第26話
九泊一〇日ぶりに久悠とレクトアはシェルターへと戻ってきた。翌日から二人は通常業務に戻り、清々しい空気に包まれた早朝、久悠は久々にリュウと高原で走り回り遊んだ。
〝久悠みつけた〟
まるでリュウはそう言ってくれているかのようにはしゃぎ、羽を羽ばたかせて空を飛び、露が残る草地に転がった。勢いよく抱き着かれると、たった一〇日会わなかっただけなのに身体はだいぶ重く大きくなったと感じた。アオや他の小さな竜たちも混ざって、もみくちゃになって遊ぶ。
そうしていると、珍しくマイナから音声通信が入った。
「久悠さん。よかった、繋がって」
何かから隠れているかのような小声ながら、切迫した声調のマイナだった。突然遊ぶことをやめた久悠に竜たちが纏わりつく。
「どうした」久悠は息を整えながら言った。
「急いでリュウくんとアオくんを連れてシェルターから逃げてください」
「どういうことだ」
「告知なしの強制立ち入り調査が実施されます」
「気付かれたのか」
「少し違います。というかそのシェルター、あとレクトアさん、信用できる人ですか? 大丈夫ですか?」
「どういう意味だ」
「今は時間が。とにかく久悠さんはリュウくんたちを――あっ」
「マイナ?」ガサガサとした雑音が聞こえ、そしてしばらく無音になった。「マイナ。どうした」と久悠は呼びかけるが、やがて通信は終了してしまった。
「どうしたの?」
草原の中央に立ち、竜たちが纏わりつく久悠の元へレクトアがやってきた。
「ACMSが告知なしの立ち入り調査を計画しているらしい」
「うそ。いつ」
「聞けなかったが、急いだほうがいいみたいだ」
「そう……」
「二匹の痕跡は完全に消していたはずだ。餌代や糞便処理といった書類上にも不可解な点はなかったはず。それなのにどうして――」
「久悠くん」と、レクトアは久悠の手を引いた。「ちょっと見てほしいものが」
「いや。それより今はリュウとアオを」
「ううん。それよりも今は見てほしいものがあるの」
リュウとアオ以上に重要なものなのか問いかけると、彼女は黙って歩きはじめた。向かったのは、あの大型竜専用竜舎――その横に最近増設されたガラス張りの温室だった。陽の光が大量に降り注ぎ、中は熱帯を超える気温になっている。目線高さのガラスはくすみガラスになっていて、外から中の様子を伺うことはできない。
「来て」と手を引かれて中に入ると、温室の中央に巨大な卵が置かれていた。ダチョウの卵よりも大きなものだ。久悠には見覚えがあった。ACMSによる監査とバハムートの産卵が重なってしまい、久悠は監査どころの騒ぎではなかった。産卵に苦しみ暴れる竜王に鎮静剤を注射し、それでもどこかからエネルギーを湧き出させて動こうとする彼女を久悠は必死になだめていた。卵は人一人では抱えられない重さで、もう一人の男性職員と一緒に運び出していた。それが気付けばこんな所に安置されている。それも――孵化装置に乗せられて?
