場上、暗号化されていない竜の遺伝子が存在し、その著作権者が不在であるなら、その管理は第三者には任せられない。その鱗とメモリーカードは、我々ACMSが適切に管理する必要がある」
「……と言うと?」
「リュウもアオも渡さない。お前が持つその鱗とメモリーカードは接収する。つまり、取り引きは不成立……。お前はなにも得られないというわけだ」
ラツェッドは淡々とそう言い「残念だったな」と付け加えた。
「そうか」
なにも得られないだけじゃない。そうなれば、おれは本当にすべてを失うことになるだろう。住む家も。愛した人も。お世話になった人たちも。銃も。竜も。信念すらも。しかしそれでも、久悠は意志を強く持とうとしていた。
駆け引きだ。
「じゃあこの鱗とメモリーカードは、こうするしかないな」
久悠はもう一つのポケットからライターを取り出して火をつけ、それを鱗とメモリーカードに近づけた。
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