「……なにをしてるんだ。ここで」
温室内の温度は五〇度を超えている。それなのに久悠は寒気を感じた。セレストウィングドラゴンの亜種である漆黒の翼竜、リュウ。そして青い鱗を持つ正統なセレストウィングドラゴン遺伝子を継ぐアオ。彼らの生誕の謎が、今、目の前にあるのだと直感した。久悠の瞳にはレクトアが映っていた。はじめて会った時から不思議な雰囲気を纏った女性だった。密かに気になっていた。彼女にまた会えた時はうれしかった。彼女と共に働くことになり密かに浮かれていた。射撃場からの帰り道の言葉は聞こえないふりをしていたが、実のところ今も耳に刻まれている。「好き」。リニアクライマーでの往復八〇時間、久悠はそこでようやく自分が彼女を愛していいのだと気付くことができた。
「久悠くんは、だれとでもいいの?」
ベッドの中、裸のままそう零した彼女が愛おしかった。
「そんなわけない。あんたに触れていいか、今までわからなかった」
そう言うと彼女は久悠を抱きしめ、二人はまた身を一つにした。
「〈メチルロック〉の解除」
現実の彼女の言葉に久悠はハッと意識を戻した。今、彼女はなんと言っただろうか。本来であればできないことをやったと言っているのだろうか。
「もちろん〈Dコード〉は使ってないよ」
「どういうことだ」と、久悠は聞くことしかできない。
「古き良き技術。二〇〇七年三月、〈サイエンス〉にはじめてその名が掲載されたCRISPRによるゲノム編集技術。私たちはここでそれを用い、バハムートの卵の孵化を試みている」
CRISPR。
遺伝子の任意の部分を切断し修復する機能を持つそれは人類にゲノム編集技術をもたらし、彼女が言ったその年から五〇年後、人類から遺伝子病や精神心疾患、知的障害、発達障害は絶滅した。人類は遺伝子の不良をワクチン接種のような注射によってそれらを完治させていた。過去にはこの表現――つまり特性に対し優劣をつけることが差別的だと非難されることもあったが、それらが消失してからそれを気にする者はいなくなっている。静脈に投与されたCRISPRは骨髄の中で幹細胞系に作用し、修復すべき塩基配列を発見するとそれを切断し、新たな塩基配列を生成させる。それによって人類は等しく優秀になった。喜怒哀楽の感情は失われないまま、人々は穏やかで、安定し、一度はAIに奪われた仕事を取り戻すこともできた。その優秀さは次世代に遺伝し、レクトアや久悠はCRISPRの投与を受けずとも、生まれた時からすでに優秀だった。
「その技術による〈メチルロック〉の突破は過去に幾千回と試みられていたはずだ。それを突破させないための〈メチルロック〉技術だ。どうして今になってできたのかわからない。……ありえない」
「今になったからできたの。人間は、できなかったことをできるようにしていく種族」
知ってる? とレクトアは語った。人類史において技術革新が起きる時、実は世界各地で似たような研究が成され似たような結果を得ることができている。そして新たな技術は世界各地でほぼ同時に生み出され、歴史に刻まれる名前と特許の争いが起きる。
「私たちは〈メチルロック〉を突破する技術を研究していた。どんな結果になるかわからなかったから、シェルターから離れた山奥でその試験をしていた」
「まさか」
「そのとおり。君が出会ったセレストウィングドラゴン。彼女が産んだ卵には、私たちが開発した数値の異なるいくつかの試薬が添加されていた。そのうちの一つから、リュウくんが生まれた。投与後に胚の分裂は開始されたけど、染色体異常による
先天性の突然変異による偶然の生誕ではなかったのか。しかし万に一つも起こらないだろう奇跡的なその確率と比べれば、今のレクトアの話が可能性としては高い。
「でもまさか、後天的に〈メチルロック〉を引き起こす溶液が完成していたなんて驚いた」
ウェルメから送られてきた混合溶液のことだ。
「どうして革新技術は世界各地でほぼ同時に起こると思う?」レクトアは久悠の返答を待たずに続けた。「それは、基礎研究の発展が科学技術のすべてを支えているから。企業や大学に所属する名もなき研究者たちの小さな発見が、果ては宇宙規模の技術革新に至っている。私たち人類の遺伝子を大きく変えたCRISPR技術も、始まりはヨーグルト企業に所属するミルクの発酵を研究する社員の発見らしいよ。つまり、生命工学界隈の基礎研究はついに〈メチルロック〉に干渉することができる領域に達しているということ。あとはどのように応用研究をしていくか。久悠くんの知り合いの人は人類の遺伝子の〈メチルロック〉化を。私は人工生物の〈メチルロック〉解除を研究して、きっとこれらはほぼ同時に完成されようとしている。まぁでも私たちの場合〈メチルロック〉を突破したと言っても、
レクトアは温室中央の卵の下部から卵の内部に向けてライトをつけた。殻を透けて、薄っすらと内部が見える。血管が複雑に入り乱れ、その中央に卵黄の影と、それに接続される勾玉状の影がくっついていた。レクトアは、うっとりとした口調で言う。
「神秘的な光景。そう思うでしょ?」
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